安本美典先生による「コンピュータによる記紀の分析」2011/03/26 09:22

 未だに実家においてある本も多い。

 この3冊もお気に入りだが、分厚く重たいので、実家においてある。幻想図書辞典は、最近買ったほんである。

 古今東西の怪しげな事物に関する図書をまとめた文献目録であり、非常に役に立つ本である。

 その中でも「ヴォイニッチ写本」の項目が面白い。大体、未だに解読されていない文献が存在していること自体が面白い。写本ということで、15世紀までに成立したとされているが、言語も文字も不明である。実は、かのフランシス・ベーコンが贋作した本であるという奇妙な説まである。

 とにかく読んでいて興味はつきない。

 残りは、佛大の斉藤教授宜しく神社、記紀関連で学術的というか興味本位で書かれたものである。僕は、幼い時から神社・仏閣が好きで、親に連れられて一人でよくお参りにいっていた。

 実家の近くは、多田院といって清和源氏発祥の地でもあり、多田神社の領地でもあった。家から30分の距離にあるこの神社では、毎年4月になると源氏祭りが開催される。

 そこに昔は、武者行列に加えて稚児行列というのがあって、その稚児になるのが、僕の夢であったが、友人が選ばれても容貌が醜怪な自分は選ばれることがなかった。まさに「鬼」の様な気持ちで、これらの行列を眺めていた。

 神社から出発して、祭神について興味を持つようになり、古事記、日本書紀の世界に入っていくようになっていた。だから、これらに出てくる神々は自分にとっては、身近というか生活感さえも漂っている。

 『古事記・日本書紀の謎』には、安本美典先生による「コンピュータによる記紀の分析」という記事が掲載されている。

 安本先生は、私の源氏物語の成立についての考察、研究(修士論文)にコンピュータによる解析法を採用する際に同先生の「宇治十帖の成立過程について」の論文を先行研究に取り上げさせていただいたが、ここでは、記紀についての同じ様な研究手法の投入について簡単に記されている。

 面白いのは、「数理文献学」のコンセプトを導入されており、古代インドの文献学者がリグヴェーダの詩句の観察に始まり、イギリス王立統計協会会長のユールによる数理文献学研究の金字塔とも言える著作について触れられている。これは、「イミタチオ・クリスチ」の著者についてドイツの修道士トマス・ア・ケンピスという説と、ジェン・ジェルソンという説に分かれていた時に、文章の統計的な解析を行い、更に、2人の著者候補の書いた文章についても同様の解析を行って、その相関性について、統計的な判定手法によってトマスの相関係数が、0.91であり、統計的に有意の相関関係にあると判定した。

 私も同様の方法で、紫式部日記と源氏物語の本文について、分析を行った結果、源氏物語の文章は、

1.複数の著者による執筆の可能性がある。
2.紫式部日記の作者と有意な統計的相関性がある文章が存在する巻(夕顔、若紫)が存在することから、源氏物語の複数の著者の中には、紫式部が含まれている可能性が高い。

といった事実を科学的・客観的に立証し、それを佛教大学の国文学会で発表したが、誰も、賛同者がおられなかったのは残念である。

記紀の場合は、源氏物語の場合は仮名表記でのパソコンへの入力が容易であるが、記紀の場合は、遙かに困難である。従って、文章そのものの解析よりも、歴法、年代法の鑑定及び登場する地名の統計的考察等が有効な手段である。

古事記に登場する地名には、山陰と九州地方の地名が圧倒的に多いことが統計的手法で示されており、それが何を意味するのかについて考えてみると興味がつきない。

マゾヒズムと劣等感とは、実は、対照の関係2011/01/30 22:58

 電車の中で、『家畜人ヤプー』(幻冬舎文庫)を読んでいたら、横に、座っていた女性に嫌な顔をされてしまった。

 たしかにエログロだけど、三島由紀夫も読んで、「奇譚文庫」だったか、その同人誌で口を極めて褒めていた作品。

 ○マゾヒズムと劣等感とは、実は、対照の関係にあり、サディズムと優越感との関係に等しい。

 つまり、優越感がない人間は、マゾヒズムの快感を感じ得ないということだと思う。つまり、感覚的ではなくて、精神的な支配と隷属ということである。

 こうしたことを考えると、1970年代までの原種ヤプーには、この作品をかけても、現代の調教されたヤプーには、こんな作品はかけないと思う。

 なにせ、優越感というものが、グローバリズムの中で、ひとかけらさえも残っていなくなったからだ。

 でも、遺伝子工学が発達した現代では、別にヤプー家畜化しなくても、他の手段で、隷属・奉仕するバイロジーを人工的に作り上げることが出来るし、アンドロイドの方がずっと良いかも。

