『正岡子規 言葉と生きる』2011/01/25 23:05

 稔典先生の『正岡子規 言葉と生きる』である。

 稔典先生には、佛大の大学院のゼミ授業で正岡子規の主要な散文については、習う機会を経た。

 特に『病床六尺』や『仰臥慢録』等の作品を分担して読んでいったと思う。

 俳句については、殆ど、その表現については習わなかったのか記憶にない。

 僕は、稔典先生に「俳句って何が面白いのか僕には判りません。」と面と向かって言ってしまった人間である。

 でも、実は、関大時代から子規句集は読んでいたし、漱石書簡集にも子規のことは出てきていた。

 でも、僕の興味は、尾崎放哉であった。

 何故ならば、小豆島で絵描きの祖父の元に預けれており、小豆島霊場第五十八番札所西光寺奥の院南郷庵等の旧跡を祖父と一緒に訪問して、祖父がスケッチしているのを横でみていたからだ。


 「俳句とは、偏屈なもんやが、それ以上に偏屈なのが、放哉や。」と言っていたし、よく小豆島のアトリエを訪れた竹中郁も同様のことを口にしていた。

 僕が最初に俳句を詠んだのは10歳の時であるが、「祖父が俳句みたいなくだらんものは止めとけ。もっと子供らしい詩を習え。」と竹中さんの児童詩というのをやらされて、子供の目とかそういった本に当時の僕の詩等が載っているが、本人は、全然面白くなかった。朝日新聞にも僕の詩が載ったことがあるが、恥ずかしいだけだった。

 児童詩らしい直接性を装った白々しい表現に吐き気を催した。
 小豆島では、俳句とか詩よりも、昔の「蛸壺」とか漁師が海から引き上げた古い沈没船の陶片等に興味を示している年寄り臭い子供だった。

☆☆☆
 ところで、正岡子規の「写生」という考え方については、稔典先生は、他の俳句の師匠様達に比べて、距離を置いてみられていると思う。関大では、乾裕之先生や谷澤先生に芭蕉の連句を学んだが、やはり、同様に彼らの発句も、対象から距離を置いてみられている。

 芭蕉の俳句には、「客観写生」はみられないのだろうか。

 例えば、子規句集(高浜虚子 岩波文庫)の巻末に稔典先生は、解説を書かれている。

 その中で、虚子は、「明治の俳句は、月並みの中から芽生えて、新しき客観写生の境地を招き来たった。」と述べていることを引用されているが、虚子がいう「客観写生」と子規の「獺祭書屋俳句帖抄」で述べている「写生的妙味」が判ったと言っていることと同じ次元で捉えるべきか否かについては、結論を出されていない。

 子規句集の明治二十二~二十三年までの俳句と、「写生的妙味」が判ったとしている明治二十七年以降の俳句とどう違うかと言う点で、たしかに僕の印象でも、初期の俳句は、「言葉の妙味」に重きを置いていることが判る。そうして、声を出して読んでみると判る様に、スピードが遅く停滞的である。明治28年以降の俳句は、たしかにその点で、「視覚的表現」、「焦点の明確化」、「直接的印象表現」の点で凝縮が進んでおり、スピーディであり、一種の緊迫感がある。これが、「写生的妙味」なんだろうか。

 稔典先生は、子規の初期俳句について、「言葉遊びに富む回覧雑誌の編集や漢詩の創作に熱中した時期を持つ子規には、俳句においても、一種の言葉遊びを楽しむ面があった。」と述べている。

 そうして、この「言葉遊びと創造の密着」が子規の初期の俳句の原点だとしている。虚子は、この「言葉遊び」を排除したのが、「客観写生」であったとしているが、果たして、子規本人は、どの様に考えていたのだろうか。

 斎藤茂吉は、虚子とは違う子規の「写生」についての見方を持っていた。それが、「端的単心の趣き」であり、これは、「客観写生」とは違う。むしろ、「素直な遊びの精神と創造が密着した境地」であり、虚子が認めたがらなかった点を評価されている。

 稔典先生も実は、茂吉の見方に近いと思う。「F君、俳句なんて、写生、写生と言っても、そのまま直接的な感動とか印象によって俳句を作ろうとしても、それは、絶対無理だよ。」っと言われたことを記憶している。むしろ、対象から距離を於いた遊びの精神である。

 さて、今回の『正岡子規 言葉と生きる』であるが、どの様な見解が述べられているだろうか。「言葉」の捉え方と子規の生き様の関係について、新しい見解が示されていると思い、これから楽しみに読み始めるとしようか。

コメント

トラックバック