自分で作品を作らない人の解釈と研究は、自分でも作品を作る人とかなり、認識のギャップがあると思う(修正)2011/02/17 20:23

 自分で俳句を作るようになって、良くも悪しくも自分は変わった。

 大学を卒業後、社会に出て佛大で学びながら平安朝文学・絵画について3つばかりの論文を書いたが、自分で作品を作らない人の解釈と研究は、自分でも作品を作る人とかなり、認識のギャップがあると思う。
 
 実際に作品を作りながら私は、詩歌については、その限られた制約の中で、作者の言いたいことを織り込んでいるので、文字になっていない部分までも、深い洞察と理解が必要である。ただ単に文字面に即した解釈を行っても意味として成り立つが、それでは、作者の本当に言いたい部分が汲み取れない部分があるとの考えを持つに至った。


 写真は、「秀家の無念」の地下深く埋もれてしまった彼が築城した時の石垣である。

 私のような程度の低い人間の作品でもこんな訳なので、偉大な作者の作品では、もっともっと深いメタファーが存在している筈である。そんなことを考えてみると、私が独りよがりの考えを述べた「大和物語の切断形式について」の論文も、結局は、俳句の世界につながる物語の世界を模索したものであるが、もう少し、この物語の作中人物、和歌、作家の心情まで読み取って、その表現手法について考えてみることが必要であったと思う。

追記:1晩考えたら、やはり、「春の城」の方が、良いと思った。
    実にいい加減なものである。

やっぱり「人間性」やな2011/02/12 13:27

 やっぱり「人間性」やな。

 今月の佛大ワールドを読んでいる。佛大通信が家に届かなくなってからは、毎月引き落とされる寄付金だけがこの学校とのつながりだが、佛大ワールドだけは、ネットで読めるので毎月読んでいる。
http://www.bunet.jp/world/html/23_2/545_meigen/index.html

 別にこの佛大ワールドは、テーマを決めて編集されているのではないのだが、今月は、まさに、「人間性」という部分に焦点が当てられている様な感じがする。

 別にそのテーマを決めて投稿されたり、原稿を集めたりといったことではないのだろうが、この大学の先生方が興味を持たれている点が共通しているのであろう。

「私のこの一冊」その23 中島敦全集

 教育学部臨床心理学科の荒井真太郎先生の文章であるが、高校時代における中島敦の山月記との出逢い、「名人伝」における「道」の概念とその先にある領域に感心を持ったという。

 結局、一芸を極めると、最後に残るのは、弓とかそういったマテリアルではなくて、「人間性」という純化された存在である。

 この作品の「人間性」に光りを当てる時に、作品から更に、作家へと洞察の目が移ってくる。それは、クライアントの「病跡」を追跡・観察する臨床心理学への道とどこかでつながっている。

☆☆☆
 「愛を読むひと」が問う加害者と被害者の両義性

 これは、私が佛大通信社会学部でお世話になった松田智子先生の原稿である。「朗読者The Reader」という映画について文章を書かれている。

 舞台は、第2次世界大戦後のドイツで、主人公は、ナチスドイツの強制収容所での守衛(看守)をしていたハンナという女性と、ミヒャエルという15歳の青年である。

 街の通りで気分が悪くなったミヒャエルは、ハンナに救われる。そのことがきっかけで、ミヒャエルとハンナは仲良くなり、男女の関係になる。彼らの楽しみのひとときは、ミヒャエルがハンナに本の朗読をする時間である。

 ハンナは文盲であった。
 その後、ハンナの仕事上の功績からホワイトカラーに取り立てられるが、文盲なので不可能で、そのことを恥じてか、2人の関係は消滅する。

 その後、数年が経過し、ハンナは、ナチス戦犯で逮捕された。ミヒャエルは、弁護士の卵であったので、その裁判を傍聴する。ハンナは、文盲であることを隠すために終身刑という重罪を受け入れてしまう。

 ミヒャエルは、獄中にいるハンナに本を朗読したテープを送り続ける。獄中のハンナとミヒャエルの人間性は再びテープを媒介に結ばれていた。

 ところが、恩赦になってハンナが出獄して来た時、彼のイメージとは全く異なった老婆になっており、ミヒャエルは愛情を失う。

 ハンナは絶望の余り自ら命を絶つ。

 松田先生は、このミヒャエルとハンナとの関係について、たしかにハンナは、許し難い犯罪を犯したが、実は、ミヒャエルを助けて、その後の関係は、文盲という障害を乗り越えて、2人の人間性の絆は結ばれた。加害者と被害者との両義性と言うのは、実は、人間性の葛藤でもある。

 社会学では、この問題をヒューマニティという視点から扱うが、人間の「愛と苦悩」といった問題にまで、どこまで踏み込むことが出来るのだろうか。

 最後に月々の名言では、坪内捻典先生が何時も文章を書かれている。今回は、会津八一をいう歌人・書家を取り上げている。ひらがな書きの和歌には違和感を覚えるという先生、早稲田大学の演劇博物館に掲げられた学規を目にする。

 一 ふかくこの生を愛すべし
 一 かへりみて己を知るべし
 一 学芸を以て性を養うべし
 一 日々新面目あるべし

     秋艸道人(八一の雅号)
 