 阪大で開発されたアンドロイド、あの日本人の女性のモデルが、中東の貴族向けに販売されるかもしれない。

 あらたなヤプーの誕生である。

『正岡子規 言葉と生きる』2011/01/25 23:05

 稔典先生の『正岡子規 言葉と生きる』である。

 稔典先生には、佛大の大学院のゼミ授業で正岡子規の主要な散文については、習う機会を経た。

 特に『病床六尺』や『仰臥慢録』等の作品を分担して読んでいったと思う。

 俳句については、殆ど、その表現については習わなかったのか記憶にない。

 僕は、稔典先生に「俳句って何が面白いのか僕には判りません。」と面と向かって言ってしまった人間である。

 でも、実は、関大時代から子規句集は読んでいたし、漱石書簡集にも子規のことは出てきていた。

 でも、僕の興味は、尾崎放哉であった。

 何故ならば、小豆島で絵描きの祖父の元に預けれており、小豆島霊場第五十八番札所西光寺奥の院南郷庵等の旧跡を祖父と一緒に訪問して、祖父がスケッチしているのを横でみていたからだ。


 「俳句とは、偏屈なもんやが、それ以上に偏屈なのが、放哉や。」と言っていたし、よく小豆島のアトリエを訪れた竹中郁も同様のことを口にしていた。

 僕が最初に俳句を詠んだのは10歳の時であるが、「祖父が俳句みたいなくだらんものは止めとけ。もっと子供らしい詩を習え。」と竹中さんの児童詩というのをやらされて、子供の目とかそういった本に当時の僕の詩等が載っているが、本人は、全然面白くなかった。朝日新聞にも僕の詩が載ったことがあるが、恥ずかしいだけだった。

 児童詩らしい直接性を装った白々しい表現に吐き気を催した。
 小豆島では、俳句とか詩よりも、昔の「蛸壺」とか漁師が海から引き上げた古い沈没船の陶片等に興味を示している年寄り臭い子供だった。

☆☆☆
 ところで、正岡子規の「写生」という考え方については、稔典先生は、他の俳句の師匠様達に比べて、距離を置いてみられていると思う。関大では、乾裕之先生や谷澤先生に芭蕉の連句を学んだが、やはり、同様に彼らの発句も、対象から距離を置いてみられている。

 芭蕉の俳句には、「客観写生」はみられないのだろうか。

 例えば、子規句集(高浜虚子 岩波文庫)の巻末に稔典先生は、解説を書かれている。

 その中で、虚子は、「明治の俳句は、月並みの中から芽生えて、新しき客観写生の境地を招き来たった。」と述べていることを引用されているが、虚子がいう「客観写生」と子規の「獺祭書屋俳句帖抄」で述べている「写生的妙味」が判ったと言っていることと同じ次元で捉えるべきか否かについては、結論を出されていない。

 子規句集の明治二十二~二十三年までの俳句と、「写生的妙味」が判ったとしている明治二十七年以降の俳句とどう違うかと言う点で、たしかに僕の印象でも、初期の俳句は、「言葉の妙味」に重きを置いていることが判る。そうして、声を出して読んでみると判る様に、スピードが遅く停滞的である。明治28年以降の俳句は、たしかにその点で、「視覚的表現」、「焦点の明確化」、「直接的印象表現」の点で凝縮が進んでおり、スピーディであり、一種の緊迫感がある。これが、「写生的妙味」なんだろうか。

 稔典先生は、子規の初期俳句について、「言葉遊びに富む回覧雑誌の編集や漢詩の創作に熱中した時期を持つ子規には、俳句においても、一種の言葉遊びを楽しむ面があった。」と述べている。

 そうして、この「言葉遊びと創造の密着」が子規の初期の俳句の原点だとしている。虚子は、この「言葉遊び」を排除したのが、「客観写生」であったとしているが、果たして、子規本人は、どの様に考えていたのだろうか。

 斎藤茂吉は、虚子とは違う子規の「写生」についての見方を持っていた。それが、「端的単心の趣き」であり、これは、「客観写生」とは違う。むしろ、「素直な遊びの精神と創造が密着した境地」であり、虚子が認めたがらなかった点を評価されている。

