叔父が亡くなった2008/09/27 00:12

 先週、叔父が亡くなった。私の家は、母方の家系が中心となっており、婿入り婚である。
 母方の祖父は、絵描きで、先妻の娘が叔父の家に嫁入りした為に姻戚関係となった。 私の母は、後妻の末娘。
 先妻の名前は、筆子と言って、スラッとした美しい体型であったようで、この血統の人間は、、エリート的な体格である。

 私の祖母は、私と似た体格である。

 駄目な方である。それでも、同じ祖母から生まれた画家の叔母は、K大学を出てフランスに留学しているから、駄目なのは、母親と私だけかも知れない。
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 この叔父の姿を最後に見たのは、祖母の葬式に現れた時で、高齢の為に山羊さんの様な感じになってしまっていたが、それから、13年も生きられたのだから天寿を全うしたと言えるだろう。

 叔父は、高名だが、全く威張ったところがない気さくな人だった。
 叔父の死は、両親との対話がないので、私には伝えられなかった。
 有名人で新聞にも死亡記事が載っていたので、知っていると思ったという。

 薄情なものだ。

 先週に叔父は肺炎で亡くなったが、同じ頃に、部屋を整理していたら、何やらパサッと落ちてきたものがある。

 不思議なことに叔父の死を知らないのに、祖父の没後展覧会の冊子で一族のものが文章を書いた追悼という本であり、床に落ちて、ページが開いたところに叔父の書いた文章が載っていた。

 従兄が誕生した時の出来事が書かれている。
 叔父と祖父の関わりは、宝塚少女歌劇が出来る以前からである。演劇をの仕事を始めていた叔父と芝居好きというかマニアで自分でも舞台に立つ程のもの好きな祖父とウマがあったのだろう。

 その後、阪急の社長等との関わりが出来て、宝塚少女歌劇が誕生した。(当時、池田に住んでいたのもこうした関わりがあった為だろう。)

 当時の宝塚劇場は、音楽ホールとして使われており、シゲティやティボー、メッテル(朝比奈の師匠)等も舞台に立っていた。

 私も幼い時に色々と芝居を見せてもらっており、舞台とか場面とかそういったことに関心を持つようになっていた。
 源氏物語の芝居もみた様な気がする。

 論文の「源氏物語の絵画化の手法」で特に取りあげた視点導入とか登場人物の発話(会話)、場面のクライマックスと構成の焦点との関係等は、こうした舞台を見せてもらった幼児期の経験が活きているのかも知れない。
 
 叔父は宝塚で有名なので、お葬式等は、末娘の遠い親戚の家系のものが行くべきではなかったようだ。

 両親、どちらも、告別式に出席しなかった。遠い親戚と言うわけだろう。

 しかし、不思議というか、ベッドの横にこの文章を置いて、漫然と眺めていた時に、叔父の死を初めて知ったのだった。
 何か、そういった叔父の導きなのかもしれない。
 やがて、この文集に文章を書いている人達は全てこの世から居らなくなってしまうのだろうが、その時も何事か起こるのだろうか。

大量のメモ帳に書き込まれている論文の構想とエッセンス2008/09/27 20:39

 いよいよ明日は卒業式。

 これまでの佛大通信生の生活では、論文を書くのが楽しくてたまらなかった。

 論文の構想は、大抵、電車の中や就寝中に浮かぶ。

 そうした構想は、全て、メモ帳に書き込んでおく。
 仕事柄何時もメモ帳を携帯しているし、枕元にもメモ帳が何時も置かれている。
 仕事のメモの間にこういった論文の構想等が書き込まれていたりする。
 中には、まだ、論文として書かれていないが、構想としてメモ帳に存在しているものがある。
 これらの構想を元に実際の資料を検証して、仮説を立てて、論文として仕立てていくのが私のやり方。
 つまり、予め、始発点と終着点は決まっている。
 後は、自分の仮説の味方となる資料や先行研究を探しだし、対立仮説があるのならば、それを打ち消す論証方法が定まれば、ほぼ頭の中で、論文は出来たも同然。
 実際には、この後の仕事の方が労力は何倍もかかるが、それ程、創造的な仕事とは言えず、それが億劫なので、論文になっていない構想が、実際に論文となっているものの3~4倍位はある。

「これはまるでフルトヴェングラーだ!」2008/09/27 22:45

ブラームス交響曲第2番ニ長調(朝比奈隆指揮 大阪フィルハーモニー 1978年10月26日フェスティバルホール151回大フィル定期演奏会ライブ)

