耳なし芳一と地蔵信仰 ― 2008/12/01 00:03
学習院大学の兵藤先生の学会での「物語の語り手と地霊の信仰」のご発表に触発されて、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベース等を色々と調べていた。
http://www.nichibun.ac.jp/
問題なのは、ラフカディオ・ヘルンの耳なし芳一の原話を探る作業が必要になってくる点である。実際にこのデータベースの分類番号0640052で確認することが出来た。
大正3年6月に徳島県鳴門市で収集された民話で、「耳切り団一」というのがある。
「団一という盲目の琵琶法師が、女に誘われてから毎晩御殿に琵琶を弾きに行った。ある旅の僧が墓地を通りかかると、やせ衰えた琵琶法師が一心不乱に琵琶を弾いていた。旅の僧は話を聞き、琵琶法師の体中にまじないを書いたが耳だけに忘れた。翌晩、女が来て団一を連れて行こうとしたが、まじないがあるから連れて行けず、耳だけを持って行ってしまった。」
ここで注目されるのは、原話は平家の亡霊譚ではないことである。
話型を明確にする為に、記号化分析を行ってみると、
ここで見いだされる記号は、
A:盲目、B:琵琶法師、C:御殿、D:墓地に出かける、E:旅の僧、F:亡霊(女)、G:身体中のまじない(耳忘れ)、H:耳をもぎ取る
AからFの記号が抽出出来た。
ヘルンの怪談に収載された耳なし芳一の場合は、このA→Fの記号的要素を包含しているが、Fが平家の官女や武士の亡霊である点等に付随要素が加わっている。
先生のご発表のレジュメにみられる「耳無し地蔵の由来」では、
A:(盲目)、B:琵琶法師(平家語り)、C:御殿、D:墓地(安徳天皇御陵)、E:住職、F:亡霊(武士)、G:香水(耳忘れ)、H:耳をもぎ取るという記号は共通しているが、後日譚(地蔵の由来が加わっている点が異なっている。
これは、高知県の伝説である。どちらも四国の伝説である点が興味深い。
この他に「耳切り坊主」(沖縄に2例:共通項目は、B(坊主が妖怪化する。)、F:死霊の祟り)、「地蔵由来譚」(四国愛媛、共通項目は、Hのみ、但し、地蔵の由来という点で共通している。)
沖縄の「耳切坊主」は、南方系説話とみるが、四国地区もやはり、南方からの風物が流入しておかしくない地理的環境(海流)がある。
また、「耳」と「地蔵」の関わりも無視できない。
「地蔵」信仰は、観音信仰と同様に仏教以前のアミニズム時代の地霊信仰が、神仏習合の民俗的変遷を経て、地蔵信仰に結びついている。また、地蔵も観音、薬師も「病気」と関連している。これは、病魔(幽鬼)が「耳」から侵入して、脳を侵しので熱病等が起こると信じられており、地蔵は、「地神」の象徴であり、この霊力に縋ることで病魔を撃退するといった考え方となってくる。沖縄の「耳切坊主」説話は、泣く子の耳を小刀でゴソッと切る妖魔である。妖僧との関わりがある。妖僧の原形は、地霊を現世に導くシャーマン僧だろう。夜中に熱を出す子供の治療等を行っていたのが、その霊力への恐れから、この様な説話が出来たのだろう。
つまり、耳なし芳一の話の原形は、南方系の地霊信仰・魔術が原形となっており、その名残が、「耳無し地蔵の由来」にみられる。
坊主→(盲目)法師→琵琶法師と、A:Bの要素が変化すると共に、地霊→妖霊→亡霊→平家亡霊へと、Fの要素も変化したとみられる。
盲目の法師と言えば琵琶法師以外にはなかったこと、その芸能的役割は、単に芸能的役割以外に幽界と現世と結びつける霊よばいの役割がある。
また、兵藤先生が冒頭に武満徹の「遠い呼び声の彼方へ」を引き合いに出して、筑前琵琶の「サワリ」について述べられた。
このサワリというのは、「ノイズ」である。
ノイズの「境界性」については、私がブログに書いている。
