『国語・国文学図書総目録』2010/12/25 16:38

 1冊でも研究書を著していたら、先生扱いでいろいろな本の宣伝が出版社から送られてくるが、『国語・国文学図書総目録』は、毎年刊行されているが、国内で、現役で出版されている研究資料や研究所の全てが網羅されているので、研究者必携の書だと思う。

 これが無料サービスで送られてくるなんてありがたいことだと思う。

 源氏物語の項目を捜したが、新しい写本の注釈やDVD等で目を曳いたものがあるが、高価で手が出ない。それ以外には、片桐先生と関大の山本先生との共著の伊勢物語の研究書等が唯一、成果と言えるものかもしれない。

 この総目録、年々薄くなっていく様な気がする。それだけ、国文離れが続いているようだ。僕も、この目録を精一杯活用して、色々な研究を続けられたら思うが、もうそれも諦めている。

 1千万位の研究資金があれば、この総目録に1個か2個位載せる様な研究成果が挙げられるのに、年末ジャンボが当たらない限りは無理だな。

ホトトギス季寄せ2010/12/15 23:18

 俳句を始めると、先ず迷うのが季語である。
 
 そうなると吟行とか句会とかそういった場合には、季寄せは必携のものとなる。

 季寄せにも色々なモノが出ているが、俳句手帳等についているものは、殆ど役に立たない。

 良い季寄せの条件として、初心の私からみれば。

①価格が安いこと。
②持ち運びやすいこと。
③項目数が多く、少なくとも季節別に加えて、月別に部立てがされていること。
④語句索引がついていること。
⑤例句が豊富で、しかも優れたものが選られていること。

 この5条件を満たした季寄せは、色々捜したが、殆どなかった。大部のものは、確かに内容も良いが、値段も高く、季節毎に分かれているのは良いが、これを毎日の様に携帯するのは、苦痛である。

 こうして買って失敗した挙げ句に、選んだのが、稲畑汀子編『ホトトギス季寄せ』(三省堂)である。

 これは、手帳サイズでコンパクト、値段は、通常装幀版で1900円+税で、巻末の索引は引きやすく内容も豊富。

 特に関心させられるのは、食べ物関係の季語が豊富であり、中には、珍しい風物もあり、読んでいて楽しくなる。

 例句も虚子や汀子さんの句が選ばれており、適切なものが多い。

 俳句をやっていなくても、気象とか季節、花鳥風月、旬の食べ物に興味を持っている人は、安いので持っていて宜しいかと思う。

 最初から、これを選んでおれば、回り道しなくて良かったのに思う。

 稲畑先生と言えば、一昨年の金子兜太先生との俳句王国でのバトルが想い出される。両先生ともに、譲らない部分があって、その個性がある句の評をめぐってぶつかってしまった。司会のNHKの女子アナは、大御所と呼ばれている方であったが、この人の貫禄をしても、番組を続けるのに難渋されていた。

 これをみて、「俳句って大変だな。」と思った訳。

絵空事をみている様な現実と遊離したようなセレブな世界の一コマ2010/12/12 11:31

鉄道小説としての『阪急電車』の読み方

我が国の文学作品の中で、「鉄道小説」というジャンルがあるとすれば、『阪急電車』(有川浩)が挙げられており、幻冬舎から文庫本化されているので、購入して読んでみた。

しかし、あまりの退屈さに本を投げ出してしまった。阪急今津線に乗車している人たちについて、順を追ってストーリーが描かれていくのだが、大体、今の20歳代後半から30歳位までの若年上流階層を主体して描かれている。

今のこの世代は、プロレタリアートとブルジョアとはっきり2分化、格差化してしまっている。

ブルジョアが暮らす地域としての阪急今津沿線である。この小説を読んでみると、私の生活感とは、全くかけ離れた世界が次から次へと描かれていくが、凡そリアリズムというのがないので、嫌になってしまうのである。

そう、リアリズムがない小説、芸術は、私には理解出来ない。俳句さえもそうである。「造られた自分」が読む俳句には、私は耐えられない。

しかし、この小説が目前に具現することが現実には行ったのである。

おうぶのぼろ家から川西の実家に帰る途中、神戸からは、今津線を経由するルートがあるが、それに乗って「帰宅」している途中、小林駅を過ぎて、逆瀬川にさしかかった時である。

