何やら禿頭の進行にも似ているような...2008/12/06 10:39

Coolpixs S600で撮影。室内からの撮影で網戸なんかあるので不鮮明。
 庭の梅の樹の落葉の様子を毎日写真に撮影している。
 もっと劇的な変化を示すことが出来るかと思ったが、案外に面白くないというか失敗に終わった。
 現在も続けており、これは、途中経過ということだが、11月20日頃からテッペンの方から禿げ始めて、徐々に葉(毛)の密度が疎らとなってきて、徐々に隙間がいてくる感じ。
 樹の下の方の葉は案外しぶとく残っている。
 何か、人間の禿頭の進行とよく似ている。
 禿げ始めた梅の樹は、小鳥がとまりやすくなったので、雀や四十雀、エナガ等が群れでやってきて、よくくつろいでいる。

LUMIXG1でライカレンズの使用が可能に。2008/12/06 16:20

ゾルキー1+Elmar50㎜
 とうとう、私が予見したとおりに、ライカM(Lマウント)→マイクロフォーサーズアダプタが12月下旬に発売される。
http://homepage2.nifty.com/rayqual/Micro4_3.html
 これでEPSON等の一部のデジカメ機種で限定されていたライカ(ホンモン)レンズがデジカメ撮影に気楽に使用出来る様になる。
 但し、画角は1/2になるということで、つまり、50㎜標準レンズは、100㎜になってしまう。こうなると標準っぽく使いたいときには、ウルトラワイドヘリヤー15㎜等の超広角レンズを使用することになるので、クラシックレンズを使う意味がなくなってくる。
 フルサイズのCCDを搭載した機種でなければ、ライカレンズを普通に楽しむことにはならず、単なる好奇心の楽しみになってしまう。

 写真は、愛用のロシア製パルナックライカレプリカのゾルキー1にLaicaElmar50㎜を装着して撮影したもの。
 佛教大学の構内の紅葉は今年は大変綺麗だった。
 やはり、Elmarらしく硬調になるが、下の写真(大徳寺前)等の遠近感は素晴らしい。
 1/100、F11で撮影。DPE店でCD-ROMで仕上げてもらってパソコンに読み込んで使用している。
 高精度のフィルムスキャナーが無い場合は、この方が気楽に楽しめる。フィルムを提出したら翌日には仕上がってくる。

結構大変なんでは....2008/12/06 23:41

 裁判員制度について、特集TV番組をみていて感じたことだが、国民が司法に参加する権利(義務ではない)を有するのは、当然のことだと思う。
 
 特に刑事裁判は、これまで、裁判官、検察官等の関係者以外に傍聴というのはあっても参加が許されない言わば、密室に近いところで審議が行われてきた。

 それが、選挙権を持つ国民が平等に参加出来るという点は、評価して良いと思う。

 但し、制度運用の面でなんとかならないかと思う。実際に今回、通知を受け取った人もいるだろうが、職業、階層、年齢等の様々な事情を抱えた人が、裁判所の一方的な都合で招集されるシステムには疑問を感じる。

 また、これまでに事件に巻き込まれてトラウマを持っている人、「人が人を裁くなんてことは許されない」という信念や信仰を持っている人等様々であり、個人の事情は尊重されなければならないと思う。

 また、職業を持っている人は、私等の零細企業勤務者を含めて、1日も職場を離れたら職場が回っていかない人間や、あるいは、日雇いに近い派遣労働者などでは、解雇されて、その場合は、2度と職が見つからない人も出てくると思う。

 実際に、労働人口の相当の割合が派遣労働者なので、この不景気の中で、公務員でも臨時職員等の裁判員制度等に協力した人には、職業斡旋等の優遇措置等が行われるべきだろう。

 この様な優遇措置が行われれば、率先して参加を希望する人も出てくることだろう。

 しかし、そんなことを置いておいて、余りある最大の問題は、裁判員としての基礎的な能力が有しているかという点である。

 こういった制度を考えた人は、大学教員とか法曹とか、公務員とか、大きな組織に関わっている人で、日常みなれている周囲の人間から、「標準的な善良な国民像」を作り上げており、「この程度の仕事ならば、一般の人にも可能だ。」と独断で決めている。

 しかし、こうした人達は、会議や討議、意見発表、プレゼン等を日常的に行える社会の一部のエリート的環境にある人だ。

 実際には、自営業、農家、零細企業等の人達の多くが、日常的に業務等で討論したり、意見を述べたり、集団で討議した結果、自分の意思はどうなのかといったことを決定したりする経験を学校を卒業してから何十年間も経験していない人々も多い。

 私もそういった人間だった。

 佛教大学の通信大学院で久しぶりに学校生活を経験し、調査結果を発表するという機会があった。調査自体は、仕事でも経験しているが、意見を発表したりしたことは20年間経験していないので、自分が考えていること、調べて来たことを他の大勢の人に判りやすく、簡潔に説明することが全く出来ない自分自身への驚きを隠せない状況だった。

 大学院を卒業後、同じ佛大の通信の社会学部応用社会学科の3年に編入したが、例えば、臨床社会学、犯罪社会学等で具体的な例を元にグループ討論するということが比較的多く行われた。

 これなどは、発表よりも一層、難しい。特に年齢、職業、生活環境、価値観等が全く異なる人達が数名で集まって討論し、意見をまとめるというワークショップは、裁判員制度に近いと思う。

 実際に、討論は私にとっては非常に苦痛であった。やはり、意見を全く述べない人、なんでも反対する人、あるいは、難しい人等一杯いて、たまたま波長が合わない人がいたら悲惨である。

 裁判員制度でも同様の事例でた場合にどうするのだろうか。一定の話し合いや討論、自分の意見を明確に述べられる、あるいは、裁判官等の専門家の話している事柄や事例、証拠物件を理解し、判決につながる判断に結びつけていくという作業は、大変高度だと思う。

 たしかに一度参加すれば、貴重な体験・生涯教育の機会を与えられたとも言えるが、ある1人の人間の生殺与奪を決定づける裁判の審判には、こうした裁判員の資質にもとづく瑕疵は、絶対に許されない。

 実際に、こうした作業の未経験者や未熟者が、話し合いや討論といった難関に加えて専門的なことがらの理解と実践をわずか3日から1週間で行うことは無理で、かりに出来たとしても想定の数倍の時間がかかり、裁判という実務のスケジュール自体の進行にも影響してくる可能性もある。

 時間を優先させれることになって、審議の判断が狂うことは、裁判制度の是非の根幹に関わってくることだろう。

 この様な面から判断すれば、無作為抽出による人選には無理があり、国民全員参加の制度という「建前」を前提に、、実際に参加したい国民を募集して、その人達に一定の研修と審査を行った上で、裁判員に任用するという方向性を持たせるのが、妥当であると思う。

 現制度でも適格者か否かという判断が下されるが、無作為に抽出され、召喚された国民に「不適格者」というラベリングを行われ、データベース等に記録(住民基本台帳等)された場合には、更に、今度は、人権侵害といった問題にも発展してくる。

 この様な新たな社会的排除の原因にもなりかねないリスクを避ける為にも、希望者から選出するという方法が、妥当だろうと思う。