 稔典先生も実は、茂吉の見方に近いと思う。「F君、俳句なんて、写生、写生と言っても、そのまま直接的な感動とか印象によって俳句を作ろうとしても、それは、絶対無理だよ。」っと言われたことを記憶している。むしろ、対象から距離を於いた遊びの精神である。

 さて、今回の『正岡子規 言葉と生きる』であるが、どの様な見解が述べられているだろうか。「言葉」の捉え方と子規の生き様の関係について、新しい見解が示されていると思い、これから楽しみに読み始めるとしようか。

もう150冊は、同じ人から買い続けている。2011/01/24 23:10

ビッグイシュー第9号からずっと同じ人から買い続けている。

よく頑張って販売しているものと思う。現在159号なので、もう150冊は、同じ人から買い続けている。

最近は、堂島地下街までなかなか行かないので、3冊一度とか買ったりする。買った時に、販売しているオジサンが凄く嬉しそうな顔をするので良い。

最近は、物を買っても社員とかアルバイトの人が多いので、こんなに嬉しそうな顔をする人は少ない。

そういった売る人と買う人の関係って良いと思う。

最近、読んだ中で印象に残っているのは、やはり、ダライ・ラマ14世の記事で、中共にチベットが占領されて、逃げる時の様子とかいろいろ書かれている。

中国の人も全てが悪い筈ではないのだけれど、国家とか政党とか資本家とか企業とかそういったものが駄目なんだと思う。

民主党内閣も早く解散して、国民総背番号制とか、消費税増税とかTPPとか、みんな止めて欲しい。

チベットの人達と虐める中共と日本人・国民を虐める民主党とそんなに変わりはないと思う。

こんなにアマテラスが生き生きと描かれている本は少ないのでは2011/01/22 21:01

『アマテラス』を今日、読み終えた。
http://fry.asablo.jp/blog/2011/01/20/5642361

内容的には面白い。古代のアマテラス像よりも、平安時代から中世以降については、面白く、源氏物語や更級日記から引用等も、なるほどと感じさせられた。

「霊感少女」 菅原孝標女に現れたアマテラスの影向は、どんなものであったのか。また、彼女がみた内侍司の語り部の老女房の雰囲気描写等も見事である。各時代の「アマテラス」がパノラマ的に描かれており、斉藤先生の文章力・表現力が凄いので、つい引き込まれてしまう。

こんなにアマテラスが生き生きと描かれている本は少ないのではと思った。

近代以降のアマテラスについては、大嘗祭や平成の即位大礼等について書かれているが、皇国史観とアマテラスの関わりについて、更に論じて欲しかった。

また、疑問もある。

4世紀頃に、宮廷から伊勢にアマテラスを移し祀る由来の記事で、人民に流行病等の多くの災いが起こり、それがアマテラスの祟りだとしたが、平安朝以降のアマテラスの祟りは、帝、自身に祟っていくので、祟りの性格が変わっていると思うのだが、どうして、そんな風に変化したのだろうか。

最後に誤字・誤植が見あたらなかったのは、感心。最近では、学術論文でさえ、誤字・脱字が多くみつかるので、念入りの校正がされているのだろう。

「原典」とはなんぞや2011/01/20 00:20

 『アマテラス』(斎藤英喜著、学研新書)

 どこかのブログで喧伝しているので、買いました。ちらちらめくってみると、事前のイメージ通りの内容の様な感じ。

 神話学の人が、記紀や、中世日本紀、神仏習合を論じたら、こんな風になるというのは、なんとなく判るが、国文畑からみたら、やはり、抵抗があるし、学問というよりも、「学問小説風」である。

 つまり、学術資料をもとに壮大なストーリーを作り上げている。論文とも違うかも。

 一応、原典資料とやらが引かれているが、『古事記』新潮日本古典集成 新潮社とあるが、これは、原典というよりも注釈書であり、しかも、原文ではなくて、読み下し文なので、こうしたものは、原典と言ったら、僕の学部生時代だったら、「ゲンコツ」だった。

 やっぱり、古事記だったら、何本を参照したのか、この愚かな僕でさえも、真福寺本の影印で読んでいるのに、どんなものか。

 古事記の神々が当時、どの様に発音されていたのか、それは、こういった原典を読めば、一部に訓点の痕跡もみられるし、同じアマテラスでも読み分けられてことが判る。こうしたことは、本物の「原典」をみなければ、判らない。

