無感動・無神経2008/05/20 09:43

中国四川省地震は、目を覆いたくなる様な惨状となっている。
地震が起こるまでは、全く変わらない日常の暮らしがあった訳だから、尚更、この災害の恐ろしさを感じる。

佛教大学には、中国学科がある。
中国学科には、中国留学等のコースもあり、文化交流も続けているが、
今回の地震について、どの様に感じているのだろう。

大学のWEBでは、野球部のリーグ優勝、美山町の米米クラブの活動等、楽しい記事が満載であるが、中国の震災や、チベットの弾圧問題などにはまったく触れていない。

先般の米国のイラク侵略と自衛隊出兵に関しては、社会学部教授陣が反対声明を発表している。
http://subwww.bukkyo-u.ac.jp/view/dsc_tpc.php?id=271&place=top&from=310

ところが、最近は、こういった問題には佛大は無反応と言うか、全般に無感動・無神経となっている様な気がする。

というよりも数年前には、こうした連動を直ぐにWEBやその他外部に反応を示す構造的な機能を持っていたのが、学長体制が変わった為に、それが出来なくなったというか、敢えて、この様な無感動・無神経の機械的な方向に変化してしまったというべきか。

開学100周年云々をするよりも、こうした点で、大学の姿勢として大切だとおもうのだが。

「無感動・無神経」の極致!無惨にも破壊し尽くされた大阪市民の憩いの花園2008/05/20 22:23

 佛教大学の記事で、「無感動・無神経」と書いたが、これは、今の世の中全体に言えることなんだと今日は痛感した次第。
 写真は、中之島バラ園で、上は、今日撮影して来たもの。下は、2年前の同じ場所。
 同じ場所とは思えないでしょう。
 市民の憩いの場であったバラ園が、突如として、この様に根こそぎ破壊されてしまった。
 跡地で、ビーチバレーの催しが開催されるということでこの美しい花園でお弁当を食べるのが楽しみだった私の楽しみは、永久に失われてしまった。
  この美しいバラ園は、1、2年で出来るのではない。少なくとも20年以上かけないとこれくらいの見事な花を咲かせる事が出来ないのに、つまらない催しの為に根こそぎである。
 せめてバラの開花時期が終わるまでは待って欲しかった。
 毎年バラの花をここで見るのを楽しみにしている人達は多い。あるオバサンは、声を震わせて「許せない」と叫んでいた。
 市民には全く告知されないまま、こんな美しいバラ園が一夜にして破壊され尽くしてしまうことが許されるのだろうか。
 チューリップ等の花をちょん切る軽犯罪者に比べたら、これは、遙かに重い罪悪だと思う
 傍観者の私ですらこんなに心が痛むのに、ましてやこの場所でバラの花を丹精込めて育てていた心を無惨にも踏みにじられた無念さはどんなだろう。
 数年前に、この場所で一夜の露を凌いでいたホームレスの人達を追い払い、今度は、市民の憩いの場所を破壊する大阪市のやり方に誰も文句をつける人はいない。
 これが京都市であれば、大騒ぎだと思う。京都市の場合であれば、こうした動きを内輪情報で察知し、それが市民団体に伝わって事前の反対運動につながる筈だが、大阪市の場合は、市民のネットワークが存在しないので、なすがままである。
 まさに「無感動・無神経」である。

まさに茶番劇のパブリックコメント2008/05/20 22:37

 中之島バラ園の破壊というあまりにも酷い出来事がどの様にして決定されたか、その経緯を調べてみると、次のパブリックコメントのWEBに行き当たった。
http://www.city.osaka.jp/yutoritomidori/topics/info/park/20070727.html

 どこにもバラ園を無惨にも破壊し尽くすということは書かれておらず、抽象的な言葉の羅列である。
 従って、抽象には抽象でパブリックコメントも実際にどの様な事がされるのか何も理解していないままに答えているようだ。

 「実に愚かな民のものどもよ。」と市当局の関係者がほくそ笑んでいる有様が目に浮かぶ。

 結局、何が必要なのか、無感動、無関心、無表情の根源となっている想像力の欠如がこの様な状況を産み出してしまった。

 公園の改修工事が行われると、どの様なことが起こるのか、景観破壊といった状況も想像力がなければ、イメージとして浮かんでこない。

 地域運動というのは、やはり、一番大事なのは、イメージ力、創造力だと思う。

 
 写真は、毎年バラ園を見に来ているおばあちゃん。今年は、通行制限で綺麗なバラの花を見る事も出来なかったようだ。