Lumixに比べて描写に鋭さがない2009/12/01 20:39

EX-H10で撮影
朝夕、めっきり冷え込んで身体もしんどくなってきた。

家の回りの紅葉も今が見頃になっていて、庭にも冬の小鳥たちがやってくる様になった。

写真は、家の近所の神社の境内の紅葉でEXILIM H10で撮影したが、やはり、Lumixに比べて描写に鋭さがない。

前にEXP-505でも同様の傾向だったが、自然の描写とみる人とピントが甘いと見る人で評価が分かれると思う。

また、広角側の画像の乱れ方などもLUMIXのバリオエルマーの方が上等だと思った。

値段が値段なので仕方がないか。
電池は、まだ、買って最初に充電してから一度も再充電していないので、電池マークが最大を示している。凄いバッテリーの保ちだと思う。

これも長所とみれば長所だが。

敗戦の屈辱を決して忘れてはならない2009/12/01 23:22

 巣鴨プリズンには、A級、B級、C級戦犯、延べ5千人位が収容され、その内、100名が処刑、病死、自殺等で尊い生命が奪われていった。

 戦犯に仕立て上げられた理由としては、捕虜虐待で、収容所に勤務していただけで、死刑判決を受けた収容者もいるという。

 この巣鴨獄中記を通読して感じたことは、以前、ここで紹介した『破獄』という作品があるが、そこでの日本の監獄に収容された囚人よりも遙かに重労働、狭い独房に2名も収容、酷い食事等々虫けらの様な扱いをMPに受けていた。

 例えば、食事を終えて食器が独房の外に出されるが、米人の看守は、足で蹴って食器を部屋の片隅に集めるという凡そ家畜以下の虐待が行われている。
 
 一番、気の毒であったのは、東条英機以下、7名のA級戦犯の処刑後の遺灰の収容することさえ、許可されなかったことで、死者に鞭打つ様な非人道的なことが行われていた点である。

 最近のニュースで、沖縄返還の際の密約が話題にされているが、占領軍と被占領国、勝者と敗者との関係は、現代に至るまで普天間問題を含めて継続している点であり、日本人は、アメリカ国内に設置された日本人向け収容所の記憶や、『巣鴨獄中記』を読むことで、敗戦の屈辱を決して忘れてはならないと腹の底から思った。

今年のNHK大河ドラマの続編ともいうべき本2009/12/03 11:10

 どこかの大学教授がブログで、今年の大河ドラマは手抜きであったとか書かれていたが、テーマが元々地味であるだけに仕方が無かった感がある。

 但し、兼続が亡くなるシーンが、米沢かどこかになっているが、史実は、江戸藩邸で隠居後、急逝することになっている。

 兼続が果たした役割、これは、江戸時代の「農民支配」の規範を最初に文章化した点で歴史的意義は大きい。

 たしかに「愛」は存在するが、現在の私たちが地域に対して持っている愛着や、人間愛とは異なり、やはり為政者としての愛である。

 この『米沢藩の経営学』では、そういった点について詳細な記述がみられる。米沢藩(上杉氏)、米沢に移封後、兼続の改革の成果で、暫くは安泰が続くが、あの忠臣蔵の吉良上野介に藩主が「暗殺?」され、世継ぎが断絶、改易の危機に瀕する。老中保科の口添えで、上野介の嫡子が相続するが、領地・石高は、更に半減される。

 吉良家の出身だけあって、新藩主は浪費癖もあり、藩政は危機に瀕する。どこかの国の財政同様に、ごまかしごまかしで数代続いたが、重定公の時代になって、ついに藩政が立ちゆかなくなって、幕府に「版籍奉還」を申し出る。

