2.「みづから思ひよれる方」2009/08/14 23:15

2.「みづから思ひよれる方」

 「うひ山ぶみ」第2段は、前の「すぢ」についての続きであるが、この「すぢ」と学ぶ物の志向方向のベクトルである「思ひよれる方」の関係について、宣長は述べている。

 簡単に言えば、「志望」、「志願」であるが、佛教大学通信教育部は、無試験で入学出来るが、一応、申込書に「みづから思ひよれる方」についての100字程度の作文を書かせられるし、3回生になれば、論文テーマの調査票にもこの「思ひよれる方」について書く必要がある。

 特に3年次編入の通信生がいきなり、「論文テーマ」といっても、「思ひよれる方が定まっていないので、困惑するし、論文草稿許可が下りてからテーマを変えるというケースも出てくるのである。

 「すぢ」から「思ひよれる方」を見いだすのが、研究・学習の第1歩なのである。

①大かた件のしなじな有りて、おのおの好むすぢによりてまなぶに、又、おのおのその学びやうの法も、教ふる師の心々、まなぶ人の心々にてさまざまあり。

 大体、学習を志すものは、前回示した様なテーマ(学問分野)を「思ひよれる方」(志望・志向)によって、選択して学ぶが、人それぞれの心(考え方、ポリシー)が、パーソナリティによって異なっているので、指導を受ける教師の考え方もパーソナリティによって様々なので、その研究、学習の方法は、多種多様になってしまう。

 つまり、教授・教師の研究指導についても、人それぞれ考え方によって異なるし、学生の考え方や興味を持つ方向も異なっているのに、研究指導を行わなければ、ならない難しさをここでは指摘しているのである。


②かくて学問に心ざして入りそむる人、はじめよりみづから思ひよれるすぢありて、その学びやうもみづからはからふも有るを、又さやうにとり分きてそれを思ひよれるすぢもなく、まなびやうもみづから思ひよれるかたなきは、物しり人につきて、「いづれのすぢに入りてかやからん。又、うひ学びの輩のまなびやうは、いづれの書よりまづ見るべきぞ」など問ひ求む、これつねの事なるが、まことに然あるべきことにて、その学びのしなを正し、まなびやうの法をも正して、ゆくさきよこさまなるあしき方に落ちざるやう。又、其業のはやく成るべきやう、すべて功(いさを)多かるべきやうを、はじめより、よくしたためて入いらもほしわざ也。

 最初から、研究テーマや方向性、興味の対象が決まっている人は、自己能力で、その研究、学習方法も見いだして、進むことが出来るが、一方で、そんな研究テーマや方向性、興味が最初から決まっていない人は、物知り人(教師やそのすぢに詳しい人)の教えを受けて、
 「どの様な分野、方法を選んだら宜しいでしょうか。又、その入門書は、どんなものがお薦めですか。」等を質問して求めることは、世の中の常である。

 これは、本当にもっともなことであり、その学習や研究に取り組み態度や学習や研究方法そのものを矯正して、間違った方向に陥らないように方向修正を行い、又、研究や学習を進めて大きな成果を早い段階で得ることが出来る様な効率的な研究、学習方法を知っておきたいものである。

 結局、多くの学生がテーマを見いだすことに苦労するが、その様な人は、良い教師について、その研究テーマ、研究方針、研究方法を早い段階で身につけることの大切さをここでは、述べている。

③同じく精力を用ひながらも、そのすぢそのまなぶやうによりて得失あるべきこと也。
 研究方法次第で、同じ労力、時間を消費しても、成果に大きな差が出てくるのである。

④然はあれども、まづかの学びのしなじなは、他よりしひてそれをとはいひがたし。大抵みずから思ひよれる方にまかすべき也。

 しかし、そうであっても、研究や学習方法は他人から強制されるものではなくて、大抵は、「思ひよれる方」に従って自発的に進めなければならないのである。

 私の経験では、興味や学習方法は、結局は、教えられた通りやるものではなくて、早く、「思ひよれるすぢ」を見いだして、自律的に進めていかなければ、学問や研究そのものへの興味さえも失ってしまうものである。

⑤いかに初心なればとても、学問にもこころざすほどのものは、むげに小児の心のやうにはあらねば、ほどほどにみづから思ひよれるすぢは必ずあるものなり。

 学問を志す者はもう子供ではないのだから、それぞれにおいて、自らの志望、志向は必ず見つかるものである。

⑥又、面々好むかたと好まぬ方ども有り、又、生まれつき得たる事と得ぬ事ども有る物なるを、好まぬ事得ぬ事をしては、同じやうにつとめても、功を得ることすくなし。

 生まれながらに人は好き嫌いがあり、更に才能がある分野と無い分野があるので、嫌いなこと、不得手な事を、その分野が好きな人、才能がある人と一緒に努力しても成果を得ることは非常に少ないのである。

 まさに私もその様な勝手な人間だと思う。しかし、現代社会は、その様な勝手を許さない。学歴や資格を得る為に履修単位が必要だから、渋々、嫌いでも不得手でも、その講義を受けたり、卒論に取り組んだりしている学生達がいかに多いことか。

⑦又、いづれのしなにもせよ、学びやうの次第も、一わたりの理によりて「云々してよろし」とさして教へんは、やすきことなれども、そのさして教へたるごとくにして、果たしてよきものならんや、又思ひの他にさては、あしき物ならんや、実にはしりがたきことなれば、これもしひて定めがたきわざにして、実はただ其人の心まかせにしてよき也。

 又、どの様な学問分野にしても、研究方法について「1つの理想」のみが絶対であるとして教える。機械的に教えることは簡単であるが、そんな指導方法を採って本当に良いものだろうか。教師にとっては、それが理想的な方法にとっても学生や生徒にとっては、非常にやりにくく、悪い結果を生む事になるかもしれないのである。だから、研究指導は、実際には、本人の意思を尊重して行われるべきなのである。

 なにか、現代の佛大の修論中間発表会とか、大学での現場をみながら、宣長が文章を書いている様な気がする。
 博士課程の学生ですら、「こいつ、「思ひよれる方」か何か、本当にあるのか。」と思うような程度の低い研究発表が全体の8割方を占めており、国文近世文学のN先生の毒舌がそういった学生を叩きのめしていった。 

 こんな風に、覇気や自主性の無い学生が多いことから、論文テーマを提出させて、先行研究がどうのこうのしている内に、自分の姿を失ってしまうのである。

 やがて、大学自体に興味を無くしてしまって、中途退学につながっていく。私も関大の時は、その様な弊害の中で受動的な学習態度であったので、ほとんど何も得るものはなかった。

 佛教大学の通信大学院に入って、研究テーマから日常的な学習態度、研究方法まで、自分で開拓、開発する面白さ、楽しさを得たから今の自分があるのだと思っている。

 写真は宣長の旧宅の書斎に上がる階段。

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