・・・・・・ 口頭試問終わり!(削除・改訂3回目)2008/08/31 14:38

  とにかく、口頭試問が無事終わったので、9月で卒業。
 
  口頭試問で私の読みづらい論文を査読していただいた小野田先生や安藤先生、どうもありがとうございました。

SP3のインストール2008/08/31 16:30

WINDOWSXPの自動更新機能の警告がウルサイので、根負けして、SP3をインストールしてドツボに嵌った。
 大量のデータファイルのダウンロードとインストールで、オーディオCD2枚が聴けてしまう位の無駄な時間が消費された。
 実際に何がどう変わったんだろう。
SP3でWindows XPは何が変わる
http://ascii.jp/elem/000/000/128/128879/
を見れば判るが、何も我々衆生の消費者に役に立つ変更・改善点はない。
やれやれ。

追加:やはり、ワナが待ちかまえていた。

「SP2でIE 7を利用しているユーザーは注意が必要だ。Windows UpdateによってSP3をインストールできるが、SP3に更新後はIE 7のアンインストールができなくなる。その場合、一度SP3を削除してSP2の状態に戻し、そのうえでIE 7の削除を行なわなければならない。これはセキュリティー上の理由だという。」

私も対象者になってしまった。

10.9GBの足跡2008/08/31 16:50

 真っ赤な夕陽である。
 私の部屋の窓から見える風景である。
 8月も終わりで、今年の夏も去っていく。
 佛大の生活も、卒業式を終えると、これで終わりである。(卒論の合否判定待ちだが。)
 佛教大学の通信教育課程で学ぶ様になって、私のパソコンには、3つのフォルダーが作成された。
 最初のフォルダーが「国文学研究」で通信修士課程を始めた時に作成した。現在のファイル容量は、962MB、ファイル数1977、フォルダ数112で、この中には、収集したデータや資料等も含まれている。
 2番目のフォルダーが「応用社会」で、ファイル容量は、5.54GB、ファイル数892、フォルダ数49。応用社会の場合は、撮影された映像が相当量あるので、こんなに大きなフォルダーになってしまった。
 天野先生とかの写真等も入っている。
 3番目のフォルダーが「仏教芸術」で菩提樹のアイコンである。
 ファイル容量4.40GB。ファイル数1331、フォルダ数47。やはり、大量の図像が収集されているので、これくらいになる。
 佛大の学習生活で約10.9GBのファイルが生成されたことになる。多いのか少ないのか。
 ファイルの容量よりもファイル数が学習活動を知るバロメータになる。一番多いのは、やはり国文学の修士で、2番目は、仏教芸術である。それ程、何もしていないのにファイルばっかりが膨らんでしまった。
 これらのデータをどの様に保存すべきか思案中。

ブーちゃんの映画2008/08/31 22:49

 論文の作成方法やその他もろもろの件について黒田先生にもメールを送っていろいろと教えていただいた。口頭試問も無事終わったことをご報告させていただくと、「それは、良かった。この映画も見て下さい。」とお返事をペンシルバニアから頂いた。

 ペンシルバニアでの研修日記、佛大通信9月号にも書かれているが、アメリカの大学の先生も命がけで教学に取り組まれておられるのだなと感心したし、その場に黒田先生が学ばれているという事実。
「きっと大変だろうな。自分では、絶対に意思・能力・体力の3点で真似出来ないことだ。」と思っている。

http://www.butaita.jp/

子供達がブーちゃんと学級飼育で友達となったのだけれども、その後は、どうなるかというストーリー(見ていないので判らない。)
少し、見てみたいような気もせんことはない。(黒田先生のご経験が映画になってしまったという。)

映画は、ブーちゃんの映画である。私の仕事も関係ないとは言えないが、どちらかと言えば、一層、仏教の立場からは罪深く、国文の黒田先生にも「職業には貴賤上下はないのだから。」と慰めの言葉を頂いたが、その様なお言葉をいただく様な卑しい職業の人間でもあることは事実である。

黒田先生は教育学部のエリート、数学の先生である。教育学科で学ぶ若い20代後半から30代前半の様な輝かしいチャンスに溢れた世代が教わる先生だと思う。(佛教大学通信で学ぶ若い人達が本当に羨ましい。私の様に50近くにもなってパラサイターでようやく学費が捻出出来るという信じがたい程度の低い人間もおるのだから。

私などが、本来は、御教示をいただくというのは筋違いなんだろうな。
でも、私はブーちゃんが好きだ。

頑張って下さいね。2008/08/31 23:01

 昨日の口頭試問の日、佛大の講堂の下の喫茶でコーヒー飲んでいたら、応用社会学の同窓の方にあった。
  久しぶりである。どうゆう訳か、私の論文のテーマ「全国菜の花プロジェクトネットワーク(プロジェクトリーダーの条件)」を全て、覚えて下さっていた。
 なんで、私の論題を覚えて下さっているのかは、論文の賞をめぐっての経緯なので、あまり書きたくないのでやめておくが、大学院に進学なさって活躍されている。
この方のホームページ
http://www1.odn.ne.jp/yuu-ho_my-life/
http://www.nanohana.gr.jp/index.php
 菜の花プロジェクトの皆さんにアンケート調査を御願いしたのが、3年前の夏のことで最近のことの様に覚えている。
  いろいろと障害が多い毎日であるが、それでも向学心衰えず、図書館に奥さんと一緒に通って日々研鑽を怠らずにおられる。
  私とは異なる人も多くいるのだと思う。

視点導入による表現とはなんであるか2008/08/31 23:21

 卒論の口頭試問の時にきちんと答えられなかった質問である。

 要するに、「知覚的欲求に導かれるままに描かれた視覚的光景の描写」というべきか。

 一層、判りにくくなってしまった。源氏物語に描かれた場面も映画もドラマも小説も、今、こうしてあなたが見ているこのディスプレー画面もそうである。

 「知覚的欲求」それは、仏教の立場から説明すれば、それは、「煩悩」である。

 「視点導入」の道筋、それは、「煩悩の流れ」を意味する。

 源氏物語の場面描写で、視点導入表現の行き着く先は、和歌の朗詠・男女の唱和である。

 それは、煩悩の行き着く先である。和歌の表現する世界は、場面を超越している。そして、その象徴性は、殆どの場合は、前栽の草木として表現されている。

 「人が小説や絵画、映画、ドラマ等で、視覚的光景を場面としてつくる時、それは、時間を止めていることだ。果たして、そこには、どの様な意義があるのか。」

 これが小野田先生の質問だった。

 ずっと一日考え続けていても判らない。
 一度、書いたブログコメントもそれが為に削除した。

 唯識と空との関係についても考えてみたが、和歌・前裁・象徴的存在が空という訳でもない。但し、時間、場面を越えた超越的な存在であることは確かである。

 以前、修士論文で場面の発話表現と和歌の関係についての模式図を作成したが、この辺りに関連してくるのかも知れない。

 視点導入の場面は、対座場面も行動場面の両者を包含する広い領域を支配しているが、和歌は、更に、それ以外の「見えない世界につながる何か」を持っている。

 それが作品全体の構想につながっているらしいという推測が立つ。

 つまり、小野田先生が言われた様に、「視点導入・場面を描くということは、結果的に、見えない世界に導かれる。作品の構成にも関与していく。」ということになるのだろうか。

 それが、結果的には、源氏物語の作品構想と仏教思想との関わり方を解き明かす、鍵になると教えて下さっているのかも知れない。

 特に若菜と柏木巻の背後には、大日経が関わっていると考えることも出来るが、それは、色々と調べて上で挙げてみたい。