 二次資料を孫引きしても怒られない佛大の学風というのは、たしかに自由で好いので、空想作品も生まれやすいが、学術的信憑性という点でどうだか。

 関大は、この逆で、こうしたことを許されない「お堅い学風」なので、「創造的な研究」というのは、関大オリジナルでは生まれなかった。

 私の師の清水好子先生は、関西大学に骨を埋められたが、もし、京都大学の教授であられたら、あるいは、間違って佛大の先生になられていたら、斉藤先生の様に、凄くユニークで面白い研究が幾つも生まれたかも。

 いずれにしても、この本の参考文献の項目をみただけで、「昭和は遠くなりにけり。」で、関大の恩師の木下先生や、神堀先生のお姿が好くも悪しくも忍ばれる。

 こうしたケチをつけたが、内容は、面白く、一昨年に籠神社での斉藤先生の講演を拝聴した内容、中世のアマテラスと元伊勢との関係についての考察にまで発展をみせている部分に研究の進歩の片鱗をうかがうことが出来る。

沈没船が教える世界史2011/01/09 23:34

 お正月で唯一、面白かった本。

 著者のランドール・ササキさんは、著者の写真をみる限り、神奈川県生まれで、混血。アメリカの大学で勉強して、中近東で陸上遺跡の発掘作業を行っていたが、02年にテキサスA&M大学で水中考古学を学んで、現在、博士課程に在籍中という。

 沈没船ものでは、テレビのクストーの海底世界等々1950年代から1960年代にかけてスキューバ-ダイビングが沈没船探査にも応用される様になって、特にカリブ海等のスペイン船の財宝を発見したり、そういったものが多かった。

 現在は、ほぼ視界が綺麗な海での沈没船探査は終わってしまって、ドロドロの海底、視界数㎝等の海をこのササキさんは、潜られて調査されている。

 この本は、発掘の実体験というよりも、水中考古学の立場から、「大航海時代」、世界最古の沈没船遺跡ウルブルン(紀元前1500年)等紀元前の沈没船、ローマ帝国時代、更に、ローマ帝国が崩壊し、中世以降の沈没船等を取りあげているし、東洋では、元寇やモンゴルがベトナム侵略を行った時の遺構等も紹介されている。また、高麗の船と南宋で作られた船との決定的な違いは、南宋(中国船)は、釘が使用されているが、高麗の船は、釘が使われていないとか、あるいは、高麗の船でも中国で修理されたものは、釘が使われている等々、そういった技術的な背景も見えてくるという。

 沈没船は、私達が考えているよりも、有機物の保存が良好で陸上遺跡よりも、良い状態のものが発見されるという。また、徐々に廃墟になって滅んだのではなくて、ピンポイントの歴史が封印された「タイムマシン」であると述べている。

 実際に様々なタイムマシンによる海底旅行に招待してくれるが、例えば、ローマ時代のアンフォラ(壺)から見つかった葡萄の種や茎、あるいは、中世時代の同じワイン壺等を比較して、ローマ時代の方が、ワイン作りに関しては、技術レベルが高いし、船の建造技術も中世よりも紀元前の方が優れているとか、元寇では、鷹島遺跡が紹介されるが、侵攻船イカリが4本海底に残されており、全てが南側に矢印部分が向いている。つまり、北側に船体が合った筈だが、神風が実際に吹いた時は、強い南風で、あの洞爺丸の遭難の時並みの強力な季節外れの暴風であった等々、面白い事柄が一杯書かれている。

 但し、残念なのは、遺跡の地図や発掘図面、海底断面図等の図や遺物の写真は、全然掲載されていない。

 このブログでも紹介したギリシャの沈没船から発掘された天体運行儀についても触れられているが、その写真も載っていない。

 全く、図や写真がなくて、著者の文章力で、この本に引き込まれてしまうのは、凄いと思うが、もっと、具体的な図や写真があれば、貴重な資料になり得るのにと思った。

『俳句界』1月号を読んで2010/12/27 23:54

 酒に酔うと本屋をさまよい歩き、金がないのに、つまらない本を買ってしまう悪い癖がある。

 『俳句界』1月号である。

 今月は、「俳句論」の特集である。佛大の通信大学院で、ご一緒した上野一孝先生も「俺の俳句論を聞け」ということで、議論好きな先生らしい記事が肖像写真月で掲載されている。

