男性合唱曲「ヘルゴラント」(WAB71)2010/12/12 11:10

 アントン・ブルックナーの最後の完成作品である男性合唱曲「ヘルゴラント」(WAB71)は、1893年8月7日完成、初演10月8日冬季ウィーン乗馬学校で初演された。

 ウィーン冬季乗馬学校は、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでも何回か登場している。

 その後、交響曲第9番に着手して、1894年には、第1~第3楽章を完成するが、1896年の彼の死を持ってフィナーレは、未完に終わった。

 交響曲第9番ニ短調(WAB109)は、交響曲第8番ハ短調(WAB108)の第1稿(1887年版)が完成後、すぐに着手されたが、第1稿の改訂や交響曲第3番の改訂、同第1番ウィーン稿の改訂等に明け暮れしている内に、完成が遅れてしまった。

 従って、ヘルゴラントが、ブルックナー在世中の最後の完成作品となる。第9が未完成に終わる可能性が強まった最晩年には、未完のフィナーレに替わって「テ・デウム」(WAB45)を代わりに演奏する様に指定しているが、作品番号が示す通り、中期の終わり頃で、ようやく後期の作風が出てきた頃の作品なので、晩年の作品である第9に比べて違和感が強い。むしろ、ヘルゴラントの方が、声楽付きになる予定であったフィナーレの作風に近いものを示しているのではないかとみられる。

 未完成のフィナーレについては、器楽部分のいくつかの断片が残されているが、もっとも重要なコーダの部分が残されていないので、20世紀以降に試みられた大部分の補筆完成版では、この部分を編曲者の作曲によるしかない。そうして、ブルックナーのオリジナルではない編曲版のこの部分に来て、聴き手は、違和感と失望感を味わざるを得ないのである。

 こうした中で、ヘルゴラントの終結部の不響和音が響和音に見事に変容して、解決していく見事さをみると、交響曲第9番第3楽章にみられる不響和音が響和音に解決されるコーダをブルックナーが考えていたことが想像され、それは、このヘルゴラントの終結部に近いものであったとも推察される。

 現在、合唱曲ヘルゴラントを聴けるのは、ダニエル・バレンボイム指揮のシカゴ交響楽団とベルリンフィルの2つの音盤であるが、ベルリンフィルの方は、ブルックナー全集に収録されたもので入手が難しかったのをオークションで今回入手して、楽しんでいる。

 聞き比べをすると、残念ながらというかやはりというか、最初に録音したシカゴ交響楽団のヘルゴラントの方が、輝かしさに満ちて見事である。男声合唱団の技量は、ベルリンフィル盤の方が勝っているが、全体の表現、その直裁性については、シカゴ盤の方が、数段勝っていて感動が与えられる。

 「解放されたヘルゴラントに神の全ての賞賛あれ!」(筆者訳)の部分の表現が実に卓越しているのがシカゴ盤である。

 ブルックナーが男性合唱曲ヘルゴラントが作曲されたのは、同港は、もともとイギリス領であったのが、1890年にヘルゴラント・ザンジバル協定によって、ドイツ領となったのを記念する式典用と作曲されたようである。

 切手は、私の19世紀英領・独領の切手コレクションの中で、1867年から1875年に発行されたものをまとめたものである。美しい色調で真ん中には、エンボスでビクトリア女王の肖像が彫り込まれているまるで工芸芸術作品の様な切手達である。

絵空事をみている様な現実と遊離したようなセレブな世界の一コマ2010/12/12 11:31

鉄道小説としての『阪急電車』の読み方

我が国の文学作品の中で、「鉄道小説」というジャンルがあるとすれば、『阪急電車』(有川浩)が挙げられており、幻冬舎から文庫本化されているので、購入して読んでみた。

しかし、あまりの退屈さに本を投げ出してしまった。阪急今津線に乗車している人たちについて、順を追ってストーリーが描かれていくのだが、大体、今の20歳代後半から30歳位までの若年上流階層を主体して描かれている。

今のこの世代は、プロレタリアートとブルジョアとはっきり2分化、格差化してしまっている。

ブルジョアが暮らす地域としての阪急今津沿線である。この小説を読んでみると、私の生活感とは、全くかけ離れた世界が次から次へと描かれていくが、凡そリアリズムというのがないので、嫌になってしまうのである。

そう、リアリズムがない小説、芸術は、私には理解出来ない。俳句さえもそうである。「造られた自分」が読む俳句には、私は耐えられない。

しかし、この小説が目前に具現することが現実には行ったのである。

おうぶのぼろ家から川西の実家に帰る途中、神戸からは、今津線を経由するルートがあるが、それに乗って「帰宅」している途中、小林駅を過ぎて、逆瀬川にさしかかった時である。

タキシードを来た金髪の少年が軽やかに電車を進行方向に向かって駈けてきた。それを追う若い日本人の母親、どうやら少年は、ハーフらしい。

宝塚ホテルの方に風の様に2人は駆け下りていったが、まるで雲の上の出来事、絵空事をみている様な現実と遊離したようなセレブな世界の一コマである。

こういったセレブの世界が実際に現れて、その様な世界に生活感を持ち得る人であれば、この小説を理解出来るのかもしれない。

神鉄有馬線のプロレタリア風の薄汚れた作業着の様な車両になれている自分には、まさに、超常現象の様に見えたのである。