 この様な状況を打破すべく、秋月藩から新しい藩主、上杉直丸が迎えられ、新藩主となる。これら、かの有名な上杉鷹山である。

 上杉家の藩政改革は、兼続、鷹山の改革が二大改革を呼ばれるものである。

 兼続の改革は、幕府の慶安の御触書のモデルとも言える徹底した農民支配を「生活管理」から薦める。

 「郡中百姓役儀相定覚」という御触書である。
 慶長年間に数度に亘って発令された。

 特に5人組制度等は、後の幕府によって定められた農民支配の法令制度のモデルになった。

 半農半武等を薦めて、結局、藩士のリストラを行わずに財政を維持する方法であり、これは一定の成功を収めたが、収奪される農民は堪ったものではない。あまりに厳しい年貢の取り立てに、藩主の支配を止めてあの苛政で知られる天領各地の方がマシで、天領にして欲しいとの悲鳴さえあったようだ。

 また、最大の火種としては、全体の人口構成の中で、武士・官僚の占める割合が20%を越えたということである。

 その様な火種を抱えたまま、年月が経過し、その後、継子断絶の咎を受けて、幕府から、延宝年間に下された30万石から15万石への減封措置によって、兼続が築いた農民支配体制でも藩政の維持が困難になった状況で上杉鷹山の改革が行われた。

 この改革は、武士・支配階級のリストラと専制君主体制の構築、農民の保護施策、徹底的な倹約で、いわば、国全体の経営規模の縮小化による危機克服である。

 この改革が成功したか否かについては、多くの外様が改易になって消滅する中で、一応は、上杉藩が幕末まで継続したという事実をみれば、成功であったとも言えるが、結局は、細々と生き延びて来たということに過ぎないのだろうか。

 明治新政府になっても、幕府軍に味方した上杉家は厳しい仕置きを受ける。前の知藩知が投げ出した琉球・沖縄県の新政府支配の為に上杉家が派遣され、同じく華族の池田氏との対談の形式で、この作品では、上杉家の代々の改革を俯瞰していく書き方となっている。

 江戸期の行政史を見るときに、どうしても幕政改革に目が向きがちであるが、上杉家の改革の様な大名家、それも、外様の藩政改革の歴史を見るというのも新たな視点を与えてくれるのではないかと思う。

 江戸時代の地方史は、まさに藩政改革に明け暮れたのである。

 結局は、幕藩体制による地域支配の矛盾の克服という課題であったが、その課題が克服される前に、欧米列強の外圧による維新を迎えてしまい、地域行政と一般人民との乖離という課題は、今なお、21世紀の現代日本社会にも燻り続けているのではないだろうか。

カメラ女子曰く、「毎日、カメラを持ち歩くようになって、ものの見方が変わった」2009/12/04 09:20


一昨昨日位のNHKの朝ニュースで、「カメラ女子」の特集がやっていた。

カメラと言えば、中高年のオッサン・爺さんか外人(観光客)の持ち物というイメージであったが、たしかに最近、地下鉄の中等で、古いヤシカとかCANONの銀塩、あるいは、最近のマイクロフォーサーズのカメラを首にかけた「女子」が目立つ様になっている。

撮影ポイントにしている靱公園にもそういった女の子達の姿をみかける。

「毎日、カメラを持ち歩くようになって、ものの見方が変わった。」

というのが共通意見だが、撮影が日常的になると、どの様な「絵」が出来るかイメージしながら、日常の事物を眺める様になるので、世界が変わるのだと思う。

最初は、デジカメ、そうして、銀塩とエスカレートしていく。

銀塩からは、「進化」の道筋が分かれ、ロモ、ポラ、ホルガに走る娘達と、ライカ、LマウントのCANON、2眼レフに走る娘達と分かれる。

最近では、35㎜二眼レフが学研の付録雑誌で発売されている。

撮影していて厄介だけれどもたしかに中盤カメラは仕上がりが迫力があって格好いい。

コンパクトや35㎜を持ち歩いていて、ここぞといった時に構えるのに良いカメラかもしれない。

私たちは、「人間である」(ヒトとしての道を歩む)2009/12/04 10:34

大阪府立大学人間社会学部パンフレットから


 私たち国文学を研究しているものとしては、大阪府立大学と言えば、説話文学の田中宗博教授が思い浮かぶ。


 説話文学といえば、今昔物語集や宇治拾遺物語、発心集等の作品が挙げられる。

 説話文学作品へのアプローチには、様々な側面から可能である。史料的側面、地理的側面、社会史、思想史、心理学等人間科学的側面からも可能である。

 また、説話から、更にその周辺領域である和歌や物語とも関連を持ち、時空の隔たりを経て芥川等の近代文学世界への関連を持っている。

 2009年の春には、大阪府立大学が人間社会学部として改編されて、最初の卒業生が巣立った。卒論には、今昔物語第27怪異説話の研究、熊野の本地、日本古典文学における狼についての研究等のユニークなものもある。

