上巳の祓2009/03/03 10:12

 先日、見学した岡山県立博物館では、様々な地域信仰と呪い(まじない)に関連するものが多かった。

 その中で注目されたのは、上巳の祓の儀式に用いられた形代等が展示されており、源氏物語の須磨の段が例を挙げて展示されていた。

 弥生の朔日に出で来たる巳の日、
 「今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき」
 と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。舟にことことしき人形乗せて流すを見たまふに、よそへられて、
 「知らざりし大海の原に流れ来て
  ひとかたにやはものは悲しき」
 とて、ゐたまへる御さま、さる晴れに出でて、言ふよしなく見えたまふ。
 海の面うらうらと凪ぎわたりて、行方も知らぬに、来し方行く先思し続けられて、
 「八百よろづ神もあはれと思ふらむ
  犯せる罪のそれとなければ」
 とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ。御祓へもし果てず、立ち騒ぎたり。肱笠雨とか降りきて、いとあわたたしければ、みな帰りたまはむとするに、笠も取りあへず。さる心もなきに、よろづ吹き散らし、またなき風なり。波いといかめしう立ちて、人びとの足をそらなり。海の面は、衾を張りたらむやうに光り満ちて、雷鳴りひらめく。落ちかかる心地して、からうしてたどり来て、
 「かかる目は見ずもあるかな」
 「風などは吹くも、けしきづきてこそあれ。あさましうめづらかなり」
 と惑ふに、なほ止まず鳴りみちて、雨の脚当たる所、徹りぬべく、はらめき落つ。「かくて世は尽きぬるにや」と、心細く思ひ惑ふに、君は、のどやかに経うち誦じておはす。

の本文が名古屋博物館から借用した源氏物語の写本(近世の写本とみられる)と共に展示されていた。

 瀬戸内海洋文化圏をいうのがもし、存在するとすれば、和歌山から須磨・明石、備中、安芸、周防に至る山陽道の沿岸には、共通した文化が存在していると考えられる。例えば、和歌浦、淡島神社の雛流しの神事に始まり、岡山博物館の今回の展示の様に、やはり、上巳の祓いというのが年中行事で大きな意味を持っていたと考えられる。

 また、源氏物語のこの場面は、貴種流離譚との組合せで描かれている。
 形代を海に流して祓うというやり方の意義は、近世以降は、女児の健やかな生育の祈願、成人後に海洋神(わたつみがみ)への返礼としての意味が強かったが、源氏物語の時代には、日本の帝王のルーツとしての海竜王の存在と貴種・皇孫の繁栄といった意味合いが強いと考えられる。

 貴種流離譚については、慶応大学の折口信夫博士が論述しておられるが、光源氏が須磨に流されるというか赴くことを貴種流離のなぞらえて、日本神話との関連を含めて、その背景を考察されておられる。源氏物語の帚木巻にも巨大な怪魚の話が出てくる。源氏物語の作者は、帚木巻の時点で、須磨・明石への展開を予見しており、また、若紫巻でも同様の記述がみられる。しかし、その根源は、桐壺巻にみられる「原話」の段階で既に位置づけられている。

 桐壺巻では、桐壺帝・桐壺更衣・光源氏・藤壺の関係が語られる。
 桐壺更衣が、この世(生)への未練を残して病没し、その後は、桐壺帝、そして、生き写しの藤壺も源氏よりは、早く世をさり、結局、光源氏の晩年は、様々な屈曲があったにせよ、光源氏と若紫を中心とした世界である。また、夕霧といった嫡子もいるが、紫の上には子供は生まれなかった。この様な人生の展開への因果関係の「源」が、この上巳の祓の場面であると私は、考えている。

 上巳の祓で穢れを海に流した瞬間に暴風雨となり、海竜王が現れる。海竜王の言葉としては、

「いとあるまじきこと。これは、ただいささかなる物の報いなり。我は、位に在りし時、あやまつことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終ふるほど暇なくて、この世を顧みざりつれど、いみじき愁へに沈むを見るに、堪へがたくて、海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべきことのあるによりなむ、急ぎ上りぬる」
と自らの罪、すなわち、桐壺更衣との間に生まれた光源氏を皇子とせずに源氏として臣籍に下された罪のまがまがしさについて述べて、都にいる政敵、朱雀帝がたに災いを成すこととなる。

 こうして、光源氏が都に復帰するきっかけを作ることになるが、それは、此花咲夜姫と岩長姫の関係に比せられ、若紫を選び、末摘花(実際には、それ程の重要性を以て描かれていないが、象徴的な意義は大きい)を捨てる。(つまり、醜さは永遠の生につながり、美しさは、1世代限である。)

 こうして、光源氏は、神から人となったのである。

 その後の源氏は、若紫を伴侶とする人生を選ぶことにもなり、結果的には、光源氏に流れる帝王の血流は途絶えてしまうことになる。(その悲劇的宿命が、晩年の女三宮事件として蒸し返される。)

 上巳の祓は、海洋神への儀式であり、大和民族の祖先崇拝の原形が変化したものだと考えられる。

 海神は、怒り狂えば、恐ろしい祟りを成すと同時に、子孫の繁栄につながるという両面性を以ている。

 この両面性について更に考えると、結局は、大和人(やまとびと)の魂は、海から生まれ、海に帰っていき、再び海から再生すると、生死の際限ない繰り返しが続いているという死生観につながってくるのだと考えている。