 僕にとっては、「俳句って議論必要なのかよ。」ということを議論したいようなしたくないような。

 俳句って、結局、好き勝手に詠んで、精々、句会の時に論評すればよいのだと思っている。

 俳句王国に稔典先生が出ているので、稔典先生のファンの母親とみていると、句会というのは、点数がつくようだけれど、1点当たり、千円ずつ賭けたら面白いかも。

 等々罰当たりなことをいうが、江戸時代の句会って、それに近いものだったらしい。胴元(主催者)がいて、勝ち負けを決める。

 ウチの先祖もこうした道楽をしていたとみえて、柿本人麻呂像が伝わっている。

 連句の会では、人麻呂像を前において、勝負をやるのだそうだ。

 話が横道にそれてしまったが、俳句名評論が掲載されており、まぁ、「近代俳句史」なるものが、学問的に成立するとすれば、必携の論文が正岡子規から金子兜太、高柳重信等まで挙げられている。

 一番有名なのは、やはり、桑原武夫の「俳句第二芸術論」であろうか。

 「稔典先生の俳句教室」にも書かれているが、この「芸術」という言葉がくせ者である。

 結局、明治以降、西欧から何もかも輸入した日本。文学の近代化(実は、欧米の猿まねに過ぎない)を図った日本。文学、美術の評論を行うに当たって西欧の「芸術論」をそのまま取り入れており、ブツゾウとかそういったものにも岡倉天心当たりが、西欧に芸術論の観点から、廃仏毀釈の魔手からブツゾウ達を救ったのは良いとしても、それ以外は、まさに猿まねである。


 大体、西欧においても、「芸術」という概念は、「近代的な自我の形成」、すなわち、宗教とか封建的な束縛からの個性の開放によって、新しい理想像を追求する規範として、19世紀になってようやく「芸術論」というのが起きてくる。

 しかし、その「芸術」というのが、結局は、キリスト教の「愛」から出発しているので、

 愛→真・善・美→理想→芸術となり、この「愛」は、中世に遡ると、キリスト教の人間愛の実践に基づく。

 つまり、大乗仏教における六波羅蜜に近いような理想論、それが芸術の本質である。

 そのような価値観が醸成される様な基礎的な土壌は、日本文化の根底にはまるで存在していない。

 桑原の時代、比較文化論の芽生え的なものは、一部の文芸評論にみられるが、その歴史的な背景を含めた包括的な価値判断の手法、つまり、「比較文化史論」が成立していない時代だったので、こんなに的外れな議論、例えば、芭蕉は、第一芸術で、現代俳句は、第二芸術だという馬鹿げた判断が起こるのだと思う。

 江戸時代から続いてきた俳諧は、結局は、遊戯である。日本の文学や芸能、工芸には、西洋の「芸術」や「美学」などという考え方等、存在せず、西洋かぶれになってから、その様な価値判断が起こって来たので、ナンセンスである。

 俳句は、その「つくりかた」が面白ければ、それで良いのだと思う。芸術だとかどうだとかいうよりも、言葉の組み立て方を楽しむ文芸で、この芸は、「藝」であり、西洋的な理想論等もない。

 正岡子規の「写生」も西洋のリアリズムとかとは離れた、むしろ、北斎の漫画にみられる様な表現の面白さを追求したものに他ならない。

 この事は、例えば、源氏物語や近松浄瑠璃等の研究にも西洋かぶれした文芸評論、つまり、「芸術」の立場から作品を論じようとする姿勢が未だにも、キリスト教系の大学の先生にみられることで、日本文学の研究に西洋文学の研究法を導入しようとすること自体が、間違えで、全く、違う、文明・文化の出来事なのだと思う。

 あのリヒャルト・ワーグナーが、心臓発作を起こして、死のうとした、最後に原稿に書き残した言葉は、「愛、それは死」であるが、これは、キリスト教美学に基づく芸術理想論では、「愛」が「死」(犠牲)によって浄化される過程を描くこと、まさに、それが、西洋の「芸術」ということになるのだろうか。

 ドナルド・キーンの日本文学史論で、近松の曾根崎心中を取りあげたものがあるが、まさに、西洋的な「芸術観」でみれば、心中の美学は、まさに、芸術の理想である「愛、それは死」に近い。