 府立大学の場合は、文学作品にのみならず、言語文化について広い視野を持って取り組んでいる。

 その中には、言語情報処理、言語データ処理、応用言語学、異文化間コミュニケーション等も含まれている。


 「言語」は、人間文化の基本である。「言語」がなければ、思考や論理,
科学さえも成立しない。

 つまり、人間の存在の基本は、「言語」であり、それを研究する学問は、私たちが、「人間である」(ヒトとしての道を歩む)ということを前提に、社会に存在している限り、必要不可欠な学部、学科なのである。

http://www.human.osakafu-u.ac.jp/download/index.html

風呂に入って、ようやくこの家のオーナーになったという感じがするので不思議2009/12/04 23:11

 今日は、ついに、ボロ家のお泊まりデビュー。

 明日は、給湯器の設置工事が明日、朝からあるので、その前夜から泊まり込み。

 何回かに分けて、布団や暖房器具等をリュックに入れて搬入。
 おかげで助かっている。

 さすが六甲山の裏山だけあって、標高が高いので、夜になると暖房がされていない室内では、吐く息が白くなる。こんなに息が白くなるのは、久しぶりの体験。9月下旬頃に富士山に登った時、こうなったのを記憶している。


 暖房器具は、小型ガスストーブおよびセラミックファンヒーターですべて、リュックにいれて背中に背負う強力スタイルで搬入。布団はさすがにクロネコヤマトのお世話になった。

 お風呂に入れる様になるまでも時間がかかった。まず、釜の修理とか掃除。
 掃除も大変だった。

 今日、初めてこの家のお風呂デビュー。
 浴槽はステンレスで傷んでいなかった。
 浴室は、一部、壁の上面に震災の傷跡があるが、それ以外は綺麗。
 ほとんど使われていなかった感じ。

 天井が高いので寛げる。
 浴槽は、実家の足が伸ばせる老人用の風呂ではないので窮屈だが、まあ、一般的なお風呂である。

 気温が低いので湯気で部屋の中が真っ白で温泉のようだった。

 風呂に入って、ようやくこの家のオーナーになったという感じがするので不思議。

 今日もあちらこちら掃除するが、最新の洗剤とかクリーナーをテストする様な感じで驚くほど、汚れが落ちる。

 前の居住者は、果たして掃除をしていたんだろうかと思った。

 家の雨漏りも雨樋修理後は、壁等も乾いてきて、快方に向かっているようだ。

 それにしても寒い。

 実家の能勢も寒いので有名だったが、30年以上前に開発されていない時に引っ越して来た時の寒さを思い出した。

 早く寝よう。今夜は、2階の四畳半和室で休む予定。

住環境が幾分改善された2009/12/05 13:18

ようやく一夜が明けたが、寒くてなかなか寝付かれなかった。

ドンドンと太鼓の様な音がする。
なんだろうかと思って雨戸を開けて外をみると、雨樋から
水が漏れて庇に当たっている。

ハシゴで上って雨樋直したいがハシゴがないので断念。

外はすごく寒い。
何よりも一番困ったのは、TVがみられないことで、ロジクールのワンセグチューナーを持参して、共聴アンテナに接続したが、電波が入らない。

ところが、PSPのワンセグだとアンテナ無しでも受信可能なので、今更ながらPSPの凄さに感心する。

工事の人は、予定よりもずっと早く9時位に家に来た。
もともとのボロボロの屋内型の給湯器を外すのに大変な手間だった。
不気味な水漏れをセメンで応急修理した痕跡を外すのに手間取った。

