FM復活2008/04/01 00:16

 最近、FMの受信を復活した。
 NHKFMでもどうゆう訳かクラシックの音楽番組が増えたので、特に午後からの番組等、結構くつろげる。
 PCM放送のクラシック7も聞いているが、こちらは、音質は良好だが、どうも選曲に偏りがあって時々、聞いておれない事もある。
 FMの場合は、歌謡曲とかもあるが、なんというか放送されているという感じがゆとりというかマッタリ感を与えてくれる。
 機材は、FMチューナーが壊れて漏電する様になったので粗大ゴミに出してしまった為にケンウッドのパーソナルステレオシステムからラインでアンプに入力して聞いている。
 ケンウッドのこのシステムは、以前、棚に固定する時にねじ釘がキャビネットを突き抜けてしまって、ショート故障したので、修理に出したが、修理不可能という事で、特別価格で修理代品として購入し直した愛着というか因縁の深い機械である。
 ケンウッドの十三の工場は町工場といった感じで、あまりにもボロイので驚いた経験がある。
 この機械、前面にヘッドフォン端子がないので、アンプにつながないとヘッドフォンで簡単に聞けない。また、アンプと大型SPの方が音が良くなる。
 私の住んでいる地域は、FM電波が悪いので、TV用ブースターで増幅したものを同軸ケーブルで、ケンウッドのシステムのロッドアンテナの根元の穴に同軸の芯の銅銭を巻き付けて聞いている。
 これだけで、チュージュジュルといった音が消える。
 午後1時からの歌謡スクランブルという番組はご機嫌に演歌が良い音でなるが、次の番組のクラシックのピアノ音楽になった途端に歪みが目立つ。
 でもなんとか聞ける程度なので、時々はこれでライブ放送等を聞いてみたいと思う。
 この機械は、ラインからPCM放送、MD、CDと結構、アンチョコに楽しめるので、最近では、大げさな機械よりも、これで簡単に聞く機会が多い。
 接続しているアンプは、真空管6L6GCシングル(三栄無線のキットを10年位前に組み立てたもの)にヘッドファン端子をつける改造を行っている。
 部品を交換したり、線の引き回しの工夫等で、ヘッドフォンで聞いてもブーンといった音は全く聞こえず、十分柔らかな音が楽しめる。

ラベリング2008/04/01 13:10

 今まで以上に道を歩く時、人の視線を気にしなければならなくなった。どんどん自分が日陰者に追いやられていく気がする。
 4月1日からメタボ検診が義務づけられ、肥えた人間は、「要注意人物」のレッテルを貼られ、新たなラベリングが行われる事になる。
  H.S.ベッカーの『アウトサイダーズ』によれば、ラベリングされること自体が社会自体にそれ程、大きな影響を与える事は無いが、ラベリングを他の要素に利用する事で、新たな身分・格差社会、やがては社会病理に至る状況を産み出す。
 メタボのラベリング・烙印を押された人間は、他の人間と異なるとの意識を常に持つ様になる。ふとした契機で、不利な状況に置かれた時、「自分は普通の人間とは異なる。」というアウトサイダーの意識を持つようになり、同様の意識を持った人間と共に集団化が行われる。
 また、企業でもメタボ検診の結果、改善を社員に勧告するが、具体的にメタボを解消する有効策は示されず、そのままの状況にいると、昇進コースから外され、やがては解雇されるという状況にもつながる。
 企業にとっては、絶好の「人減らし」の口実となる。アメリカ社会では、特に、肥えている人間は、自己管理能力がないとか、下層志向という事で徐々にラインから外れていく。
 一方で、メタボ検診の義務づけは、製薬業界に大きな利益をもたらす。医薬品やトレーニング器具等の販売増収につながる。
 政府がメタボ検診を義務づけた理由としては、医療費用の軽減を目的としているが、その様な効果が期待出来ないだろう。
 新たな人間選別の機会を増やすことで企業社会の縦型構造を一層、堅固にしようとする目論みなのかと疑いたくなる。
 以前、全P連という肥満者の権利を守る団体があったが、これも、いつの間にか雲散霧消で、今では、全P連とは、全国ピアノ輸送業者の組合組織になってしまっている。
 写真は、防風通聖散という薬で、便乗商品としてロート製薬が売り出している。
 1袋2千円近くするが、試してみたが、逆に体重が増えてしまった。全く効果は期待出来ない。それどころか、肝機能障害や、血圧が急上昇する副作用が強い。私もこの薬を飲んで血圧が20も上がってしまった。
 そもそも薬で人間が痩せる筈はないが、こういった製薬メーカーがはびこる事になるから困ったものだ。

