カール・ツアイス社の栄光の日々 ― 2007/03/19 00:38

私は旧東西ドイツの切手を収集しているが、その中で取り分け印象が強いのが、東ドイツが1956年11月に発行したカールツアイス創業110年記念切手である。カール・ツアイス(1816-1888)とエルンスト・アッベ(1840-1905)が協力して設立されたのが、カール・ツアイス社であり、1846年に旧東ドイツ側のイエナで創業された。エルンスト・アッベの名前はレンズ設計や加工の関係者にとっては、知らないものが無い程の名前であり、例えば、光学ガラスにおける可視光領域の散乱度を表す指数として、アッベ数が知られている。
こうして、カール・ツアイス社は、当初は、顕微鏡製造の為の工房に過ぎなかったのが、世界最高水準に光学機器会社として繁栄する事になった。
面白いのは、アッベが社会主義的な思想を持っていた事で、①資本家の搾取が無い組織、②技術開発によって不断に人類の福祉に貢献すると言う理念を掲げていたこと事だ。
カール・ツアイス社は写真技術の発展と共に、カメラメーカーとして知られる様になり、コンタックスⅠ、Ⅱ型を開発し、当時、世界最高のレンズとされたゾナーF2のレンズが装着されていた。
下の写真のコンタックスⅡa(これは、戦後の西側のカール・ツアイス社が製造したカメラ)に装着されているのは、戦前に製造された紛れもないカール・ツアイスイエナ社のソナー2(沈胴タイプ)である。
カール・ツアイスイエナのゾナーの写りは、実に素晴らしい。戦前のレンズなのでコーティングされていないにもかかわらず、描写は緻密でコントラスト、色調等素晴らしい。特にバラの写真を写せば、ドイツカメラならではの写りが楽しめる。
カール・ツアイス社は、第2次世界大戦後にイエナがソ連に占領された為にその生産設備や技術者がソ連本国に連行され、ソ連製のコンタックスⅡ、Ⅲのコピーカメラであるキエフが製造される元となる。
ソ連の占領に先んじて、米軍がイエナに入って、技術者を西側に引き抜いて設立されたのが、ツアイス・オプトン社で写真のコンタックスⅡaは、オプトン社で製造された。
カール・ツアイス社は、その後、戦前の勢いはなくなり、コンタックスブランドも周知の通り、日本のカメラメーカーが受け継いだり、レンズもカール・ツアイスのバリオゾナーやプラナー等の名前を冠したレンズが日本で製造されているが、これらは、本家のカメラとは似ても似つかない。
ところが、東側の旧ソ連で製造されているジュピター8は、ゾナーのコピーであり、状態の良いものは、オリジナルの片鱗を少しだけうかがわせる写りを見せてくれる。
銀塩・機械(金属)カメラが最も素晴らしかった時代、それが、カール・ツアイスイエナ社の時代だ。
新ロマン主義の地平線 ― 2007/03/19 22:53

今朝のPCM放送を聞かれた方があるだろうか。
クリスチァン・ツィメルマンがピアノを弾き振りしたショパンのピアノコンチェルト1番(POCG-10245/6)である。
最初の序奏を聞いただけで、その意味深さにとらわれずにはおられなかった。そこには、ショパンの孤独で透明な哀しさが溢れていたからである。
ポーランド祝祭管弦楽団のソノリティは、地味で内面的であるが、その表現の繊細さには驚かされた。
具体的には、管楽器と弦楽器が対等のバランスで旋律の橋渡しをするが、その歌い方が緻密に統一されているので、有機的な一体感が保たれている。
序奏の後にあの主題が登場するが、それは、ショパンの歌、そのものである。
それは、放物線を描くかの様な盛り上がりを見せた後、ピアノパートが登場する直前の哀しみの歌わせ方で、ほぼこの曲の全てが表現しつくされたと言っても過言ではない。
ピアノはツィメルマンらしい内面的でしかもデリケート、どんなに速いフレーズでも静謐で、深い響きが保たれている。遠くから聞こえてくる感じなのである。
驚くべきは、弦楽器のパートを掛け合いになっている時、管楽器とのそれとでは、見事に音色を弾き分けている事である。
背後にホルンが仄かに響いている時には、ペダルを踏み込み際に、少し遅らせ気味にすると響きに奥行きが産まれるのである。
しかし、それよりも驚かされたのは、第2楽章Romance Largettoの今までに聞いた事が無い表現である。実に諦観に満ち、秋の空の寂しさを想わせるような澄み切った歌が歌われる。1つ1つのフレーズが大切に大切に歌われていく。感極まった部分では、弦楽器のポルタメントが絶妙である。
20世紀後半のショパンのピアノコンチェルトの管弦楽伴奏では、この様なポルタメント技法は用いられなかった。
まさに、19世紀のロマン主義音楽の復活である。しかし、メンゲルベルクやブルーノワルターがモーツアルトのシンフォニーで見せた様な形式的なものではない。
ショパンのスコアを元に精密に分析し、フレーズの特長を客観的に把握し、それがツィメルマンの感性が融合され、ここぞと思われる部分に効果的に使用されており、恣意的なポルタメントではない。
これまで、私はショパンのピアノコンチェルトの管弦楽部分には、低い評価しか与える事が出来なかった。これは、ロベルト・シューマンのあのイ短調のバイオリン協奏曲と同様に管弦楽法の未熟さによるものだと思っていた。
ところが違ったのである。つまり、20世紀的なノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)的な器楽的なフレージングで演奏される様にこの曲は、作曲されていなかったのだ。
ショパンは、この曲で、ピアノと管弦楽に心から歌う事を求めたのであり、機械的な技巧の披露ではない。
管弦楽演奏における歌謡性の復活、これこそが21世紀の「新ロマン主義」に向けた新たな地平線の発見に他ならないと思う。
今日の夕方にこのCDを早速、購ってしまったが、貴重な1枚になる事だろう。
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