やっぱり「人間性」やな2011/02/12 13:27

 やっぱり「人間性」やな。

 今月の佛大ワールドを読んでいる。佛大通信が家に届かなくなってからは、毎月引き落とされる寄付金だけがこの学校とのつながりだが、佛大ワールドだけは、ネットで読めるので毎月読んでいる。
http://www.bunet.jp/world/html/23_2/545_meigen/index.html

 別にこの佛大ワールドは、テーマを決めて編集されているのではないのだが、今月は、まさに、「人間性」という部分に焦点が当てられている様な感じがする。

 別にそのテーマを決めて投稿されたり、原稿を集めたりといったことではないのだろうが、この大学の先生方が興味を持たれている点が共通しているのであろう。

「私のこの一冊」その23 中島敦全集

 教育学部臨床心理学科の荒井真太郎先生の文章であるが、高校時代における中島敦の山月記との出逢い、「名人伝」における「道」の概念とその先にある領域に感心を持ったという。

 結局、一芸を極めると、最後に残るのは、弓とかそういったマテリアルではなくて、「人間性」という純化された存在である。

 この作品の「人間性」に光りを当てる時に、作品から更に、作家へと洞察の目が移ってくる。それは、クライアントの「病跡」を追跡・観察する臨床心理学への道とどこかでつながっている。

☆☆☆
 「愛を読むひと」が問う加害者と被害者の両義性

 これは、私が佛大通信社会学部でお世話になった松田智子先生の原稿である。「朗読者The Reader」という映画について文章を書かれている。

 舞台は、第2次世界大戦後のドイツで、主人公は、ナチスドイツの強制収容所での守衛(看守)をしていたハンナという女性と、ミヒャエルという15歳の青年である。

 街の通りで気分が悪くなったミヒャエルは、ハンナに救われる。そのことがきっかけで、ミヒャエルとハンナは仲良くなり、男女の関係になる。彼らの楽しみのひとときは、ミヒャエルがハンナに本の朗読をする時間である。

 ハンナは文盲であった。
 その後、ハンナの仕事上の功績からホワイトカラーに取り立てられるが、文盲なので不可能で、そのことを恥じてか、2人の関係は消滅する。

 その後、数年が経過し、ハンナは、ナチス戦犯で逮捕された。ミヒャエルは、弁護士の卵であったので、その裁判を傍聴する。ハンナは、文盲であることを隠すために終身刑という重罪を受け入れてしまう。

 ミヒャエルは、獄中にいるハンナに本を朗読したテープを送り続ける。獄中のハンナとミヒャエルの人間性は再びテープを媒介に結ばれていた。

 ところが、恩赦になってハンナが出獄して来た時、彼のイメージとは全く異なった老婆になっており、ミヒャエルは愛情を失う。

 ハンナは絶望の余り自ら命を絶つ。

 松田先生は、このミヒャエルとハンナとの関係について、たしかにハンナは、許し難い犯罪を犯したが、実は、ミヒャエルを助けて、その後の関係は、文盲という障害を乗り越えて、2人の人間性の絆は結ばれた。加害者と被害者との両義性と言うのは、実は、人間性の葛藤でもある。

 社会学では、この問題をヒューマニティという視点から扱うが、人間の「愛と苦悩」といった問題にまで、どこまで踏み込むことが出来るのだろうか。

 最後に月々の名言では、坪内捻典先生が何時も文章を書かれている。今回は、会津八一をいう歌人・書家を取り上げている。ひらがな書きの和歌には違和感を覚えるという先生、早稲田大学の演劇博物館に掲げられた学規を目にする。

 一 ふかくこの生を愛すべし
 一 かへりみて己を知るべし
 一 学芸を以て性を養うべし
 一 日々新面目あるべし

     秋艸道人(八一の雅号)
 
 この額がよいと先生は思われた。その理由は、あくまでも学生への要求だが、それは、教師と学生が同じく目指す、人間性への目標だからだろう。

 自己肯定が、第一で、同時に自己批判(分析)も必要である。そうした上で、学芸によって、性「人間性」を涵養し、常に新しいことに興味を持って挑戦する姿勢である。

 いかにも人間性を肯定され、教師、生徒の分け隔てなくて、気さくな捻典先生らしい文章だと思う。

 やはり、「人間性」というのは、否定的なものの見方からは、生まれてこないのだろう。

 そうした視点でみれば、あの松田先生の映画に出てきたハンナと言う女性の姿がオーバーラップしてくるのである。

☆☆☆

 今月の佛大ワールドは、稔典先生以外は、文学と関係無い人たちが文章を書いているので、あまり読む気持ちにはなれなかったが、実際に目にすると内容が濃厚で読むだけの価値があるものだったと思う。

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