「一切空」の前には、あらゆる研究対象、事物への我々の衆生の者どもの考え方は虚しい。2010/10/25 21:33

 今日も何事もなし。

 最近の人文系の学会というのは、くだらないと思う。
 文学作品とか思想的事物というのは、人それぞれ捉え方が違うので、なんとでも解釈が出来る。つまり、「空」ということである。

 「一切空」の前には、あらゆる研究対象、事物への我々の衆生の者どもの考え方は虚しい。

 なにをとなえても、それ自体が無駄である。

 テキスト論についても、甲南女子大の古今和歌集が鎌倉時代の完本だから素晴らしいといっても、この大学の収書担当者が、古書店から、古今和歌集の完本で、この時代のものは珍しいというので買ったのに違いなく、後で、関大の田中先生の古筆鑑定で、鎌倉時代に書写年代が遡ると判った程度。  

 古典籍の伝本で一番の難儀にあったのは、応仁の乱で、それ以前から伝わっている伝本のかなりの量のものが、焼失してしまった。古典籍の写本で鎌倉時代のものが珍しいというのは、今日の都がこの時期に焼け野原になった為。

 源氏物語の写本の研究でも鎌倉時代の写本と言えば、青表紙本源氏物語や、河内本源氏物語等、これらは、混合本文と呼ばれている。

 つまり、遠くは、平安時代から、院政時代末期までの各種の写本をまとめて癖案を加えて筆写されたもので、もとからの正統な姿を伝えているとは言い難い。むしろ、今の世で、唯一、平安時代の写本の痕跡を留めているのは、國冬本等の別本系統の写本である。この別本というのは、別にこういった写本の系統があるのではなくて、青表紙本系、河内本系の2大分類の中に入らない特色のある本をまとめたものである。

 だから、平安時代のオリジナルの源氏物語の名残を残している本から、鎌倉時代以降の拙劣な解釈、改ざんが加えられた劣悪な系統の本まで玉石混交なんである。

 甲南女子大の古今和歌集の写本を写した人は誰なのか、書写年代はいつ頃なのかということが問題になる。鎌倉時代時代には、歌学の系統も六条学派と、俊成等の冷泉家等分かれていた。いずれにしても、この時代の歌学の理論に合う様な本文の改ざんなども行われていたに違いない。

 平安時代に成立した古今和歌集のオリジナルの姿を私達は、今の世にみることは非常に難しいが、その片鱗が残っているのは、これらの完本の写本ではなくて、古筆裂れと呼ばれる平安時代の名筆が書いた写本の断片である。こういった資料を厳密に考証していくことで、古典籍の真の姿がみえてくるのである。

 人文学の系統でもっとも正統とされる文献学の系譜でも、この有様なので、古注釈の研究から、現代の作品論、ひいては、作品を現代人のアホウな視点から、「新鮮な発見」を示している研究など、もう、殆どなんの価値もない世界である。

 だから、「一切空」なんである。

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