耳なし芳一と地蔵信仰2008/12/01 00:03

CyberShotDSC-W120で撮影
 学習院大学の兵藤先生の学会での「物語の語り手と地霊の信仰」のご発表に触発されて、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベース等を色々と調べていた。
http://www.nichibun.ac.jp/

 問題なのは、ラフカディオ・ヘルンの耳なし芳一の原話を探る作業が必要になってくる点である。実際にこのデータベースの分類番号0640052で確認することが出来た。
 大正3年6月に徳島県鳴門市で収集された民話で、「耳切り団一」というのがある。
「団一という盲目の琵琶法師が、女に誘われてから毎晩御殿に琵琶を弾きに行った。ある旅の僧が墓地を通りかかると、やせ衰えた琵琶法師が一心不乱に琵琶を弾いていた。旅の僧は話を聞き、琵琶法師の体中にまじないを書いたが耳だけに忘れた。翌晩、女が来て団一を連れて行こうとしたが、まじないがあるから連れて行けず、耳だけを持って行ってしまった。」
 ここで注目されるのは、原話は平家の亡霊譚ではないことである。
 話型を明確にする為に、記号化分析を行ってみると、
 ここで見いだされる記号は、
A:盲目、B:琵琶法師、C:御殿、D:墓地に出かける、E:旅の僧、F:亡霊(女)、G:身体中のまじない(耳忘れ)、H:耳をもぎ取る
 AからFの記号が抽出出来た。
 ヘルンの怪談に収載された耳なし芳一の場合は、このA→Fの記号的要素を包含しているが、Fが平家の官女や武士の亡霊である点等に付随要素が加わっている。
 先生のご発表のレジュメにみられる「耳無し地蔵の由来」では、
 A:(盲目)、B:琵琶法師(平家語り)、C:御殿、D:墓地(安徳天皇御陵)、E:住職、F:亡霊(武士)、G:香水(耳忘れ)、H:耳をもぎ取るという記号は共通しているが、後日譚(地蔵の由来が加わっている点が異なっている。
 これは、高知県の伝説である。どちらも四国の伝説である点が興味深い。
 この他に「耳切り坊主」(沖縄に2例:共通項目は、B(坊主が妖怪化する。)、F:死霊の祟り)、「地蔵由来譚」(四国愛媛、共通項目は、Hのみ、但し、地蔵の由来という点で共通している。)
 沖縄の「耳切坊主」は、南方系説話とみるが、四国地区もやはり、南方からの風物が流入しておかしくない地理的環境(海流)がある。
 また、「耳」と「地蔵」の関わりも無視できない。
 「地蔵」信仰は、観音信仰と同様に仏教以前のアミニズム時代の地霊信仰が、神仏習合の民俗的変遷を経て、地蔵信仰に結びついている。また、地蔵も観音、薬師も「病気」と関連している。これは、病魔(幽鬼)が「耳」から侵入して、脳を侵しので熱病等が起こると信じられており、地蔵は、「地神」の象徴であり、この霊力に縋ることで病魔を撃退するといった考え方となってくる。沖縄の「耳切坊主」説話は、泣く子の耳を小刀でゴソッと切る妖魔である。妖僧との関わりがある。妖僧の原形は、地霊を現世に導くシャーマン僧だろう。夜中に熱を出す子供の治療等を行っていたのが、その霊力への恐れから、この様な説話が出来たのだろう。
 つまり、耳なし芳一の話の原形は、南方系の地霊信仰・魔術が原形となっており、その名残が、「耳無し地蔵の由来」にみられる。
 坊主→(盲目)法師→琵琶法師と、A:Bの要素が変化すると共に、地霊→妖霊→亡霊→平家亡霊へと、Fの要素も変化したとみられる。
 盲目の法師と言えば琵琶法師以外にはなかったこと、その芸能的役割は、単に芸能的役割以外に幽界と現世と結びつける霊よばいの役割がある。
 
 また、兵藤先生が冒頭に武満徹の「遠い呼び声の彼方へ」を引き合いに出して、筑前琵琶の「サワリ」について述べられた。
 このサワリというのは、「ノイズ」である。
 ノイズの「境界性」については、私がブログに書いている。
 http://fry.asablo.jp/blog/2007/08/13/1720823
 「潜在型は、物質の内部、そのものに含まれるノイズである。つまり、完全防音の部屋で私たちを監視すると、そのマイクからは、呼吸音、脈拍音、内臓器官の音、あるいは、神経電磁波などのノイズが発生している。音楽の演奏の場合には、私達が、「樂音」と呼んでいる中には、その楽器が発生している倍音や歪み等のノイズが含まれている。また、真空アンプ等で増幅を行うとどうしても歪みが発生するが、歪みも波形の変化であるからノイズとして意識すれば、潜在型ノイズという事になる。母親の胎内音も、こうしたノイズである。潜在的ノイズは、バイオメトリックな存在には不可避なものであり、それが、生命の存在の証拠となっている。」
 バイオメトリック型ノイズは、生命の存在としての認識もあるが、同時に霊的存在としての象徴と認識される。そうしたノイズを体感するのに最も効果を発揮するのが、「耳」である。特に盲目なものは、聴覚神経を人並み以上に発達したものが多い。また、バイオメトリックノイズの認知能力が優れているので、医療行為を行うにも適している。
 筑前琵琶の「サワリ」は、まさに、地の世界からの霊力を現世に出現させる作用を行う。
 これは、一つのシャーマニズムである。
 「物語を語る」というのもシャーマニズムの行為である。つまり、物語の世界に潜んでいる霊力を媒介し、聞き手に伝える霊的な行為に他ならない。
 
 こうしたノイズの「境界性」を利用したシャーマニズム的行為が、「平家語り」に結びついてくるのかについては、結局、地霊に次いで、生命の象徴である海竜王(マカラ)信仰に通じていることが挙げられる。
 また、海竜王は、竈神との結合によって、人間社会に豊穣をもたらすという語り伝えもある。
 平家物語には、海を象徴する話が多く盛り込まれている。平家という氏族そのものが、海竜王の呪術的存在を秘めた氏族であったことが大きな理由であろう。安徳天皇の霊は、海竜王として祀られる様になる。それは、御霊(ごりょう)としての恐怖的性格もあるが、海竜王を信仰すること豊漁等の海洋漁民の生活を支えることにつながっているのだと考える。
 地霊と海霊はどちらも生命の根源であるが、これらの結合が大きな生命エネルギーの源泉であるという信仰が「耳なし芳一」伝説の中にうかがい知ることが出来るのだと思う。

 兵藤先生は、地神経を挙げられ五竜王(海竜王)と堅牢地神との関わりを例証しようとされた。
 陰陽師の行いとして、やはり、五竜王の考え方(中国伝来)が背景にあるということだが、私は、もっと、根源的な海洋民俗にみられる信仰に由来するものと考えている。

 写真は夜の佛大。(ライトに照らされた紅葉の綺麗だった。)

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