めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな ― 2009/10/03 23:17
はやうよりわらは友達なりし人に、年頃経て 行きあひたるが、ほのかにて、十月十日の程 に月にきほひて帰りにければ、
めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな
空白部分
その人遠き所へいくなりけり。秋のはつる日 来て暁に虫の声あはれなり
鳴き弱る籬の虫もとめ難き秋の別れや悲しかるらん
今日は、中秋の名月。
折しも、中古文学会秋季大会のシンポジウムが関西大学で開催された。
今回は、紫式部集を中心とした研究発表を中心に討論が行われた。
中秋の名月の日に紫式部にちなむ研究シンポジウムを行うとは、さすがに中古文学会だと思ったが、どうせならば、石山寺等の特別会場でやれば、風流だったろうに。
関大のキャンパスからみた満月だが、やはり、あんまり風情はない。
和歌は、紫式部集の部分で、この私家集の中ではもっとも重要な和歌である。旧暦の十月十日ということなので、もっと季節は秋の終わりの気配を漂わせていたが、今日、十月三日に比較的近い時節。
幼友達との別れの時がやってきた。お互いにもう逢うことがないかもしれないと思いながら、歌を贈答したが、その片割れの歌のみが歌集に取りあげられた。
実践女子大本では、なにか削り取られた様な空白部分がある。その空白部分が何を意味するのかは、諸説あるが、真相は分からない。
贈答歌の片割れを独詠と見立てることは読み手の自由である。そうすると、その歌の余韻・世界は、歌集全体に広がっていく。
例えば、この歌集の最後の歌、
なき人をしのぶることもいつまでぞけふのあはれはあすの我が身を(実践女子大本)
と組み合わせてみれば、娘時代に始まるこの歌集の冒頭歌は、結局、亡き人を偲ぶ歌につながってくることになる。
「雲隠れ」という語彙は、源氏物語の光源氏の死を暗示する「雲隠巻」等の巻名にみられる様に、人生の終わりという意味にも通じる。
「遠き所」とは彼岸、虫の音は、源氏物語鈴虫巻にある様に、仏の世界に導く働きをするという解釈は、国宝源氏物語巻の鈴虫にも通じる。
中世以降、紫式部といえば、「夜半の月」のイメージが宗教性を帯びて、更には、この月のイメージが石山寺という名所のイメージとの重合し、湖月抄のイメージへと近世、あるいは戦前の源氏物語解釈までにもダブっていって、どうしようもない状況になるのである。
清水好子先生による岩波新書「紫式部」では、この様な中世・近世的イメージを払拭し、独自の視点・感性・表現力で、20世紀的な感性に、紫式部・紫式部集のイメージを変化させたのである。
戦後の新たな女性観、ジェンダー的な視点に立つパラダイムの中で、「娘時代に誰しも持つ感性」の中で、この歌を捉え解釈したことは、画期的な成果であったと言っても過言ではないが、その後の研究は総て、今度は、紫式部ならぬ清水好子先生のイメージに支配されてしまって、その呪縛を解き放つのに21世紀になっても難しいのが、紫式部集の研究の現状だと思う。
***************************
今回のシンポジウムで最初に「紫式部集の方法 冒頭歌の示すもの」という題目で発表された山本淳子先生の解釈は、源氏物語は、紫式部じしんが自作詠歌をほぼ年代順に配列し、更には、地方への赴任、夫宣孝との結婚と死別等の人生折節の出来事を踏まえて「物語風」にアレンジを行ったもので、想定された物語のイメージに適合する様に一部、改作を行って作品として仕上げたという「自撰・物語(ものがたり)歌説」を主張された。
一方、「紫式部集 自撰説の見直し」という題目で講演された徳原茂実先生の場合は、紫式部集は、生前の紫式部が読んだ詠歌を後代の子孫(先生は、孫であるかも知れないとその後の質疑応答で回答されていたが、その様な史実は、存在していない)が、作者に纏わる言い伝えやエピソードに基づいて配列・編集を行ったという「他撰説」を主張された。概ね歌の配列には矛盾がないが、最近の紫式部の伝記の研究成果を踏まえてみると錯誤が生じている。本人であれば、間違えない様な過ちを犯していることが「他撰説」の根拠である。
しかし、自撰説、他撰説共に決定的な証拠は、新たな異本でも出ない限り、現存資料での実証は不可能である。更に、陽明文庫本、実践女子大本ともに善本であるが、大きな欠落や錯誤が存在する。写し間違えとは、例えば、伝定家自筆本の断簡等と照合しても少ないが、仮名遣い等、細かい部分は異なっている。