タキシードを来た金髪の少年が軽やかに電車を進行方向に向かって駈けてきた。それを追う若い日本人の母親、どうやら少年は、ハーフらしい。

宝塚ホテルの方に風の様に2人は駆け下りていったが、まるで雲の上の出来事、絵空事をみている様な現実と遊離したようなセレブな世界の一コマである。

こういったセレブの世界が実際に現れて、その様な世界に生活感を持ち得る人であれば、この小説を理解出来るのかもしれない。

神鉄有馬線のプロレタリア風の薄汚れた作業着の様な車両になれている自分には、まさに、超常現象の様に見えたのである。

「造る自分」2010/12/09 23:00

『坪内稔典の俳句の授業』(黎明書房)を京都烏丸のじゅんく堂で買った。電車の中で、読んでいたが、第3章の「現代俳句の世界」が面白いというか納得。

飯田蛇笏や飯田龍太、森澄雄、金子兜太等々お歴々の登場、非定型とか前衛俳句等もでてくる。

つまり、大正期から昭和時代に至るまでの近現代俳句史の世界である。

季語や定型の破壊は,何故、行われたのか、そして、その限界とは、そういった問題について、稔典先生なりの考え方で書かれている。

ここで印象的なのは、稔典先生の場合は、子規の写生の忠実な蹈襲者としての辻桃子先生等に比べて、「写生」ということについて一歩、下がって客観的にみている点である。

つまり、俳句づくりは、「写生」そのものではなくて、あくまでも「写生」は、創作の手法の1つであること、金子の初期の前衛俳句は、何故、その様な表現を生んだのか。或いは、同時代の社会派の俳句とは。

そういった問題点に触れており、興味深い。

しかし、何故、金子兜太が、その後、伝統的な俳句に戻り、現代の俳句界も、部外者からみれば、後退・退化とも言える、定型表現の世界に戻ってしまったのかということである。

これについても結論は書かれていない。但し、ヒントになるものはある。
それが、「造る自分」ということで、社会という中で、自分を絶対的存在として、切り離して考えるのか、それとも、融合して存在として考えるのかという点である。

現代の俳句という文芸は、江戸時代の昔に帰ったというか、句会の中での連衆文芸としての集団性をみせる社会的遊戯の1種となっている。つまり、こうした中では、表現理解の共有、つまり表現の普遍性ということが1つの前提条件になってしまうのである。

「造る自分」を社会と切り離した場合には、「同人誌」というメディア媒体を通じて読者、俳句仲間との交流があるが、今の同人というのは、あくまでも句会での直接交流が中心で、同人誌は、あくまでも、「機関誌」としての役割になっているのである。

そうなると、表現は、不定形とか前衛とかそういったものは成り立たなくなっている。

ひらったくいえば、「変わり者」は、排除されるのである。

こうした流れ、現代のクラシック音楽の流れと類似している。つまり、古典派、ロマン派、後期ロマン、ネオロマン、現代、前衛という流れは、実に俳諧・俳句の歴史に非常に類似している。

特に20世紀に入るとクラシック音楽は、王侯貴族の遊戯的側面から離れて、社会と切り離された純粋な自己表現の場となり、普遍性よりも、絶対的表現価値を求める動きに変化していった。

その行き着くところが、1950年~1960年代のジョン・ケージやシュトックハウゼン、あるいは、リゲティとかいった連中で、彼らの音楽は、完全に孤立しており、超俗的であった。しかし、結局は、廃れていったのである。

クラシック音楽の場合は、再び聴衆との交流、社会と融合した自己表現の世界に戻った要因は、音楽メディアの発達であった。つまり、新たな音楽商業主義、メディア融合により、独立的な個性の表現よりも、一般に理解しやすい表現、普遍性が求められる様になっていった。

こうした、調整、あるいはリズムさえも破壊の限りを尽くし、最後には、ジョンケージの様に「音の実在」さえも捨て去り、時間の経過のみが音楽とする「禅」の様な世界から、誰もが理解出来る調性、リズム、歌、和音等の音楽に回帰してしまったのである。