http://fry.asablo.jp/blog/2007/08/13/1720823
「潜在型は、物質の内部、そのものに含まれるノイズである。つまり、完全防音の部屋で私たちを監視すると、そのマイクからは、呼吸音、脈拍音、内臓器官の音、あるいは、神経電磁波などのノイズが発生している。音楽の演奏の場合には、私達が、「樂音」と呼んでいる中には、その楽器が発生している倍音や歪み等のノイズが含まれている。また、真空アンプ等で増幅を行うとどうしても歪みが発生するが、歪みも波形の変化であるからノイズとして意識すれば、潜在型ノイズという事になる。母親の胎内音も、こうしたノイズである。潜在的ノイズは、バイオメトリックな存在には不可避なものであり、それが、生命の存在の証拠となっている。」
バイオメトリック型ノイズは、生命の存在としての認識もあるが、同時に霊的存在としての象徴と認識される。そうしたノイズを体感するのに最も効果を発揮するのが、「耳」である。特に盲目なものは、聴覚神経を人並み以上に発達したものが多い。また、バイオメトリックノイズの認知能力が優れているので、医療行為を行うにも適している。
筑前琵琶の「サワリ」は、まさに、地の世界からの霊力を現世に出現させる作用を行う。
これは、一つのシャーマニズムである。
「物語を語る」というのもシャーマニズムの行為である。つまり、物語の世界に潜んでいる霊力を媒介し、聞き手に伝える霊的な行為に他ならない。
こうしたノイズの「境界性」を利用したシャーマニズム的行為が、「平家語り」に結びついてくるのかについては、結局、地霊に次いで、生命の象徴である海竜王(マカラ)信仰に通じていることが挙げられる。
また、海竜王は、竈神との結合によって、人間社会に豊穣をもたらすという語り伝えもある。
平家物語には、海を象徴する話が多く盛り込まれている。平家という氏族そのものが、海竜王の呪術的存在を秘めた氏族であったことが大きな理由であろう。安徳天皇の霊は、海竜王として祀られる様になる。それは、御霊(ごりょう)としての恐怖的性格もあるが、海竜王を信仰すること豊漁等の海洋漁民の生活を支えることにつながっているのだと考える。
地霊と海霊はどちらも生命の根源であるが、これらの結合が大きな生命エネルギーの源泉であるという信仰が「耳なし芳一」伝説の中にうかがい知ることが出来るのだと思う。
兵藤先生は、地神経を挙げられ五竜王(海竜王)と堅牢地神との関わりを例証しようとされた。
陰陽師の行いとして、やはり、五竜王の考え方(中国伝来)が背景にあるということだが、私は、もっと、根源的な海洋民俗にみられる信仰に由来するものと考えている。
写真は夜の佛大。(ライトに照らされた紅葉の綺麗だった。)
http://www.nichibun.ac.jp/
問題なのは、ラフカディオ・ヘルンの耳なし芳一の原話を探る作業が必要になってくる点である。実際にこのデータベースの分類番号0640052で確認することが出来た。
大正3年6月に徳島県鳴門市で収集された民話で、「耳切り団一」というのがある。
「団一という盲目の琵琶法師が、女に誘われてから毎晩御殿に琵琶を弾きに行った。ある旅の僧が墓地を通りかかると、やせ衰えた琵琶法師が一心不乱に琵琶を弾いていた。旅の僧は話を聞き、琵琶法師の体中にまじないを書いたが耳だけに忘れた。翌晩、女が来て団一を連れて行こうとしたが、まじないがあるから連れて行けず、耳だけを持って行ってしまった。」
ここで注目されるのは、原話は平家の亡霊譚ではないことである。
話型を明確にする為に、記号化分析を行ってみると、
ここで見いだされる記号は、
A:盲目、B:琵琶法師、C:御殿、D:墓地に出かける、E:旅の僧、F:亡霊(女)、G:身体中のまじない(耳忘れ)、H:耳をもぎ取る
