戦争画2010/09/02 21:42

最近、朝ドラで水木しげるさんの生涯記が放映されているが、戦争画を描かずに済んだだけでもマシである。

関西の重鎮K画伯を始め、名だたる絵描きの大部分が戦争協力画家だった。

彼らは、戦争によって虐げられた人民の苦しみを美化・虚構を描いて、国民に伝えたのである。

戦争に関連する絵を描いて士気を鼓舞する。

更に中国大陸や南方戦線に従軍し、惨たらしい現地人の虐殺の風景を目の当たりしながら、美しい戦争美談、突撃を描かねばならない。

小磯にせよ、藤田にせよ、戦争画のことを話すと非常に不機嫌になったと祖父は回想している。

きっと良心が咎めるのだろう。

祖父も関西の洋画の黎明期に、朝日新聞社の留学生として渡仏し、20世紀初めの頃のフランスに留学して、南欧の風景等を書いた。

戦争が激しくなる時代までには、画壇で一定の地位を獲得していたが、戦争画に協力しなかったので、特攻警察に尾行、逮捕、監禁されたりした。

非国民画家の末路である。

拷問で痛めつけられても、戦争画を描かなかったので、絵筆を取りあげられた。筆、絵の具、キャンバス等は、戦争画に協力した画家にのみ与えられた。

戦争画に協力した画家達は、戦争中のブランクが少なかったので、直ぐに画壇に復帰出来たが、国家権力・戦争に痛めつけられた祖父は、なかなか画業に戻れず、マッチ箱の挿絵描きなどをしていた。

それ以来、祖父は、アカデミズム、学校教育、出版・言論等々一切を信じなくなった。

絵を諦めて、ドサ回り新聞記者として西条八十等と地方芸能や民謡の取材をして歩いた。

祖父がそれから画壇に復帰出来たのは、1950年代の後半になってからであった。

世の中は、この様に要領の良い者だけが、エスカレータの最上段にあがれて、駄目な人間は、一生、駄目なままである。

ようやく絵が認められた年代には祖父は身体を壊していた。だから、他の絵描きさんの様にお金を稼ぐことが出来なかったようだ。

それでも祖父は私よりもずっと偉かったと思う。

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