それから壁の四角い穴を塞いで、屋外設置用のガス、水道、温水用の3つの穴を開けて、取り付けて、すべての作業完了したのは、昼過ぎ。

工事の人もご苦労さまだったが、その間、窓を開けての作業なので寒くて仕方がなかった。

でも、これでようやくお湯が使える様になり、掃除や風呂のお湯張り等が非常に楽になり、住環境が幾分改善された。

「なんやこれは....」とエイリアンを見る様な感じ。2009/12/05 20:57

 ようやく実家に帰宅したが、気温があまりにも高いので驚いている。

 ボロ家では、ストーブをガンガン炊いてもその部屋がから一歩でもでようなら、息が真っ白。

 地球温暖化が始まる前の過去の少年時代を思い出させてくれる程。

 こちらでは、薄着でも室内ならOK。この違いは恐ろしい。

 今日は、とうとう、ボロ家最大の強敵で不気味性を振りまいていた故障した給湯器を対峙した。

 写真をみても判る様に室内給湯器。
 
 傑作なのは、水道水から給湯器に入るフレキの部分が破壊されたので、それをセメンというか漆喰で固めて水漏れを防いでいる。

 下の蛇口はただ単に漆喰の支え役で全く機能していなかった。

 大阪ガスと和光さんという業者に見積もりしてもらったが、異口同音に、「なんやこれは....」とエイリアンを見る様な感じ。

 結局、フレキ1本を取り替えれば、綺麗になおるのをこんな馬鹿な事をして前の住人さんは凌いでいた。

 修理代を支払っても配管1本の取り替えなので、数千円で済んだ筈。
 但し、大阪ガスの職人さんは、こんな簡単な修理はしてくれず、新型との取り替え(数十万円もする)を勧めるばかりなので、インターネットもなくて連絡先も判らない人は、こんな姑息なことをするのかもしれない。

 なにやら憐れな感じもする。

 今日、和光の職人さんが怪物退治をしてくれた。レンチとノミ、カッター等、近代兵器を総動員して、不気味な漆喰を解体。

 上の親玉の給湯器も無事、取り外した。但し、この格闘に1時間30分もかかってしまった。古い給湯器を外しただけで、職人さんはゲンナリ。

 その後、リンナイの室内壁掛け型のRUX-A1610W-Eを取り付ける。ガス配管が屋外にもあるが、バルブがどうしても開かなかったので、室内からガス管を引き込む。その他、水道管と電気、リモコン、温水用の穴も開ける。

 配管には凍結防止のマフラーをつける。この作業も厄介。

 それでも作業が完了して、お湯が出る様になって、ようやくこのボロ家との格闘も徐々に成果が出てきたかと思った。

コロナGT-329Yを購入。2009/12/06 09:32

コロナGT-329Yを購入。

山善通販で、デリバリ込みで1万4800円。佐川急便。
配達指定時間は、午前10時から12時だったが、12時を少し過ぎて届く。いつもだけれども、どうやら場所が判りにくいらしい。このお兄さんも近所の人に聞き回ってようやく到着したらしい。(番地がGPS表示されないみたい。)

価格コムでみると、最低価格は、一万1642円だったが、鈴蘭台ダイエーでは、在庫無しで取り寄せで1万円ジャスト。

なんでこんなに価格差があるんだろう。やはり、価格COMでチェックして買わないと。

折良く、昭和シェルのクルマがボロ家の前を通りかかったので、灯油1タンク分を購入。価格は、1,720円だったかな。

生まれて初めて石油ファンヒーターというのを使う。燃料タンク(カートリッジ式)に石油をポンプでチューチューと入れるのだが、タンクの形状が不安定で危ない。

しっかり蓋をして、本体に注油済みのカートリッジを差し込む。(ヤレヤレ)

AC電源コードを差し込んで、運転開始ボタンを押す。

ウンともスンとも言わず。結局、現在時刻とタイマーを設定しないと点火しない仕組み。

これで運転開始(点火ボタン)を押すとボワっと石油臭い匂いが最初して、運転が始まる。

さすがに凄い温風が出てくるので満足した。但し、若干不完全燃焼気味である。

説明書を読むと、高地対応のボタンをセットしないと駄目らしい。標高500メートル以上になると不完全燃焼を起こすという。この土地は、標高300メートルを超えているので、若干、高地対応が必要なのかもしれない。日本でも松本市(弟が住んでいる)等では、この高地対応ボタンの設定をする必要がある。

