千年樹 ― 2010/08/14 16:40
今日は、実家でお盆の墓参り。
僕も死んで、誰か身よりの人がいた場合(恐らくおらず無縁仏扱いされるだろう)には、ここに埋葬される筈。
1人で墓参り。
母親は、そんな体力も気力も残っていないし、父親とは仲が悪いので、1人でいくしかない。
前回は、数年前なので、ずいぶん墓地がある丘にあがる道が変わっていた。少し迷って汗だくなって墓地に到着したが、肝心の墓の場所を探すのに苦労した。
ようやく発見して、戒名等を確認の上、準備を行う。花は、近くの花家さんで、1束315円の白と黄色の菊の花を買った。
簡単な掃除をして花を供えた。父親が備えた花が残っていたので、脇に指した。
今日は、幸い、曇りで雨交じりだったが、風が強く線香に火がつかなかった。
墓参りを終わってから、丘の下の飲食店で、ラーメンと焼きめしを注文したが、合計1300円だったので、驚いた。
最近、チェーンではなくて、田舎の個店で食事したことがなかったので、単価が高いのを忘れていた。もう少し歩いたら、松屋があったのにと後悔した。
その後、3月になくなった叔母の家がどうなっているのか見に行った。植木等が茫々で、お化け屋敷になっていた。ウチの表札がかかっていたので、まだ売却されておらず、泥棒避けに門灯がついていた。(電気代がもったいないと思った。)
ここは昭和初期からのお屋敷街なので、叔母の家位の大きさの家がふつうだったが、大体が相続税の支払いに困って土地を売却、大体、半分位の敷地の現代風の家が建っている。
僕のおうぶの家の1.5倍位の大きさの家だが、最近の建築なので、綺麗で豪華で、自分もこんな家に棲めたら毎日が明るくなるのにと考えたり、己の貧しさに情けなくなったりした。
この家が僕の本籍地となっている。
近くの産土神が祀られている神社があるので、久しぶりに参りした。
以前、「千年樹」という小説のレビューをこのブログに載せたが、この楠も、渡来人の秦氏が植えたとも言われ、江戸時代の摂津名所図絵にも載っている。この上には妖怪が棲んでいて、よなよな奇妙な光を発したという怪談も残っている。
http://fry.asablo.jp/blog/2010/03/27/4978049
少なくとも平安時代からここにあると言われている楠を幼児の時には、見上げながら、ここの境内の中で遊んでいたことが想い出される。その時は、梢の先が、気が遠くなる様な彼方にあるほど
巨大さ、高さを感じたが、今は、こんな感じである。
その後、小学校にも行ってみたが、ここも数100年位経過したとも言える様な変わりようで、昔の通学路をたどることは出来なかった。
今の街の景観の変わりかたは、5年が10年に10年が100年にという位、急速となっている。それが良いのか悪いのか、私には判らない。
僕も死んで、誰か身よりの人がいた場合(恐らくおらず無縁仏扱いされるだろう)には、ここに埋葬される筈。
1人で墓参り。
母親は、そんな体力も気力も残っていないし、父親とは仲が悪いので、1人でいくしかない。
前回は、数年前なので、ずいぶん墓地がある丘にあがる道が変わっていた。少し迷って汗だくなって墓地に到着したが、肝心の墓の場所を探すのに苦労した。
ようやく発見して、戒名等を確認の上、準備を行う。花は、近くの花家さんで、1束315円の白と黄色の菊の花を買った。
簡単な掃除をして花を供えた。父親が備えた花が残っていたので、脇に指した。
今日は、幸い、曇りで雨交じりだったが、風が強く線香に火がつかなかった。
墓参りを終わってから、丘の下の飲食店で、ラーメンと焼きめしを注文したが、合計1300円だったので、驚いた。
最近、チェーンではなくて、田舎の個店で食事したことがなかったので、単価が高いのを忘れていた。もう少し歩いたら、松屋があったのにと後悔した。
その後、3月になくなった叔母の家がどうなっているのか見に行った。植木等が茫々で、お化け屋敷になっていた。ウチの表札がかかっていたので、まだ売却されておらず、泥棒避けに門灯がついていた。(電気代がもったいないと思った。)
ここは昭和初期からのお屋敷街なので、叔母の家位の大きさの家がふつうだったが、大体が相続税の支払いに困って土地を売却、大体、半分位の敷地の現代風の家が建っている。
僕のおうぶの家の1.5倍位の大きさの家だが、最近の建築なので、綺麗で豪華で、自分もこんな家に棲めたら毎日が明るくなるのにと考えたり、己の貧しさに情けなくなったりした。
この家が僕の本籍地となっている。
近くの産土神が祀られている神社があるので、久しぶりに参りした。
以前、「千年樹」という小説のレビューをこのブログに載せたが、この楠も、渡来人の秦氏が植えたとも言われ、江戸時代の摂津名所図絵にも載っている。この上には妖怪が棲んでいて、よなよな奇妙な光を発したという怪談も残っている。
http://fry.asablo.jp/blog/2010/03/27/4978049
少なくとも平安時代からここにあると言われている楠を幼児の時には、見上げながら、ここの境内の中で遊んでいたことが想い出される。その時は、梢の先が、気が遠くなる様な彼方にあるほど
巨大さ、高さを感じたが、今は、こんな感じである。
その後、小学校にも行ってみたが、ここも数100年位経過したとも言える様な変わりようで、昔の通学路をたどることは出来なかった。
今の街の景観の変わりかたは、5年が10年に10年が100年にという位、急速となっている。それが良いのか悪いのか、私には判らない。
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