結局、こうした流れの中で、「俳句」、「音楽」も本来の芸術ではなくて、大衆文芸・芸術、第2芸術といった見方もあるが、それは、社会性と芸術・文芸の連携を肯定するか否定するかの立場に違いに他ならない。

 松ぼっくりジョンケージを気取りたる

☆☆☆
今日の俳句、何かエロイイメージが浮かんだので、俳句らしきものを造ってみた。(またまた夢の世界である。)

氷層の緑青蹴散らす冬氷河
ヒーターで色香増したる網タイツ
バニー嬢ワイン注ぐ手寒さ知る
瑠璃色の爪暖炉求めて動くなり
天道虫お日様捜す冬の朝
黄金の隈取りの雲霜降らす
鬼ごっこ鵯(ひよ)の加勢で負けにけり

敗戦忌2010/11/03 10:30

 「童子」11月号が届いた。

 見本誌の9月を含めて3冊目の「童子」である。

 今号では、「わらべ賞」の発表とか、「エッセー賞」の募集等が載っているが、僕には、関係ない。

 維持会員で更に1万5千円を支払うと、毎号1句自分の作品が掲載してもらえるそうだ。別にそこまでして自分の作品が活字になることに拘らない。会費が年間1万9千円で、更に1万5千円となると、大変な出費である。

 会員の方は、大抵が年輩の方なので、お金を持っておられる人が多いのだろうと思うが、贅沢な趣味であると思う。こうした会は、お金をどうやって集めるかが問題になるので、仕方がない面もあるが、ホームレス直前の自分にはそぐわないかも。

 今号の面白かった俳句は、「露光集」(中村ふみさん)の

 げげげげと赤子の笑ひ崩れ梁
 泣く時は口を四角に糸瓜水

 「げげげげ」というのが、気味が悪いが可愛らしくて良い。

 こうした俳句の雑誌をみていた感じるのは、先生方から同人のメンバーまで、句評やエッセイ等に力を入れておられていることで、評論と創作のウエイトが、拮抗に近い位だと思う。

 これは、俳句をやられている人に共通している様で、佛大通信大学院国文学専攻(今や、稔典先生の俳句学校と化している。)でも、句評ではないが、それぞれの方の研究発表の時に一番、強固な論陣を張られていたのが、やはり、俳人としても有名なUさん等であり、さすが、慣れておられて、彼らとの論戦に勝利することは、難しいと思われた。

 今回、その様な昔を想い出させる様な内容の記事が掲載されている。それが、「桃子草子 終戦記念日」である。

 「終戦日」、「敗戦忌」は、戦後の俳句界では季語と定められている。例えば角川書店の『図説俳句大歳時記』では、「終戦記念日」で立項し、「敗戦忌」が傍題として挙げられている。
 
 桃子氏は、「虚子は、新聞記者に問われて、『戦争は俳句にはなんの影響も与えなかった』と言ったという。」という事実を挙げている。

 Uさんは、佛教大学大学院修士論文の中間発表会で、この虚子の言葉を取りあげられた。そうして、「虚子にとって戦争とは何だったんだ。」という疑問を提示された。

 そうして、日中戦争で日本軍が各地で勝利しているのをみた虚子が書いた文章の幾つかについても解釈された。

 その発表内容に、同日の発表会に参加されていた、E先生(日本書記の分巻論のご研究をされている。)が異議を唱えられた。E先生は、その前の年まで、中国研修で1年間を過ごされたので、日中関係のあり方について、ナーバスになられていたのか、かなりエキセントリックな討論の内容で、聞いていて面白かった。

 「戦争は俳句にはなんの影響も与えなかった」というのは、その表現の伝統であると桃子先生は捉えられているのだろう。

 「敗戦」は日本人の心を変えてしまったし、それは、やはり文学作品にも影響を与えている。仮に、戦争に勝利しておれば、それは、幾分輝かしいものであったかも知れないが、いずれにしろ、何らかの日本文化・日本精神に影響を与えたに違いない。

