佛教大学四条センターの黒田先生の講演を拝聴 ― 2011/01/15 16:36
昨日の佛教大学の四条センターでの黒田彰先生の講演を拝聴させていただいた。
教室は、生徒さんが少なかったので、「少人数授業」で、会議室を使用するという贅沢なもの。
今回は、舜の物語攷の3回目ということで、
①『お伽草子二十四孝』
②『太平記32天竺震旦物語事』
③『全相二十四孝詩選』
④『史記五帝本紀』
⑤『列女伝』
⑥『孝子伝 陽明本・船橋本』
⑦『舜子変』敦煌発掘文書P272、S4654冒頭部
⑧『普通唱道集下本孝父篇重花稟位』
⑨『纂図附音本注千字文23・24「推位譲国、有虞陶唐注』
⑩『三教指帰成安注』
他数点の文献資料に加えて、『寧夏国原北魏墓漆棺画』、『後漢武氏祠画象石』等の図像資料等々、膨大な資料群を読み解きながら、
い 焚蔵
ろ 掩井
は 歴山耕作
に 易米、開眼
ほ 堯二女娶
へ 譲帝位
◎ 降銀銭五百文
①『お伽草子二十四孝』
②『太平記32天竺震旦物語事』
③『全相二十四孝詩選』
④『史記五帝本紀』
⑤『列女伝』
⑥『孝子伝 陽明本・船橋本』
⑦『舜子変』敦煌発掘文書P272、S4654冒頭部
⑧『普通唱道集下本孝父篇重花稟位』
⑨『纂図附音本注千字文23・24「推位譲国、有虞陶唐注』
⑩『三教指帰成安注』
他数点の文献資料に加えて、『寧夏国原北魏墓漆棺画』、『後漢武氏祠画象石』等の図像資料等々、膨大な資料群を読み解きながら、
い 焚蔵
ろ 掩井
は 歴山耕作
に 易米、開眼
ほ 堯二女娶
へ 譲帝位
◎ 降銀銭五百文
以上の7プロットについて、それぞれの資料から抽出し、分析を行った。
先行研究には、
増田励氏「虞舜至考説話の伝承 太平記を中心に」があり、増田氏が問題としている『普通唱道集』、『重花稟位』の共通点を指摘しながらも、我が国に伝来している最古の『孝子伝』の陽明、船橋の両本には、◎降銀銭五百文のプロットが抜けていることを指摘し、それは、元々テキストに存在していない要素であり、後から他資料から附記された為であると考察された。
増田励氏「虞舜至考説話の伝承 太平記を中心に」があり、増田氏が問題としている『普通唱道集』、『重花稟位』の共通点を指摘しながらも、我が国に伝来している最古の『孝子伝』の陽明、船橋の両本には、◎降銀銭五百文のプロットが抜けていることを指摘し、それは、元々テキストに存在していない要素であり、後から他資料から附記された為であると考察された。
黒田先生は、これに反論し、◎降銀銭五百文のプロットは、もともと別系統の資料に存在していたものが、陽明・船橋本孝子伝とは、別のルートで伝来したと考えられている。
舜説話の伝来のルートとしては、次の通り考察されている。
→伝本 → →孝子伝
原話 →変本→唱道→民間説話
→民間口承伝承
原話 →変本→唱道→民間説話
→民間口承伝承
つまり、◎降銀銭五百文のプロットについては、口承伝承系のテキストが西域を中心に流布した説話に起源があるとの説をおっしゃられた。
☆☆☆
私が、この講演を聴いてもっとも興味を持ったプロットが、ろの掩井である。この部分に◎降銀銭五百文のプロットが変本に入り込んでいる。
ペリエ本の敦煌文書舜子変には、
「舜井を浚を聞いて、心裏(裏にある企み)之を知る。すなわち、衣裳を脱ぎて、井縁に跪拝して、井に入り、泥を浚う。上界の帝釈天は、(これをみて)密かに銀銭五百文を井中に入れる。舜子すなわち、泥罇の中に銭を置きて、令して後、母引き出す。数度、上の阿嬢に向いて乞う。『井中の水は満ち銭も尽きたり我を出でさせて、飯盤食させるは、阿嬢の徳に能わざるや。』後母、これを聞いて、瞽叟を欺いて曰く....」とある。
孝子伝には、「或いは、深井を掘りて出さしむ。舜、その心を知りて、先ず傍らに穴を掘りて、之を隣家に通ず」とある。孝子伝には、「銀銭五百文」の部分は見あたらない。
訓読が大変なので、省略したが、変文では、この後、瞽叟は、後妻にだまされて、石を持って穴を塞いで、舜を殺そうとする。そこで、帝釈天は、黄竜に姿を変えて、舜を引っ張って、東の家の井戸に穴を通じて出してやると、さすが、仏教の布教・啓蒙を旨としているだけあって、帝釈天が活躍する仕組みとなっている。

この様な違いをどう考えるかというのが、増田論文の出発点であるが、舜に関する説話・孝子伝のルーツは、遙か後漢の時代、つまり、仏教が伝わる遙か以前から行われていたと考えると、もともとは無かったと考えざるを得ないと思う。つまり、この変文は、舜の伝記であると同時に帝釈天への賛歌になっている点が、原話を変質させていると考えるのである。
「掩井」のプロットは、かなり原話に遡る古い時代から行われて、私の考えては、多分に、説話の西域性を示していると考える。
その根拠として、井戸を掘り下げて、地下水路を通して、隣の井戸に連結させるということは、水分の蒸散を防ぐ為に西域を中心にカナートと呼ばれている。(図参照)

この井戸は、イランやペルシア起源があると考えられているが、後漢の時代、つまり起源3世紀頃までには、中国の甘粛省等の地域に伝来している。
その井戸の名前が、カンアルジン(かんじせい/坎児井/KanErJing)と呼ばれており、その意味は、「児を埋めた井戸」すなわち、舜の「掩井」のプロットそのものを示しているのである。
黒田先生は、この説話の「入遊歴山」という語句に注目されて、実際に、歴山の舜井や竜泉を訪ねられているが、私の解釈としては、舜の説話が誕生してからかなり後の時代に成立した遺跡であり、年代考証が合わないのではないかと考えるものである。
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