AからFの記号が抽出出来た。
ヘルンの怪談に収載された耳なし芳一の場合は、このA→Fの記号的要素を包含しているが、Fが平家の官女や武士の亡霊である点等に付随要素が加わっている。
先生のご発表のレジュメにみられる「耳無し地蔵の由来」では、
A:(盲目)、B:琵琶法師(平家語り)、C:御殿、D:墓地(安徳天皇御陵)、E:住職、F:亡霊(武士)、G:香水(耳忘れ)、H:耳をもぎ取るという記号は共通しているが、後日譚(地蔵の由来が加わっている点が異なっている。
これは、高知県の伝説である。どちらも四国の伝説である点が興味深い。
この他に「耳切り坊主」(沖縄に2例:共通項目は、B(坊主が妖怪化する。)、F:死霊の祟り)、「地蔵由来譚」(四国愛媛、共通項目は、Hのみ、但し、地蔵の由来という点で共通している。)
沖縄の「耳切坊主」は、南方系説話とみるが、四国地区もやはり、南方からの風物が流入しておかしくない地理的環境(海流)がある。
また、「耳」と「地蔵」の関わりも無視できない。
「地蔵」信仰は、観音信仰と同様に仏教以前のアミニズム時代の地霊信仰が、神仏習合の民俗的変遷を経て、地蔵信仰に結びついている。また、地蔵も観音、薬師も「病気」と関連している。これは、病魔(幽鬼)が「耳」から侵入して、脳を侵しので熱病等が起こると信じられており、地蔵は、「地神」の象徴であり、この霊力に縋ることで病魔を撃退するといった考え方となってくる。沖縄の「耳切坊主」説話は、泣く子の耳を小刀でゴソッと切る妖魔である。妖僧との関わりがある。妖僧の原形は、地霊を現世に導くシャーマン僧だろう。夜中に熱を出す子供の治療等を行っていたのが、その霊力への恐れから、この様な説話が出来たのだろう。
つまり、耳なし芳一の話の原形は、南方系の地霊信仰・魔術が原形となっており、その名残が、「耳無し地蔵の由来」にみられる。
坊主→(盲目)法師→琵琶法師と、A:Bの要素が変化すると共に、地霊→妖霊→亡霊→平家亡霊へと、Fの要素も変化したとみられる。
盲目の法師と言えば琵琶法師以外にはなかったこと、その芸能的役割は、単に芸能的役割以外に幽界と現世と結びつける霊よばいの役割がある。
また、兵藤先生が冒頭に武満徹の「遠い呼び声の彼方へ」を引き合いに出して、筑前琵琶の「サワリ」について述べられた。
このサワリというのは、「ノイズ」である。
ノイズの「境界性」については、私がブログに書いている。
http://fry.asablo.jp/blog/2007/08/13/1720823
「潜在型は、物質の内部、そのものに含まれるノイズである。つまり、完全防音の部屋で私たちを監視すると、そのマイクからは、呼吸音、脈拍音、内臓器官の音、あるいは、神経電磁波などのノイズが発生している。音楽の演奏の場合には、私達が、「樂音」と呼んでいる中には、その楽器が発生している倍音や歪み等のノイズが含まれている。また、真空アンプ等で増幅を行うとどうしても歪みが発生するが、歪みも波形の変化であるからノイズとして意識すれば、潜在型ノイズという事になる。母親の胎内音も、こうしたノイズである。潜在的ノイズは、バイオメトリックな存在には不可避なものであり、それが、生命の存在の証拠となっている。」
バイオメトリック型ノイズは、生命の存在としての認識もあるが、同時に霊的存在としての象徴と認識される。そうしたノイズを体感するのに最も効果を発揮するのが、「耳」である。特に盲目なものは、聴覚神経を人並み以上に発達したものが多い。また、バイオメトリックノイズの認知能力が優れているので、医療行為を行うにも適している。
筑前琵琶の「サワリ」は、まさに、地の世界からの霊力を現世に出現させる作用を行う。
これは、一つのシャーマニズムである。