大植と大フィル団員の不協和音を聞かされた2008/04/01 23:10

大植英次が大フィルを指揮して演奏したベルリオーズの幻想交響曲がNHK教育TVで放映された。
 「オーケストラの森」という番組であったが、あちらこちらブログを見ている限りでは、肯定的な評価が多いようだ。
http://blog.goo.ne.jp/hanahana34_002/e/e6a3bbf173429f3cd52b2edcab76e6cd
http://d.hatena.ne.jp/chilican/20080330/1206884216
 7面相というか見ていると奇妙なくらいに顔の表情や身体が動く。TVカメラでよって映しているから一層、強調されている。遠くから見れば、あれで「表情豊かだね~」
という感じか。
 麻薬を飲んで恋人の幻想に悩まされる青年の霊が指揮者にそのまま乗り移った様なパフォーマンスであれはあれで面白いが、他の曲でもあんな風になるのか、どうなのか、それが気になる。
 目をつぶって聞いてみると、大フィルの弦楽器がこれまでに無い演奏をしている。大フィルは、不器用なオーケストラで特に、交響曲の第1楽章等の未だ曲にノリきっていない時にミスやアンサンブルの乱れが多発するが、今回は、そうした乱れは殆どない。少し、第2ヴァイオリンのセクションがズレかかると、「どついたろか~」といった怖い顔で団員をにらみつけると、その女性奏者は、ビクビクして弾いていた。
 弦のリズムが鍵盤楽器の様に鮮やかに表現される。つまり、運弓法で、力点がそれまでの大フィルは、微妙にそれぞれの奏者でずれていたのが点でピッタリと合わさっている。相当な練習(アマオケの特訓並みのプロとしてのプライドも捨てさせられる程の練習)が行われたのに違いない。
 驚くべきは、第5楽章のコルレーニョという弓の背中で弦を叩く奏法があるのだが、このリズムが一糸乱れずに「チャッチャチャチャ」って聞こえるところ。以前の大フィルや殆どのオーケストラでは、「ジャーララッラララ」って感じにずれるのが普通。ここも稽古を重ねたというか特訓させられたのだろう。
 恐るべきだ。
 しかし、従来の大フィルが持っていた弦の包み込むような包容力や響き柔らかさといったものは全て失われてしまった。それで楽曲の構造がよく把握出来て、デジタリスティック(勝手な造語である)な精細度が発揮されるが、同時にトゥッティの汚い響き、特にクレッシェンドしていた時に響きが非常に荒く、無機質に聞こえる点は、どうしようもない。
 大フィルの弦楽器群の限界がここで浮かび上がる。つまり、音の入りは正確に合わせる事は修得したが、そのソノリティの統一、ダイナミックスの精密さを獲得する迄には至っていない点である。
 おそらく大植は、この点について奏者にさんざんなクレームをつけたに違いない。罵声さえ浴びせたかもしれない。
 とにかくビデオに収録している人は見て欲しいが、元コンマスの1stヴァイオリン奏者の冷たいというか捕虜収容所の所長を囚人がみるような敵意を持った視線、団員達の険しい表情は、大植と団員達の不協和音を現しているのではないか。とにかく不信感に満ちている。
 そうした団員達の不信は、更に、次に指摘する点に顕れる。
 それは、良くフレーズを聞き込んでみると全く同じアーティキュレーションをとっているのはなく、全て、細部で即興的に変化している。それにも団員達は懸命についていっているというよりもついていかされているのだ。
 こうした演奏は、かのメンゲルベルクのチャイコフスキーの悲愴交響曲にも見られるもので、指揮者の独裁性が発揮されている。つまり、指先一本で指図されるのに奴隷の様に楽員達はついて行かされている。
 それは、第5楽章のコーダの部分でフルベンのバイロイト第9の最後の様なクレージーなアッチェルランドに収斂されている。
 最後の最後まで大植氏の気まぐれに翻弄されつづける。
 聞いていて、感心はしたが、けっして、楽しめる様な演奏ではなかった。大フィルもこんな指揮者の支配下に入って不幸だと思う。
 大植は、日本人初のバイロイト音楽祭での指揮を行った栄誉に輝いたが、その栄誉も数回の公演で終わった。
 歌手達の演奏とバックを支えるオーケストラが旨く溶け合わなかった為である。
 大植の指揮では、バイロイトのワーグナーの持つ包容力のある大らかさが表現出来る筈はない。
 今回の演奏を聴いて合点がいった。