 「俳句は芸術ではない。」とか「第2芸術だ。」とかいろいろ言われているが、やはり、この様な伝統的な表現法への拘りが批判されたのかも。

 でも、実際には、前衛的な俳句も戦後多く生まれたし、作句の視点もかなり変わって、僕は、むしろ戦後の俳句の方が面白くなったのではないかと思った。

 社会文化学の視点からみれば、俳句の読み手(制作者)には、「階層分化」ということが生じた。それは、プロとアマの区別がハッキリしたという点である。

 連歌・連句、蕉風以来の江戸時代の俳句の伝統、そして、子規の写生の精神が、戦後になってもそのまま引き継がれているのが、庶民の俳句である。そこには、日常的な生活体験をベースにした視点が中心となっている。

 「童子」は、9~11月号を読ませていただいた限りでは、やはり、後者の伝統的な視点での俳句づくりである。

 この句作態度でのプロフェッショナリズムは、その日常的な視点から、その境界を乗り越えて、新たな境地を積み上げようとしているのだと理解しているが、それが果たして成功しているのか否かは、私には、この段階では、判らない。

北海道の白滝という黒曜石の大産地2010/10/11 22:33

 先日の出張の帰路の帯広から南千歳間を乗車した特急の中で置いてあったJR北海道の車内誌「THE JRHokkaido」10月号に「特集 旧石器時代のパワーストーン、黒曜石」という記事を発見。

 黒曜石は、旧石器時代を中心に使用された黒色のガラス質の鋭利な石器で、大きな槍の先の部分から小さなスクレーパー(切削器)に至るまで、様々に加工して使用されていた。

 黒曜石と言えば、長野県の和田峠等が有名だが、北海道にも黒曜石文化が栄えていた。
 この雑誌記事では、北海道の白滝という黒曜石の大産地が紹介されている。白滝の黒曜石は、オホーツクを超えてアムール川流域まで伝播している程の名産地であった。

 当時の工房の後の発掘調査では、細かな破片を復元して黒曜石の鏃がくりぬかれたマザーの部分の接合資料等が紹介されているし、尖頭器、彫器、削器、搔器、細石刃等の様々な種類とか、実勢に黒曜石が採石された露頭等の様子等、凄く専門的な内容が紹介されている。

 この記事の取材に答えているのが、木村英明先生で、新泉社から『北の黒曜石の道』という本を出されている。それにしても旧石器時代の遺跡の茶褐色の土壌の上に鋭く黒光りする黒曜石の石器が幾つも姿を現している出土写真も掲載されており、ワクワクさせられる。

江戸時代の和歌のパズル遊び2010/09/25 22:23

 江戸時代の終わり頃には、入門者向けの和歌の作例集、指導書が多く刊行されている。

 『和歌梯』もそのいった本で、私が持っている本は、京都書肆 風祥堂蔵版、編集者は、故人 蘭園主人、翻刻人は、中村浅吉(上京区第三十組丸屋町二十一番戸、発行所は、京都風月堂、各地書林とある。

 残念ながら明治以降の版である。

 『和歌梯』は、四季の部と雑の部に分かれている。国立国会図書館のデジタルライブラリーには、版元が違うが、『和歌梯 雑の部』が収載されている。

 私の蔵書は、和本であるが、かなり痛みが激しく、良く使い込まれており、題せんが剥がれ落ちている。全四巻に四季の例句が収載されている。

 俳諧・俳句を初めて、まず、しなくてはならないのが季語の研究である。季語の研究の為に古い蔵書を実家の書庫で探したが、残念ながら季語関係の書物は見つからず、この『和歌梯』が出てきた。

 この本は、僕が学生の頃、萬字屋で購ったもの。たしか店頭価格で500円前後だったと思う。

 当然、草仮名で書かれており、読解練習の為に買った。この本の面白いところは、
 例えば、

 春部 ○立春となり、言葉の説明が書かれており、新勅撰集、続千載集、続拾遺集等々の勅撰集の名歌が掲載されており、次に、
①けさよりは けふと言えば・・・・
②むかふる春の 一夜明ければ・・・・
③あさぼらけ いづる日の・・・・
④かすむ方より  空のけしきも・・・
⑤かすみたなびく 春風ぞふく 池のさざ波
というようにテーマ毎に第1句 第2句、第3句、第4句、第5句の例句と番号順に配列されており、ここに書いたのは、読解出来た部分だが、この①~⑤の句をうまく組み合わせることで、自動的というか、歌の才能がない人でも簡単に和歌が作れるという優れもの書物である。

