これが農業か2010/10/29 09:57

先日の大阪南港ATCでの「植物工場」プロジェクトのセミナーに参加して、最も疑問というか問題を感じたのは、「これが農業か。」という点である。

 20世紀以降、農業には、近現代的な手法が技術、経営、流通面に取り入れられており、大きく様変わりしてきた。工業技術が農業生産にも取り入れられているのは、農業機械、あるいは、収穫後の加工工程が中心であるが、

 ①例えば、1棟当たり100万羽以上も飼養可能なケージ飼いによる「工業養鶏等」もある。「工業養鶏」と言われる通り、飼料がベルトコンベアで運ばれてきて、卵も自動集卵システムで輸送、洗卵・選卵工程を経て自動的にパック詰めされて、ラベルが貼られてコンビニ等の店頭に並べられている。
 養鶏場で鶏に触れるのは、ワクチン接種とか、限られた機会のみ。後は、狭いケージの中で、「卵を産むキカイ」の鶏達が卵をひたすら産み続けるだけの孤独な生涯を過ごす。
 ケージから人間の手で運び出されるのは、「アウト」という段階で、つまり、キカイが老朽化して、「交換」の時期に入った為に、処理・処分される時だけである。
 最近では、あまりにもむごいということで、欧州や米国、豪州でもアニマルウェルフェアという観点から、福祉鶏舎の導入等が推進されているが、いずれにしても鶏(イキモノ)が機械的に管理されている状況には変わりない。

 ②戦前から戦中・戦後を経て高度成長期に至るまでの国内の養鶏は、「庭先養鶏」と呼ばれるものであった。鶏は、家族の一員で卵も貴重品。カシワは「薬食い」の特殊な食材であった。

 飼料も家庭残渣が中心だったので、生産性も低く飼養羽数も限定されていた。こうした養鶏の姿も僕が幼いころに父親の田舎で、養鶏場、養豚場等をやっていた為にみたが、人間的でのどかなものだった。

 ②の庭先養鶏が、「農業的な養鶏」で①のケージ飼いの養鶏は、「工業」であって、「農業」ではないのか。凄く疑問に感じる。

 
 一般の耕種農業についても播種、育苗、栽培、収穫の各工程が自動化されているが、これらは、「工業」とか「工場」などと呼ばれていない。
 「農業」と「工業」の違いはどこにあるのだろうか。

 wikiでは、「農業(のうぎょう、英:agriculture)とは、耕地等において植物(農作物)を栽培・収穫したり(耕作)、動物(家畜)を飼育し乳製品や皮革、肉、卵を得て(畜産)、人が生きていくうえで必要な食料などを生産する人間の根幹産業である。」とされている。
 つまり、食料生産に係わっている産業全体を農業と呼んでも良いということになる。その手法(技術)、社会的側面、経済的側面が異なっても農業という範疇に入ってくる。
 ついでに「植物工場」についてのwikiの定義は、「植物工場(しょくぶつこうじょう)とは、内部環境をコントロールした閉鎖的または半閉鎖的な空間で植物を計画的に生産するシステムである。植物工場による栽培方法を工場栽培と呼ぶ。」
 ここで重要なのは、反閉鎖的空間で、内部環境をコントロールする生産システムという点だと思う。では、工業は、どの様に定義されているだろうか。

 同じくwikiによると、「工業(こうぎょう、英: industry)は、原材料を加工して製品を造る(つくる)こと、および、製品を造ることにかかわる諸事項のことである。工業の語には、製品を造る働き、製品を造る事業などについても含まれる。」とされており、簡単に言えば、「原材料を加工して何か製品を作り出す」ということになる。

 つまり、「植物工場」は、「植物系の材料を加工して何か製品を作り出す。」ということになる。しかし、「植物系」と言っても、それが「生体」(種子、苗、その他)なのか、「死体」なのかで変わってくる。つまり、植物の「死体」を加工するのは、通常の食品工場である。「生体」を加工するのが、狭義の「植物工場」ということになってくる。

 以上の考察から自分なりに得た、「農業」の定義としては、
「生きている動植物を栽培・育成して、食料を得ることという。」ことになる。 

 従って、閉鎖的・人工的な環境にかかわらず、「生体」を加工(育成・栽培)して食料を得る「植物工場」は、やはり、農業の一種ということになる。但し、ここで難しいのは、実際の「植物工場」での作業内容をみると、「植栽」、「栽培」、「収穫」、「抽出・加工」までが工程化されていることになり、その点で、農業と工業が融合した新しい産業形態ということにもなる。
 
 以上は、あくまでも語義の点であるが、社会文化との関わりからみればどうだろうか。「農業」の社会においての関わりは、根幹産業として、自然環境(大地)の恵みを活かして、集約栽培を行い、食品として供する「生活文化」としてのつながりが見えてくる。そこには、自然環境と人間生活の接点としての関わり方が大きく、社会全体の「文化性」に影響を与えている。

 こうした「文化的」な観点から考えると、「人工環境」(光、空気、水、有機質を含み)での「工業的農業」は、生活文化との関わりが低いということになり、既存の農業関係者からも否定的な意見も出ている。
 こうした反対意見からみれば、前述のケージ飼いによる「工業養鶏」も生活文化との関わりの希薄性が指摘出来る為に、農業と呼ばない人も出てくるかもしれない。

 しかし、「植物工場」は、新たな形で、人間の社会生活・生活文化との関わりを提示しようとしている。

 それは、通常の田舎、農場とは異なった都市生活の「現場」での「農業生産」を可能にする「植物工場」は、「自産自消」という点で、新たな生活文化の中での関わりを持とうとしている。

 現在の「植物工場」の技術的段階は、高度な集約化(元素レベルまで還元された様な高度な生産性)には達しておらず、人工的・都市的な環境で、一応の農業生産を可能にする段階に過ぎない。

 そうした中で、「植物工場」が提供する新たな生活空間は、新しい自然との関わり、情操、食育等の関わりに変化をもたらそうとしている。
 「農業を身近に、自然と生命の大切さ」を感じる為に、従来から家庭菜園や、「パーマカルチャー」運動が行われてきた。「パーマカルチャー」は、日常生活に身近な自然環境を活かして園芸・農耕を行うことで、「持続可能な文化(カルチャー)」を作り出す活動である。

 家庭用の「植物工場」の活用と、「パーマカルチャー」とは、どう違っていくのか、それは、人工環境と自然環境の違いというが、実際には、エネルギー、水、養分も工業的な加工段階を経ているとしても、やはり、それは、自然資源からの恵みを応用したもに違いないので、生活と植物・農業との関わりを密接に持つ点で、大きな違いはみられない。

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 COP10では、まさに、天然資源の生活文化との多様な関わりと活用が国際的な場で議論されているが、この様に「農業」、「工業」といった関わりの中で、生物の多様性を踏まえた上で、一律に同じ考え方を共有することは、至難の業であり、実は、それが文化の特質であると考える。(写真は、ATCに展示されている植物工場プラント、回転式で均一な光線を活用出来る。将来的には、果実等の栽培に活用されるだろう。)

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