つまり、紫式部集が伝写され、「鑑賞の対象となるプライベートな私撰集」という矛盾の中で、伝本の過程の中で、作為・恣意を問わず、配置の変更、改作等が行われた可能性もあり、これを「他撰」として位置づけることが出来るのか、現代の我々は、「自撰」とされるオリジナルの紫式部集の姿を確かめ様がないので、この様な「自撰」、「他撰」を論じること自体がナンセンスだと思う。
但し、山本淳子先生の「ものがたり歌集」というコンセプトは、ユニークであり、紫式部集の「鑑賞のヒント」としては、新たな視点を提供するものとして注目されるだろう。
この他、工藤重矩先生の「紫式部集解釈の難しさ」と講演では、
なくなりし人のむすめのおやのてにてかきつけたりけるものを見ていひたりし
夕霧にみしま隠れしをしのこの跡をみるみる迷はるるかな
というこの歌集の中で、解釈に幾つも説がある難解な歌を取りあげられているが、私も、佛大通信大学院のスクーリングの演習で、この歌の発表が当たってしまって難儀したことを記憶している。
結局、紫式部集の成立事情、作品解釈の総ての面において、「必ず、こうでなければならない」という読み方は存在しない訳で、研究等関係ない一般の読み手は、自由に想像をめぐらせて読めばいいので、「こんな些細なことに拘って暇人やのぉ~」と呆れることになってしまう。
これが、昨今の古典研究の問題点だと思う。あまりにも実証的な厳格な研究姿勢では、あまりにも味気なく、知的創造の芽を摘んでしまうし、「推論」というよりも「想像」といった方が良い山本先生の論も、極端であり過ぎる。
20世紀後半の国文学の世界は、僅かな天才的な研究者の例外を除き、あまりにも、文献学的側面に束縛され、実証的かつ厳格な研究姿勢であり過ぎた為に創造性を失い、閉塞的な状況に追い込まれてしまった。21世紀に入ってようやくユニークな視点での研究が生まれてこようとしているが、「科学的・学問的な研究」を求めている現代の潮流にそぐわないあまりにも恣意的かつ文学的な実証・推論方法しかない。
新しい視点に見合った新たな研究・実証手法を今後は、開拓していく必要があるのではないかと考えさせられた。
帰宅してふと夜空を見上げてみると、中秋の名月は「雲隠れ」してしまって、あっという間の明暗の転換に人生の儚さを感じてしまった。
それにしても久しぶりに良い「歌の世界の月見」をしたものだと思う。
めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな
空白部分
その人遠き所へいくなりけり。秋のはつる日 来て暁に虫の声あはれなり
鳴き弱る籬の虫もとめ難き秋の別れや悲しかるらん
今日は、中秋の名月。
折しも、中古文学会秋季大会のシンポジウムが関西大学で開催された。
今回は、紫式部集を中心とした研究発表を中心に討論が行われた。
中秋の名月の日に紫式部にちなむ研究シンポジウムを行うとは、さすがに中古文学会だと思ったが、どうせならば、石山寺等の特別会場でやれば、風流だったろうに。
関大のキャンパスからみた満月だが、やはり、あんまり風情はない。
和歌は、紫式部集の部分で、この私家集の中ではもっとも重要な和歌である。旧暦の十月十日ということなので、もっと季節は秋の終わりの気配を漂わせていたが、今日、十月三日に比較的近い時節。
幼友達との別れの時がやってきた。お互いにもう逢うことがないかもしれないと思いながら、歌を贈答したが、その片割れの歌のみが歌集に取りあげられた。
実践女子大本では、なにか削り取られた様な空白部分がある。その空白部分が何を意味するのかは、諸説あるが、真相は分からない。
贈答歌の片割れを独詠と見立てることは読み手の自由である。そうすると、その歌の余韻・世界は、歌集全体に広がっていく。
例えば、この歌集の最後の歌、
なき人をしのぶることもいつまでぞけふのあはれはあすの我が身を(実践女子大本)
と組み合わせてみれば、娘時代に始まるこの歌集の冒頭歌は、結局、亡き人を偲ぶ歌につながってくることになる。
「雲隠れ」という語彙は、源氏物語の光源氏の死を暗示する「雲隠巻」等の巻名にみられる様に、人生の終わりという意味にも通じる。
「遠き所」とは彼岸、虫の音は、源氏物語鈴虫巻にある様に、仏の世界に導く働きをするという解釈は、国宝源氏物語巻の鈴虫にも通じる。
中世以降、紫式部といえば、「夜半の月」のイメージが宗教性を帯びて、更には、この月のイメージが石山寺という名所のイメージとの重合し、湖月抄のイメージへと近世、あるいは戦前の源氏物語解釈までにもダブっていって、どうしようもない状況になるのである。