高度1500メートル以上では、この暖房機は使用出来ないという。

この辺りが説明書を読んでいて一番面白かった。コロナGT-329Yの使用は燃料タンク等、もう少し親切にしてもらいたいがそれ以外のつくりは、価格の割にはしっかりしており、好感がもてる製品だと思った。

前向きに生きたい2009/12/06 18:19

 86年の3月に関西大学を卒業して、苦しい生活の中で、読書とか学問とかそういった習慣は消滅していった。

 20年位前に、今の会社に入って時間的に余裕が出来たが、生活自体が苦しかったので、学問・研究どころではなかった。

 某大手商社系列のコンピュータ会社に転職し、その為に、90年に入居した6年間居住した大阪深江橋のワンルームマンション。

 その会社もバブル崩壊で長続きせず、また、もといた業界新聞記者となり、貧乏生活に逆戻り。

 今の会社に戻って時間的に余裕が出来たが、生活自体が苦しかったので、学問・研究どころではなかった。
 
 旅行などを繰りかえした結果、数100万円の借金が出来て、ワンルームを退去してから、ずっと両親のお世話になってきた。

 生活費がかからないので、最初の2年間で借金の完済の目処が立った。カード会社に借金を返済してからは、好きなことにお金を使うことが出来た。

 会社から支払われる給料は、同年代のサラリーマンの平均給与所得水準の約1/4だったが、配偶者も子供もおらない私が、これらの総てを余剰所得として消費することが出来た。

 つまり、まともなサラリーマンよりも、教養娯楽費の金額は恐らく高かったのだと思う。

 97年には在宅勤務開始。翌年から2002年までは、切手収集やら、登山に明け暮れた毎日だった。

 睡眠時無呼吸症の治療を行うことが出来て、脳みその容量が増えた様な感じがして、蘇生した。
 
 やがて学問とか研究とか読書に興味を持ち始めた。

  実家に入って5年目の2月頃に関大の大学院の総合情報学部の社会人選抜を受けた。「あんたの様な低所得者では、関大での学修は無理だろう。」と明らかに差別的なことを言われて、キレテ、面接の途中で席を立った。

 当時の私の気持ちはねじ切れていたので誤解だったとかも知れない。

 その年のたしか11月位だったか、佛教大学の大学院通信課程の試験を受けた。当時は、書類選考とか筆記試験の選抜が緩やかだったので、面接まで進むことが出来た。

 専攻主任の長友先生とか上野辰義先生とか厳しい質問を受けて、「これも駄目だったんだな。」と思って、近くのラーメン屋さんでラーメンと餃子か何かを頼んでやけ食いしてから帰宅した。

 数日して、合格通知が届いた時には、私は目を疑った。「自分には永久に大学院等で学ぶ機会がない。」と思っていたので、文字通り有頂天の気持ちになった。

 入学式までの数ヶ月間、楽しくて、楽しくて、仕方が無かった。国文学の文献目録や最近の研究動向等を調べる為に校友閲覧可能な関大の図書館に通って夢を膨らませた。

 その後、大学院国文学専攻、応用社会学科、そして、仏教芸術コースと佛教大学には6年間お世話になった。

 実に貴重な6年間であったと思う。二度とこんな時間は戻ってこないだろう。

 総ては、両親と、佛教大学の皆さんや、学修に協力して下さった方々のお陰だと感謝している。

 いよいよ来年からは、新しい家での「自活」。

 なんと「50歳の自立」である。パラサイターから脱却できるかの瀬戸際であるが、前途は厳しい。

 これまでの様な書物や学修にお金裂くような余裕は永遠に消滅するだろう。

 総ては想い出の中にしまい込まれるのだと思う。
 私にはもう未来はないのだと思うが、これで良いのだと思う。
 やりたいことがとにかく出来たのだから。