「物語を語る」というのもシャーマニズムの行為である。つまり、物語の世界に潜んでいる霊力を媒介し、聞き手に伝える霊的な行為に他ならない。
こうしたノイズの「境界性」を利用したシャーマニズム的行為が、「平家語り」に結びついてくるのかについては、結局、地霊に次いで、生命の象徴である海竜王(マカラ)信仰に通じていることが挙げられる。
また、海竜王は、竈神との結合によって、人間社会に豊穣をもたらすという語り伝えもある。
平家物語には、海を象徴する話が多く盛り込まれている。平家という氏族そのものが、海竜王の呪術的存在を秘めた氏族であったことが大きな理由であろう。安徳天皇の霊は、海竜王として祀られる様になる。それは、御霊(ごりょう)としての恐怖的性格もあるが、海竜王を信仰すること豊漁等の海洋漁民の生活を支えることにつながっているのだと考える。
地霊と海霊はどちらも生命の根源であるが、これらの結合が大きな生命エネルギーの源泉であるという信仰が「耳なし芳一」伝説の中にうかがい知ることが出来るのだと思う。
兵藤先生は、地神経を挙げられ五竜王(海竜王)と堅牢地神との関わりを例証しようとされた。
陰陽師の行いとして、やはり、五竜王の考え方(中国伝来)が背景にあるということだが、私は、もっと、根源的な海洋民俗にみられる信仰に由来するものと考えている。
写真は夜の佛大。(ライトに照らされた紅葉の綺麗だった。)
日本縦断歩行、ようやく大阪へ ― 2008/12/01 11:06
ビリケンさん ― 2008/12/01 22:44
PSPとW-120の組合せを楽しむ ― 2008/12/02 09:21
CyberShot DSC-W120とPSPの組合せは、ゲーム「ニッポンのあそこで」から始まったが、それ以外には、PSPにW120で撮影したメモリースティックを差し込むと、L版よりも幾分大きいサイズで撮影画像を見ることが出来る。デジイチや3インチ画面でみるよりもずっと大きいので、鑑賞に耐える。
撮影した写真を人にみせるときには効果を発揮する。PSP用の写真画像処理ソフトなんかが出来ればと思う。特に解像度やフォーマットを変えてゲーム等に取り込めればと思う。
「ニッポンのあそこで」の場合は、メモリスティックの差し替えは出来ないことが判ったので、PSPのデータカードとして使用しているメモリスティックDUOをW-120に挿入してVGAモードで撮影して変換することになる。(4GBもあれば、余裕のサイズ)
SDメモリーカードのカメラを販売している陣営もこうした楽しいゲームマシンというか携帯のオモチャ端末を開発してくれたら、利用範囲が広がると思う。
もっともSONYでは、この使い方を提案していない。昨日、オンラインユーザー登録及びカスタムソフトウエアのインストールを行ったが、メーカー独りよがりのソフトやマニュアル、登録システムで、ユーザーの便宜が殆ど考えられていないのはかんがえもの。
パナソニックのユーザー登録は、機種名とシリアル番号を登録するだけだが、SONYの場合は、個人情報を始め、機種名、シリアル番号、そして、登録コードなるものを更に入れないと登録出来ない仕組みとなっている。
苦労して登録してみたが、それ程、メリットはないような気がする。以前、新品のVAIOを購入して登録した時も登録に大変な手間がかかった割りには、殆どメリットがなかったような気がする。
撮影した写真を人にみせるときには効果を発揮する。PSP用の写真画像処理ソフトなんかが出来ればと思う。特に解像度やフォーマットを変えてゲーム等に取り込めればと思う。
「ニッポンのあそこで」の場合は、メモリスティックの差し替えは出来ないことが判ったので、PSPのデータカードとして使用しているメモリスティックDUOをW-120に挿入してVGAモードで撮影して変換することになる。(4GBもあれば、余裕のサイズ)