 また、言葉の遊びとしても面白い。例えば、乱数の様に①~⑤の句をさいころでも振って、順番に組み合わせれば、奇妙な歌になったり、あるいは、偶然に趣きがある句が出来たり、楽しめる様に工夫してある。

 手紙等に添える時候の挨拶の和歌等もこれで、適当に選んで組み合わせることで出来る。

 実用書である。いわば、和歌の重宝記といった書物である。

一畳敷ってご存じ?2010/09/15 22:22

 今日は、月1回の命日ではなくて、SASの治療。

 といっても無呼吸症用の加圧呼吸装置の使用状況は医者にみてもらって、血圧等を測定、月1回の呼吸補助装置のリース料4750円を保健料金で支払う。

 2002年からなので、もう8年間もCPAP(呼吸装置)とのつき合いになる。

 診察は午後5時からなので、例によってジュンク堂で時間を過ごす。

 お金がないので、本を買わないで置こうと思うが、衝動的(万引きをする心理にも似ている)に手にとって、レジを支払いを済ませている。

 『1年であなたの俳句ここまで伸びる』(辻桃子著、主婦の友社)

 辻桃子先生に惹かれた理由。それは、先生がお綺麗であるから。
 古典的なお着物が似合う美人である。眉と目元が涼しげとそれでいて、きつめの表情が僕の好みである。

 辻桃子先生のお弟子さんは、女流俳人らしく、主婦の方が多いようだ。だから、主婦の友社から出版されているのかも。添削の事例を読むと、どうゆう訳か、添削前の方が自分には良いと思ったりする事例がある。

 これは、辻先生だけではなくて、俳句の雑誌等をみてもそう思うことがある。

 やはり、素人は素人の表現に共感されてしまうのかも。

 俳句には表現上の決まりとかそういったものがあるので、仕方がないのかも知れないが、添削者が、添削の対象となった句の作者になりきれない以上、どうしても、イメージがずれてくるのは、やむを得ないと思う。

 たしかに、僕が好きな飯田龍太とか、有名な俳人の詠んだ句は、添削が入るスキがない、表現というか推敲がされつくした句が中心となっているが、素直な心境をそのまま詠んだ句の方が、表現が拙くても面白かったりする。

 僕は句作というよりも鑑賞の方が好き(素人の俳句でも楽しめる)なので、あまり、様式、形式とかそういったものを好まない。

 童子という同人に一応会員登録をしているが、句作を投稿するかは、まだ未知数。

 もう1冊の一畳敷は、凄い本、ここで紹介を書くのは、もったいないじっくりシャブリ尽くしてから、紹介することにする。

 「一畳敷」それは、あらゆる数寄者の頂点に立つ部屋である。 

 知る人ぞ知る内容。
 読めば唖然とさせられる。

 とにかく、そこには、あらゆる日本の歴史、文化のエッセンスが一畳敷に集約されている。(博物学の立場からみても驚愕させられるエッセンスがつまっている。)

 僕もこんな家におうぶのぼろ家をしてみたいと考えている。

『近世念仏往生伝』2010/08/15 10:35

 浄土教仏教芸術の中で中核的な位置を占めているのが、「往生伝」、「往生説話」である。
 我が国の説話文学の中でも「往生説話」が占める割合が多いし、中将姫伝説等も当麻曼荼羅に関わり合いがあると同時にこれも「往生説話・伝説」のジャンルに入ってくる。
 「往生説話」については、仏教芸術(芸能・絵伝)的な要素もあるし、浄土経教義の解釈・実践にも絡んでくる。
 平安時代に慶慈保胤が編纂した『日本往生極楽記』は、平安中期の往生譚を編集したものであるが、その中心となっているのは、聖徳太子、皇族、僧等で、中心は、上流階級で、一般平民は含まれていない。

 「4年前の佛教大学のスクーリング(春期)の時に神居先生に鳳凰堂の堂内を案内していただいた。あの橋の様なところが渡る時に一筋の風が吹いて蓮の花びらが池に落ちて緑色の水面に波紋が広がった。その後、堂内に入ると、雷鳴がとどろき始めたが、やがて、強烈な稲光が格子窓から差し込んで来た。そうしたら、瞬間的に『九品往生図』が鮮やかな色彩で蘇って来た。」