清水好子先生による岩波新書「紫式部」では、この様な中世・近世的イメージを払拭し、独自の視点・感性・表現力で、20世紀的な感性に、紫式部・紫式部集のイメージを変化させたのである。
戦後の新たな女性観、ジェンダー的な視点に立つパラダイムの中で、「娘時代に誰しも持つ感性」の中で、この歌を捉え解釈したことは、画期的な成果であったと言っても過言ではないが、その後の研究は総て、今度は、紫式部ならぬ清水好子先生のイメージに支配されてしまって、その呪縛を解き放つのに21世紀になっても難しいのが、紫式部集の研究の現状だと思う。
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今回のシンポジウムで最初に「紫式部集の方法 冒頭歌の示すもの」という題目で発表された山本淳子先生の解釈は、源氏物語は、紫式部じしんが自作詠歌をほぼ年代順に配列し、更には、地方への赴任、夫宣孝との結婚と死別等の人生折節の出来事を踏まえて「物語風」にアレンジを行ったもので、想定された物語のイメージに適合する様に一部、改作を行って作品として仕上げたという「自撰・物語(ものがたり)歌説」を主張された。
一方、「紫式部集 自撰説の見直し」という題目で講演された徳原茂実先生の場合は、紫式部集は、生前の紫式部が読んだ詠歌を後代の子孫(先生は、孫であるかも知れないとその後の質疑応答で回答されていたが、その様な史実は、存在していない)が、作者に纏わる言い伝えやエピソードに基づいて配列・編集を行ったという「他撰説」を主張された。概ね歌の配列には矛盾がないが、最近の紫式部の伝記の研究成果を踏まえてみると錯誤が生じている。本人であれば、間違えない様な過ちを犯していることが「他撰説」の根拠である。
しかし、自撰説、他撰説共に決定的な証拠は、新たな異本でも出ない限り、現存資料での実証は不可能である。更に、陽明文庫本、実践女子大本ともに善本であるが、大きな欠落や錯誤が存在する。写し間違えとは、例えば、伝定家自筆本の断簡等と照合しても少ないが、仮名遣い等、細かい部分は異なっている。
つまり、紫式部集が伝写され、「鑑賞の対象となるプライベートな私撰集」という矛盾の中で、伝本の過程の中で、作為・恣意を問わず、配置の変更、改作等が行われた可能性もあり、これを「他撰」として位置づけることが出来るのか、現代の我々は、「自撰」とされるオリジナルの紫式部集の姿を確かめ様がないので、この様な「自撰」、「他撰」を論じること自体がナンセンスだと思う。
但し、山本淳子先生の「ものがたり歌集」というコンセプトは、ユニークであり、紫式部集の「鑑賞のヒント」としては、新たな視点を提供するものとして注目されるだろう。
この他、工藤重矩先生の「紫式部集解釈の難しさ」と講演では、
なくなりし人のむすめのおやのてにてかきつけたりけるものを見ていひたりし
夕霧にみしま隠れしをしのこの跡をみるみる迷はるるかな
というこの歌集の中で、解釈に幾つも説がある難解な歌を取りあげられているが、私も、佛大通信大学院のスクーリングの演習で、この歌の発表が当たってしまって難儀したことを記憶している。
結局、紫式部集の成立事情、作品解釈の総ての面において、「必ず、こうでなければならない」という読み方は存在しない訳で、研究等関係ない一般の読み手は、自由に想像をめぐらせて読めばいいので、「こんな些細なことに拘って暇人やのぉ~」と呆れることになってしまう。
これが、昨今の古典研究の問題点だと思う。あまりにも実証的な厳格な研究姿勢では、あまりにも味気なく、知的創造の芽を摘んでしまうし、「推論」というよりも「想像」といった方が良い山本先生の論も、極端であり過ぎる。
20世紀後半の国文学の世界は、僅かな天才的な研究者の例外を除き、あまりにも、文献学的側面に束縛され、実証的かつ厳格な研究姿勢であり過ぎた為に創造性を失い、閉塞的な状況に追い込まれてしまった。21世紀に入ってようやくユニークな視点での研究が生まれてこようとしているが、「科学的・学問的な研究」を求めている現代の潮流にそぐわないあまりにも恣意的かつ文学的な実証・推論方法しかない。
新しい視点に見合った新たな研究・実証手法を今後は、開拓していく必要があるのではないかと考えさせられた。
帰宅してふと夜空を見上げてみると、中秋の名月は「雲隠れ」してしまって、あっという間の明暗の転換に人生の儚さを感じてしまった。
それにしても久しぶりに良い「歌の世界の月見」をしたものだと思う。
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