SDメモリーカードのカメラを販売している陣営もこうした楽しいゲームマシンというか携帯のオモチャ端末を開発してくれたら、利用範囲が広がると思う。
もっともSONYでは、この使い方を提案していない。昨日、オンラインユーザー登録及びカスタムソフトウエアのインストールを行ったが、メーカー独りよがりのソフトやマニュアル、登録システムで、ユーザーの便宜が殆ど考えられていないのはかんがえもの。
パナソニックのユーザー登録は、機種名とシリアル番号を登録するだけだが、SONYの場合は、個人情報を始め、機種名、シリアル番号、そして、登録コードなるものを更に入れないと登録出来ない仕組みとなっている。
苦労して登録してみたが、それ程、メリットはないような気がする。以前、新品のVAIOを購入して登録した時も登録に大変な手間がかかった割りには、殆どメリットがなかったような気がする。
葉っぱ ― 2008/12/03 09:00
庭には、山桜、しだれ桜、紅葉、杉などの針葉樹等数本植わっているが、残念ながら地球温暖化の影響か樺の木は枯れてしまった。
そうなると、もっとも目立つのは、梅の木である。白梅で、一番、花が咲くのが遅いくせに、ボウボウと凄い勢いで花の後の若葉から青々とした葉が上に突き出すように伸びている。
この樹も晩秋の冷え込みには、お手上げで、落葉が続いて、毎日のようにやせ細っていく。黄色に紅葉した落ち葉を拾い上げてみると、まんまるの葉っぱの表面側には、細かい毛が一面に生えていてザラザラとしている。
なんとなく愛着を覚えて、スキャンしてみた。不思議なのは、角の様に突き出た部分で、果たしてなんの役割をしているのだろうかと思う。
この樹が真っ裸になる時、寒さの冬本番がやってくる。
そうなると、もっとも目立つのは、梅の木である。白梅で、一番、花が咲くのが遅いくせに、ボウボウと凄い勢いで花の後の若葉から青々とした葉が上に突き出すように伸びている。
この樹も晩秋の冷え込みには、お手上げで、落葉が続いて、毎日のようにやせ細っていく。黄色に紅葉した落ち葉を拾い上げてみると、まんまるの葉っぱの表面側には、細かい毛が一面に生えていてザラザラとしている。
なんとなく愛着を覚えて、スキャンしてみた。不思議なのは、角の様に突き出た部分で、果たしてなんの役割をしているのだろうかと思う。
この樹が真っ裸になる時、寒さの冬本番がやってくる。
巨大なツリーに圧巻 ― 2008/12/03 22:56
ユウタ君をよろしくな! ― 2008/12/03 23:08
時々、自分の分身の夢をみる。どうゆう訳か、顔もなく真っ黒だ。黒い固まりというか人影の様に見えるが、浮遊して、蜘蛛の様にさっと動く。
時々、こちらを見てニヤッと笑っている様にもみえる。
私には、そんな、芸当は出来ないが、コイツは、敏捷だ。夢なので、明らかに自分の分身だということが判る。
時々、奇妙な言葉を話しかけてくる。一番凄いのが、「ユウタ君をよろしくな。」で、なんのことやら判らない。数百回位繰りかえしたろうか。
毎夜の様に、「ユウタ君」と名前が出てくる。
起きてみると汗をびっしょりかいているし、天地が逆に(枕の位置)なっているので、呆れる。
2~3回、そんなことが続いた後で、夢を見なくなって数ヶ月が経過した。
ある木枯らしの吹く日に自宅の下の神社の北側に南向きの地蔵の御堂が建てられている。その中を覗くとぞっとした。
「・・・裕太何歳」地蔵の涎掛けと鐘の引き手の布(名前をなんているのだろうか。)にこの文字が書かれている。
「ユウタ君」とは、この事だったのかと思った。
でも、なんで、こんな夢をみたのか、理由は分からないが、時々、そのことについて考えたりしている。
時々、こちらを見てニヤッと笑っている様にもみえる。
私には、そんな、芸当は出来ないが、コイツは、敏捷だ。夢なので、明らかに自分の分身だということが判る。