 平等院の鳳凰堂の扉の内面には、観経に説かれた「九品往生・来迎」の諸相を著した絵画が描かれている。それは、臨終行儀にまつわるものである。
 ①臨終に生ずる様々な魔障を取り除く。
 ②来迎仏は、浄土への道を示す先達である。
 ③臨終正念により愛心を滅する。

 この日頃の観相念仏も重要であるが、臨終行儀にあり方で、往生の有様も階層化されている。
 こうして、貴族や上流階級では、来世でも豪華・優雅な暮らしを求めて、上品中生の往生を目指して、浄土信仰に努める。

 当時の往生伝をみても、この時代の往生の理想は、断末魔の苦しみや永遠に続くかと思われる程の病苦、つるぎで身を裂かれる様な臨終の苦しみを経ても、しっかり臨終行儀・観相を守れば極楽往生がかなうという考え方であった。

 つまり、死の苦しみも、極楽往生への修行過程であるので肯定的に受け止めなければならないという考え方で、これは、中世の西欧カトリックの思想にも似ており、ある意味、宗教的な「死のエロス」という考え方にも結びつく。

 法然上人が浄土宗を開宗してからは、庶民にも極楽往生が可能になるという思想となり、観相念仏から称名念仏に変化してくる。

 こうして観相(図)を中心とした臨終行儀によって、往生が定まるのでは、なくて、あくまでも「選択本願」による極楽往生に変化してくる。

 法然上人が当麻曼荼羅を鑑賞したという逸話も残っており、観相図も信仰の中で、重要な役割を果たしたとみられるが、徐々に信仰形態は庶民化してくる。

 そうして、日頃の「念仏」を中心した平常の生活が重要になってくる。つまり、臨終往生も「死のエロス」の劇的なものではなくて、あくまでも日常的なものとして、捉えられる様になっていく。

 近世以降には、浄土宗の後に成立した浄土真宗の影響も受け、更には、時宗、一向宗等念仏を中心した諸派の信仰も併存していく。戦国時代の一向宗は、念仏・殉教と中世以前の往生の姿勢を受け継いでいくが、浄土宗、真宗ともに、もっと、日常的なものを指向する様になっていく。

 江戸時代に入ると、戦乱もなくなり、寿命あるいは、病没による極楽往生が中心になってくる。

 浄土教の「庶民化」に伴い、念仏中心の生活は、庶民にとっては、同時に、「明日に礼拝・夕べに感謝」、「質素・実直・勤勉」の生活実践でもあり、これを日常実践しておけば、どんな人間も極楽往生がかなうことは間違いないが、それよりも、「死の苦しみ」から逃れて無事に往生することが、信仰の中心テーマとなる。

 『近世念仏往生伝』は、降円が著したものであるが、一般庶民を中心とした念仏・往生の様子が収集・編纂されている。文体も平易な和文に変化していく。

 「人生の終わりの時期が近づいたある篤農家が、阿弥陀来迎の夢をみる。『わしは、もうすぐ極楽往生するじゃろう。』」と家族に告げる。しばらくして、体力が衰えて死期を悟る。病床に伏して家族に暇乞いする。数遍の念仏を唱えた後に、眠る様に息を引き取る。」といった様な説話が中心となる。

 中世以前の往生伝に比べて奇譚は少なく退屈であるが、「死の苦しみと恐怖から逃れること」それが庶民の切実な願いであったのだろう。

 善導大師が、「命終の時に臨んで、心転倒せず、心錯乱せず、心失念せず、心身の諸の苦痛なく、身心快楽にして、禅定に入るがごとく、聖衆来迎したまへ、仏の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品往生せしめ給へ。」と「発願文」を書いているが、近世浄土教の信者達は、まさに、この様な往生を目指した。

 ところで、釈迦は、どの様な入滅の有様だったのだろうか。

☆☆☆
 『ブッダ最後の旅』(中村元著、岩波文庫)には、釈迦は涅槃に臨んで、初禅定に入られて、第二禅、第三禅、第四禅・・・空無辺処非想非非想、滅想受定、そして、ニルバーナの境地に入られた後、再び逆の道筋を通って、初禅に戻られて、再び第二禅、第三禅、第四禅、そして、入滅という道筋をとられた。