 この点について、以前、長友千代治先生が、「ドナルド・キーンみたいな程度の低い奴の評論等は、学問研究に値しない。」と酷評された。

 当時、僕は、江戸文学の研究において、やはり西洋的な「芸術論」にとらわれていたのか、ドナルド・キーンの評論を引用したが、ボロッかすに酷評された。その後、長友先生にお目にかかった時、「F君、ドナルド・キーンが来たよ。」と馬鹿にした様にからかわれたものだ。

 近松の浄瑠璃は、結局、そんな西洋的な「愛と死の犠牲」の芸術表現を目指したものではない。テレビのワイドショーの様に、好奇な心中事件を興業収入が挙がることを大きな目的として、取りあげたに過ぎない。

 「俳句」もそうで、芸術的な表現云々よりも、座の文芸の面白さということで、その楽しみにネタに景事を素材に、折節の言葉でまとめてその機知をお互いに評して楽しむゲームに過ぎないのだと思う。

 こんな風につまらない評論ばかりだ。

 但し、辻桃子先生の「つながれて秋のボートになりにけり」という句が加藤先生の評論に取りあげられていたが、「つながれて春のボートになりにけり」とどう違うのか、桑原先生の「芸術論」をツールとして、分析・評論しても区別することは出来ないだろう。

 つまり、そのような区別は、キリスト教を根幹とした「西洋美学、芸術論」では、なし得ないだと思う。

『国語・国文学図書総目録』2010/12/25 16:38

 1冊でも研究書を著していたら、先生扱いでいろいろな本の宣伝が出版社から送られてくるが、『国語・国文学図書総目録』は、毎年刊行されているが、国内で、現役で出版されている研究資料や研究所の全てが網羅されているので、研究者必携の書だと思う。

 これが無料サービスで送られてくるなんてありがたいことだと思う。

 源氏物語の項目を捜したが、新しい写本の注釈やDVD等で目を曳いたものがあるが、高価で手が出ない。それ以外には、片桐先生と関大の山本先生との共著の伊勢物語の研究書等が唯一、成果と言えるものかもしれない。

 この総目録、年々薄くなっていく様な気がする。それだけ、国文離れが続いているようだ。僕も、この目録を精一杯活用して、色々な研究を続けられたら思うが、もうそれも諦めている。

 1千万位の研究資金があれば、この総目録に1個か2個位載せる様な研究成果が挙げられるのに、年末ジャンボが当たらない限りは無理だな。

ホトトギス季寄せ2010/12/15 23:18

 俳句を始めると、先ず迷うのが季語である。
 
 そうなると吟行とか句会とかそういった場合には、季寄せは必携のものとなる。

 季寄せにも色々なモノが出ているが、俳句手帳等についているものは、殆ど役に立たない。

 良い季寄せの条件として、初心の私からみれば。

①価格が安いこと。
②持ち運びやすいこと。
③項目数が多く、少なくとも季節別に加えて、月別に部立てがされていること。
④語句索引がついていること。
⑤例句が豊富で、しかも優れたものが選られていること。

 この5条件を満たした季寄せは、色々捜したが、殆どなかった。大部のものは、確かに内容も良いが、値段も高く、季節毎に分かれているのは良いが、これを毎日の様に携帯するのは、苦痛である。

 こうして買って失敗した挙げ句に、選んだのが、稲畑汀子編『ホトトギス季寄せ』(三省堂)である。

 これは、手帳サイズでコンパクト、値段は、通常装幀版で1900円+税で、巻末の索引は引きやすく内容も豊富。

 特に関心させられるのは、食べ物関係の季語が豊富であり、中には、珍しい風物もあり、読んでいて楽しくなる。

 例句も虚子や汀子さんの句が選ばれており、適切なものが多い。

 俳句をやっていなくても、気象とか季節、花鳥風月、旬の食べ物に興味を持っている人は、安いので持っていて宜しいかと思う。

 最初から、これを選んでおれば、回り道しなくて良かったのに思う。

 稲畑先生と言えば、一昨年の金子兜太先生との俳句王国でのバトルが想い出される。両先生ともに、譲らない部分があって、その個性がある句の評をめぐってぶつかってしまった。司会のNHKの女子アナは、大御所と呼ばれている方であったが、この人の貫禄をしても、番組を続けるのに難渋されていた。

 これをみて、「俳句って大変だな。」と思った訳。