時々、奇妙な言葉を話しかけてくる。一番凄いのが、「ユウタ君をよろしくな。」で、なんのことやら判らない。数百回位繰りかえしたろうか。
毎夜の様に、「ユウタ君」と名前が出てくる。
起きてみると汗をびっしょりかいているし、天地が逆に(枕の位置)なっているので、呆れる。
2~3回、そんなことが続いた後で、夢を見なくなって数ヶ月が経過した。
ある木枯らしの吹く日に自宅の下の神社の北側に南向きの地蔵の御堂が建てられている。その中を覗くとぞっとした。
「・・・裕太何歳」地蔵の涎掛けと鐘の引き手の布(名前をなんているのだろうか。)にこの文字が書かれている。
「ユウタ君」とは、この事だったのかと思った。
でも、なんで、こんな夢をみたのか、理由は分からないが、時々、そのことについて考えたりしている。
二季の塔と妙音講・地霊信仰とのつながり ― 2008/12/03 23:34
兵藤先生の佛大国文学会の講演で、地神(心)経というのが出てきた。
非常に興味があるので、家に帰ったら早速調べてみた。
地神というのは、盲神(目が見えない神)で、その神意が盲人(座頭)に乗り移るとある。
その憑依を語るのが、「地神経座頭」であり、近世大和では、祭文等と同様に芸能化している。
この流派を伝える盲僧は、明治時代まで生き残っており、盲人の芸能史を考える上で、要な要素となる。
兵藤先生は、二季の塔だとか、妙音講等を挙げられており、平家語りとの関連について考察されている。
特に地神(霊)にちなむ物語の語り手としての盲人の役割は、たしかに盲人の優れた感性によるものが大きいが、中世以降の地神(霊)信仰の中で、特別な位置を与えられ、芸能として残ってきたのだと思う。
非常に興味があるので、家に帰ったら早速調べてみた。
地神というのは、盲神(目が見えない神)で、その神意が盲人(座頭)に乗り移るとある。
その憑依を語るのが、「地神経座頭」であり、近世大和では、祭文等と同様に芸能化している。
この流派を伝える盲僧は、明治時代まで生き残っており、盲人の芸能史を考える上で、要な要素となる。
兵藤先生は、二季の塔だとか、妙音講等を挙げられており、平家語りとの関連について考察されている。
特に地神(霊)にちなむ物語の語り手としての盲人の役割は、たしかに盲人の優れた感性によるものが大きいが、中世以降の地神(霊)信仰の中で、特別な位置を与えられ、芸能として残ってきたのだと思う。
手振れ補正効果 ― 2008/12/04 09:05
いわば、総金属製のEOSのようなもんだ ― 2008/12/04 09:31
イカロス出版(2008年11月刊、税込み1500円)、この本は、1998年に出版されたものの、増補改訂版。
O系がなくなるので、急遽、出版された。面白いのは、O系がなくなるのは、21世紀早々と予想されていたが、実際には、それから8年程、生き延びたということ。
衝動買いした理由は、右の見開きページの前照灯と、空調吹き出し口の写真が買いたい心を直撃した。
0系の模型やオモチャ等で育って来たが、この前照灯の赤・オレンジの色と白いフェース、青いスカートは、最高の取り合わせだと思う。新鋭機では、レールスター等素晴らしい車両もあるが、この優雅なデザインには及ばない。
この新幹線が走り出した頃には、国内旅客航空便は、当然、プロペラ機であり、しかも、YS11も完成しておらず、バイカウントという飛行機がメインであった。
イギリスビッカース社の航空機で、ターボプロップ機。低空の視界が良いので、これで羽田に到着する時には、当時、未だ帆走していた帆掛け船の漁船等をみながら、着陸態勢に入るのが見えた。
国産機の開発技術が無い時代にこれだけの工業製品を開発することが出来たのは、奇跡だと思う。