 釈迦は、直進的に、禅定→非想非非想→滅相受定→入滅という道筋をとらなかった。

 これは、既に、釈迦が現世にて、既に仏であったことを示す臨終の有様であったという事を示しているのか、あるいは、死の苦しみ(釈迦であるが故に耐えられたが、一般の人間にとても耐えられない苦しみ)を禅定で打ち消した後、静かに入滅していったのかということになるが、どの様に解釈してよいのか判らない。

 いずれにしても釈迦でさえも、この様な有様で往生されるのだから、ましてや一般の衆生は、往生がかなうだけでもありがたいと考えざるを得ないのかもしれない。

 人間は、やはり苦しまなければ死ねないので、今日の様なお盆の日には、それだけ、祖先や最近の亡くなった人の霊を慰めなければならず、そうすることでいくらか、自分の死への恐怖を和らげることにつながることになるのかもしれない。

夢の中での「聖なる出逢い」2010/08/08 10:28

『法然と浄土信仰』(讀賣新聞社,1984)

 先日の金曜日に阪急古書街で購入。800円。新本の定価は、2000円。

 ビジュアルで良くできた本で、これを読むと、おおまかな法然浄土教全般の知識がある程度理解出来る。

 佛教大学の高橋弘次先生(3代前の学長先生)、水谷幸正先生(理事長先生)、関山和夫先生(佛教大学名誉教授)、望月信成先生(あの有名な望月先生)等々、佛大の先生方が本書の中で、活躍されているが、気になるのは、この本の表記で佛教大学が仏教大学になっている点である。ちゃんと固有名詞で表現してほしい。

 阿弥陀25菩薩来迎図の収載量が特に多いのが特色。編集者の趣味か。

 興味深い企画は、「浄土の音を聞く」でこれも、数年前に亡くなられた作曲家の柴田南雄先生の文章であるが、この先生の作品は、現代音楽とはいいかねるが、簡潔・明解な個性的な作品を書かれておられる。作曲家というのは、例えば、いくつかの楽器を組み合わせた作品を構想するが、その際に、全体の音のバランスとか特色等を「心の中の音のイメージ」をまず作り上げて、創作活動をする。もし、来迎図は、平等院の雲中供養菩薩達のもっている楽器類を組み合わせて、合奏させたら、どんな音楽になるかイメージされて、この文章が書かれている。この本の中で、これが、一番独創性を持っている。

 高橋先生は、当麻曼荼羅と観無量寿経、仏説阿弥陀経との関連、そこに流れる浄土信仰とは、どの様なものかわかりやすい文章で書かれているし、水谷先生は地獄について書かれている。

 伊藤唯真先生の「法然の肖像」についての文章もわかりやすい。特に九条兼実についての描写が面白い。

 佛大の教養課程のスクーリングで、「法然の生涯と思想」という科目があるが、その副読本としては、これが良いかも。

 法然上人の宗教体験の頂点は、やはり、あの絵伝にも描かれた善導大師との夢の中での出会いである。善導大師は、法然の時代よりも500年も前の中国のお坊さんである。だから、実際にはあえる筈はないが、祖師との出会いによって、浄土宗開宗への悟りを得た訳であるから、最も重要なイメージである。(実際には、この夢の出会い以前に「観経疏」に出会ったことであり、経典・注釈を通じての出逢いである。)

 夢の中での出逢いと聞いて、ピーンと来た人もいるだろう。そう、明恵上人の夢日記との共通点である。宗旨は全くことなるが、「夢中感得」という点では、両者は共通している。

 中世仏教の特色としては、庶民教化とかそういった面での革新性が強調されがちであるが、古代仏教が、教義・理論研究が礎になっているのに対して、理論研究をふまえながらも、観相という1つの修行法から出発し、夢の中での感得、そして、教義の具体化、布教という道筋を取っている点で大きな特色がある。

 密教にもそういった面が挙げられるが、教化の対象が庶民に向けられることはなかった。

 何故、感得という点が重要だったのか、それは、専修念仏をベースに、高僧も庶民も同様に聖なる阿弥陀のイメージを感得することが出来るという点であると思う。