 ブラームスのシンフォニーの中では、第2番が一番美しく好きだ。第1番(ハ短調)は、第1楽章や第4楽章が大げさ過ぎて嫌い。第2楽章は、ロマンが感じられて良いが、他にもブラームスの音楽でもっと良いものがある。第3番(ヘ長調)は、ロマンチックだが、第1楽章の楽天的な豪快さと第4楽章の厭世的な気分の音楽が、何やら現実的過ぎて楽しめない。第4番(ホ短調)は、大体が宗教音楽の調性だし、フリギア調や中世の舞曲の旋律を引用している等面白い面もあるが、第4楽章のコーダーの前のフルートの旋律等、冬の夜に凍りかけた池の底から夜半の月を見る様な寒々しさが嫌い。

 第2番(ニ長調)には、そんな暗さは、第2楽章のコラール的な盛り上がりに1カ所みられるだけで、後は、楽天的に安心して聴ける曲。

 朝比奈隆は、ブラームスの第2番をこの新譜を入れて、合計4回録音している。その最も最初のがこれで、2回目が翌年の4月に録音(ビクター全集)、3回目は新日本フィルとの全集(フォンテック)で1992年頃の録音、4回目は、キャニオンクラシックの95年2月録音で、3~4回の録音がデジタルで、1~2回はアナログライブ録音。

 朝比奈隆は、実に面白い指揮者で、この4回の録音の演奏は全て違う個性を持っている。
 95年2月の録音は、阪神大震災で朝比奈自身や団員も被害を受けた中での録音。その構築性は素晴らしいが、やはり、震災の心労というか弦楽器の生命力や自発性、柔軟性に欠けており、面白くない。3回目の録音は、新日本フィルで演奏自体の完成度は、高い方だが、弦楽器の線が遅く、第4楽章の金管楽器の粘りが効かない等、ガッカリさせられる点も多い。

 第1回目(このCD)と第2回目は、どちらも1970年代末で朝比奈がまだ70歳になったばかりの時期の録音で、実に若々しく、柔軟性もあり、ロマン的な情熱が強い。
 
 実は、私は、朝比奈隆の真価を認識したのは、この第1回目のライブ収録を聴いてからである。

 1979年の1月末頃にNHKFM放送のシンフォニーアワー(夕方に放送されており、N響以外の国内オーケストラのライブ放送が特集された素晴らしい番組、当時は、こういった国内の地方オケからベルリンやウィーンフィルまでの演奏を毎日の様にNHKFMで放送されていた。

 当時の私は、コンソールステレオが聴けなくなって、自分の部屋の簡易ステレオで音楽聴かなければならないという実に貧弱な環境であったが、音楽は実に素晴らしかった。
 卓上ステレオといっても、FM放送は、モノラル受信という時代を感じさせる貧弱な装置で、同じくモノラルのカセットがついていた。
 モノラル再生が多かったので、1978年の7月の誕生日に買ってもらったフルトヴェングラーのベートーベン交響曲全集(ウィーンフィルの演奏で、当時、イマイチだと感じていた。)あるいは、フォンタナレーベルのフルトヴェングラーの1942年録音のベートーヴェンの第9やブラームスの4番等を愛聴しており、フルトヴェングラーファンになっていった。

 この朝比奈のブラームス2番のFM放送も当然、モノラル受信であったので、音質的には、フルベンと同レベルと言っても差し支えない。
 第1~3楽章までは、「実に個性的な演奏で良いな。どこのオケなんかな。」と聴き進んでいって、フィナーレの部分で耳を疑った。テンポがどんどん加速していって、もの凄い迫力で加熱していく。あまりのテンポの速さに打楽器や管楽器がついて行けない位。
 そう、あのフルベンの第9の最終楽章のコーダやブラームス4番のパッサカリアの終わりのコーダに向けての加速を思わせる様な演奏。
 
「一体、指揮している巨匠は、誰なんだろうか。フルベンかな。」と思った。
 「ただいまの演奏は、朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニーの演奏でした。」とのアナウンスで我が耳を疑った。
 この演奏はモノラルでテープに録音してあり、元のテープが劣化して駄目になったので、ダビングして大事に今まで聞いていた。
 1980年初め頃にビクターの第2回目の全集を購入したが、ガッカリさせられた。異常な程、のろいテンポでじっくりとやるスタイルで、僅か数ヶ月前の演奏と同じ演奏者とは思えない程。

 今回、CDでライブが発売されたのを聞いて、あの感動が蘇って来た。ステレオ、デジタルリマスターで音質も驚く程クリアで、最終楽章の狂気の様な加速もリアルに聞くことが出来る。
 これは、朝比奈のブラームス2番では、ベストの演奏だと思う。