特に見開きの中央部の空調吹き出し口の写真であるが、「金属製でノスタルジーを誘う」とあるが、当時は、こういった方法での車両空調ダクト設計自体が斬新であり、今でも新素材ではあるが、空調システムは、この技術が踏襲されている。
内装パネルは、全て金属製だが、現在の様な組み合わせの技術はなかったので、全てビス止めであった。そのビス1本にしても新幹線専用のものが新開発された。
また、車両外装に使用された沈頭ビョウは、零戦等、戦前の日本開発の航空機の技術が応用されている。
座席以外の内装は全て総金属製。
さぞかし重たい車両だったと思う。のぞみ等に乗車してトンネルを通過すると、空気圧で車両が変形しているのを壁際の席では感じられるが、この車両は、しっかりしている。
座席は非常に狭くて、これで東京まで3時間強の乗車はつらいものがあったが、新幹線の基本システムは、44年前に既に完成していたと言っても過言ではない。
凄いのは、従来の車両開発は、車両独自の性能を考慮して設計されるが、0系では、新幹線という交通システムを新たに創造するという観点から、総合システムとして設計された点である。
全て40年後を予見した工業製品と言える。いうならば、現在、合成樹脂製のEOS一眼レフが金属カメラの時代に総金属製で技術を結集して作り上げられたようなもんだと思う。
O系がなくなるので、急遽、出版された。面白いのは、O系がなくなるのは、21世紀早々と予想されていたが、実際には、それから8年程、生き延びたということ。
衝動買いした理由は、右の見開きページの前照灯と、空調吹き出し口の写真が買いたい心を直撃した。
0系の模型やオモチャ等で育って来たが、この前照灯の赤・オレンジの色と白いフェース、青いスカートは、最高の取り合わせだと思う。新鋭機では、レールスター等素晴らしい車両もあるが、この優雅なデザインには及ばない。
この新幹線が走り出した頃には、国内旅客航空便は、当然、プロペラ機であり、しかも、YS11も完成しておらず、バイカウントという飛行機がメインであった。
イギリスビッカース社の航空機で、ターボプロップ機。低空の視界が良いので、これで羽田に到着する時には、当時、未だ帆走していた帆掛け船の漁船等をみながら、着陸態勢に入るのが見えた。
国産機の開発技術が無い時代にこれだけの工業製品を開発することが出来たのは、奇跡だと思う。
特に見開きの中央部の空調吹き出し口の写真であるが、「金属製でノスタルジーを誘う」とあるが、当時は、こういった方法での車両空調ダクト設計自体が斬新であり、今でも新素材ではあるが、空調システムは、この技術が踏襲されている。
内装パネルは、全て金属製だが、現在の様な組み合わせの技術はなかったので、全てビス止めであった。そのビス1本にしても新幹線専用のものが新開発された。
また、車両外装に使用された沈頭ビョウは、零戦等、戦前の日本開発の航空機の技術が応用されている。
座席以外の内装は全て総金属製。
さぞかし重たい車両だったと思う。のぞみ等に乗車してトンネルを通過すると、空気圧で車両が変形しているのを壁際の席では感じられるが、この車両は、しっかりしている。
座席は非常に狭くて、これで東京まで3時間強の乗車はつらいものがあったが、新幹線の基本システムは、44年前に既に完成していたと言っても過言ではない。
凄いのは、従来の車両開発は、車両独自の性能を考慮して設計されるが、0系では、新幹線という交通システムを新たに創造するという観点から、総合システムとして設計された点である。
全て40年後を予見した工業製品と言える。いうならば、現在、合成樹脂製のEOS一眼レフが金属カメラの時代に総金属製で技術を結集して作り上げられたようなもんだと思う。
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