O let me living die,till death do come. ― 2011/01/30 12:31

実家にあるクリスキットでは、古楽を中心に聴いている。
YAMAHAのモニタースピーカーでは、音質が声楽や古楽に適している。管弦楽は、古典派の曲までである。
特に、最近は、ダウランドがお気に入りである。大学の時には、リコーダーコンソートの伴奏をしていたので、どうしても気に入った曲が多い。
リコーダーもやっていたので、流れよわが涙も、リュート曲や、ギター編曲版、バン・エイクの無伴奏のリコーダ独奏等、様々なバージョンで楽しんだ。
ここでは、アントニー・ルーリーのコンソート・オブ・ミュージックでは、男声、女声、リュート、ビオラダガンバの組み合わせである。
クリスキットだと特に、歌い手の顔までもが、表現される感じで、20畳位の部屋で聞くと、本当に生演奏を聴いている様な感じだろう。
この中で、一番、好きなのは、「暗闇で(暗闇に僕は住みたい」という曲。
in darkness let me dwell,the ground shall Sorrow be;
The roof Despair to bar all cheerful light from me;
The walls if marble black that moisten'd still shall weep;
My music hellish jarring souds to banish friendly sleep;
Thes wedded to my woes and bedded to my tomb,
O let me living die,till death do come.
何時も、1人で眠る時に、この音楽をかけてから部屋を真っ暗にして、眠りに入るのが日課である。
YAMAHAのモニタースピーカーでは、音質が声楽や古楽に適している。管弦楽は、古典派の曲までである。
特に、最近は、ダウランドがお気に入りである。大学の時には、リコーダーコンソートの伴奏をしていたので、どうしても気に入った曲が多い。
リコーダーもやっていたので、流れよわが涙も、リュート曲や、ギター編曲版、バン・エイクの無伴奏のリコーダ独奏等、様々なバージョンで楽しんだ。
ここでは、アントニー・ルーリーのコンソート・オブ・ミュージックでは、男声、女声、リュート、ビオラダガンバの組み合わせである。
クリスキットだと特に、歌い手の顔までもが、表現される感じで、20畳位の部屋で聞くと、本当に生演奏を聴いている様な感じだろう。
この中で、一番、好きなのは、「暗闇で(暗闇に僕は住みたい」という曲。
in darkness let me dwell,the ground shall Sorrow be;
The roof Despair to bar all cheerful light from me;
The walls if marble black that moisten'd still shall weep;
My music hellish jarring souds to banish friendly sleep;
Thes wedded to my woes and bedded to my tomb,
O let me living die,till death do come.
何時も、1人で眠る時に、この音楽をかけてから部屋を真っ暗にして、眠りに入るのが日課である。
マゾヒズムと劣等感とは、実は、対照の関係 ― 2011/01/30 22:58
電車の中で、『家畜人ヤプー』(幻冬舎文庫)を読んでいたら、横に、座っていた女性に嫌な顔をされてしまった。
たしかにエログロだけど、三島由紀夫も読んで、「奇譚文庫」だったか、その同人誌で口を極めて褒めていた作品。
○マゾヒズムと劣等感とは、実は、対照の関係にあり、サディズムと優越感との関係に等しい。
つまり、優越感がない人間は、マゾヒズムの快感を感じ得ないということだと思う。つまり、感覚的ではなくて、精神的な支配と隷属ということである。
こうしたことを考えると、1970年代までの原種ヤプーには、この作品をかけても、現代の調教されたヤプーには、こんな作品はかけないと思う。
なにせ、優越感というものが、グローバリズムの中で、ひとかけらさえも残っていなくなったからだ。
でも、遺伝子工学が発達した現代では、別にヤプー家畜化しなくても、他の手段で、隷属・奉仕するバイロジーを人工的に作り上げることが出来るし、アンドロイドの方がずっと良いかも。
阪大で開発されたアンドロイド、あの日本人の女性のモデルが、中東の貴族向けに販売されるかもしれない。
あらたなヤプーの誕生である。
たしかにエログロだけど、三島由紀夫も読んで、「奇譚文庫」だったか、その同人誌で口を極めて褒めていた作品。
○マゾヒズムと劣等感とは、実は、対照の関係にあり、サディズムと優越感との関係に等しい。
つまり、優越感がない人間は、マゾヒズムの快感を感じ得ないということだと思う。つまり、感覚的ではなくて、精神的な支配と隷属ということである。
こうしたことを考えると、1970年代までの原種ヤプーには、この作品をかけても、現代の調教されたヤプーには、こんな作品はかけないと思う。
なにせ、優越感というものが、グローバリズムの中で、ひとかけらさえも残っていなくなったからだ。
でも、遺伝子工学が発達した現代では、別にヤプー家畜化しなくても、他の手段で、隷属・奉仕するバイロジーを人工的に作り上げることが出来るし、アンドロイドの方がずっと良いかも。
阪大で開発されたアンドロイド、あの日本人の女性のモデルが、中東の貴族向けに販売されるかもしれない。
あらたなヤプーの誕生である。
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