 この額がよいと先生は思われた。その理由は、あくまでも学生への要求だが、それは、教師と学生が同じく目指す、人間性への目標だからだろう。

 自己肯定が、第一で、同時に自己批判(分析)も必要である。そうした上で、学芸によって、性「人間性」を涵養し、常に新しいことに興味を持って挑戦する姿勢である。

 いかにも人間性を肯定され、教師、生徒の分け隔てなくて、気さくな捻典先生らしい文章だと思う。

 やはり、「人間性」というのは、否定的なものの見方からは、生まれてこないのだろう。

 そうした視点でみれば、あの松田先生の映画に出てきたハンナと言う女性の姿がオーバーラップしてくるのである。

☆☆☆

 今月の佛大ワールドは、稔典先生以外は、文学と関係無い人たちが文章を書いているので、あまり読む気持ちにはなれなかったが、実際に目にすると内容が濃厚で読むだけの価値があるものだったと思う。

「極楽往生」の話をしているが、母親と同様にスマナサーラ師もそんなものがないという2011/02/11 18:16

 今日、暇つぶしにこれを読んでしまったが、まぁ、面白かった。

 スマナサーラ師のお話よりも寂聴さんのお話の方が、面白かった。残りのゲストは、山折哲雄さん以外は、つまらない。

 この本、学研が出しているが、僕が、科学と学習を購読していた1970年代前半までは、まともな出版社であったが、今は、「とんでも本」のメッカである。

 宗教を否定する共産党系の清風堂さん等は、学研の本は、殆ど置いていない。

 しかし、1つの文化的トレンドとしてみれば面白い。日本文化というのは、グローバルに評価されているのは、アンダーグラウンドやアニメ、ゲーム等で、真面目な宗教や文学等は、世界の動きの中でマイナーな存在である。

 仏教に関しても、世界的な視点でみれば、日本仏教というのは、オウムの信者が語っていた様に「風景」、「観光名所」、「文化遺産」でしかない。

 今、世界の新興宗教のトレンドは、やはりカルトである。仏教系カルトもあるが、カルトと言わなくても、日本語文化圏以外で信仰されているのは、スマナサーラの「テーラワーダ」か、ダライラマのチベット密教である。

 テーラワーダが初期仏教・仏教の始原の姿を示しているというのは、少しおかしいと思うが、日本の既存仏教が、大乗に対する小乗と蔑んできた一方で、本来のブッダの教えとは、かなりかけ離れてしまっている点をみれば、この本を読んでみる価値がある。

 「仏教は宗教ではない。」という宮崎哲弥さんの考え方は、佛大の松田先生と共通しているが、実際のテーラワーダは、チベット系カルトと同様に瞑想があったりして、多分に儀式的である。結局、儀式性が強い集団活動となれば、政治結社から宗教結社、カルトしかないので、やはり、1つの宗教の一派ではないかと覚めた目でみてしまう。

 テーラワーダによれば、如来も菩薩も存在しない。当然、仏像とか仏教芸術等もない。
 じゃあ、あの阿弥陀如来をみて感じられるヒーリング・癒し効果はなんなんだろう。

 自己存在の意識的な否定というのが解脱につながるというが、そうした意識を失ってしまえば、解脱とかそういったことも意味をなさなくなってしまうのではないだろうか。
 テーラワーダの動きについて、浄土系の既存仏教の人が反論も書いているが、結局、どれが正しく、どれが駄目ということはない。

 母親に実家に帰る度に「極楽往生」の話をしているが、母親と同様にスマナサーラ師もそんなものがないという。「出来れば、僕は、阿弥陀如来の側には行きたくないですね。」と述べておられる。
 まぁ、合理的に突き詰めて自己存在を否定することで、色々な苦しみや不安が取り除けるのはよいと思うが、それはなかなか難しいと思う。


 私、個人の考えとしては、ブッダについては、人間ブッダとして、その生き方や価値観を客観的にみていくことが大事だと思うが、2千年以上も経過した人について客観的に評価することは難しいと思う。

ニヤ遺跡 画像更新2011/02/02 21:49

 先日の安藤先生の四条センターでの講演で、ニヤ遺跡のことをやっていたので、大分前にGoogleEarthで訪問したところに行ってみた。

 前回は、仏塔がある地点の解像度が低くて遺跡が確認出来なかったが、今回の映像では、仏塔らしきものの起伏とか細部が確認出来る。凄いことだと思う。
 こんな荒涼としたところにあんなに綺麗な仏像壁画があり、しかもそれは、みたこともない様な姿、表現があるので、ニヤ遺跡は、なんど話を聞いても飽きない。


 死ぬまでに、一度でも良いからキジル石窟や敦煌等を訪問してみたが、自分には、無理だろう。
 でも、宇津保物語の俊蔭の様に、魔法の国にいった様なお話を聞いて帰ってくるだけでも面白い。
 安藤先生には、今一度、現地を訪問していただいて、更に新しい図像等を発見して、また、報告していただければ、私にとって、こんなに嬉しいことはない。

 次回は、アジャンタ-のお話らしい。また、時間があれば、受講したいと思う。


シルクロードの仏教絵画2011/01/31 23:43

 今日は、佛教大学四条センターで開催された講座、「仏教絵画を読み解く」の内、「シルクロードの仏教絵画」を受講した。

 安藤先生にお目にかかるのは久しぶりであった。この前の時間に、「源氏物語の色」という講座があり、その為に、田中みどり先生が来られていて、ちょうど、僕が四条センターに到着した時、綺麗な着物をお召しになられた田中先生がいらっしゃった。

 田中先生と談笑している内に、安藤佳香先生が見えられた。久しぶりに拝見したが、やはり、お綺麗であった。それよりも、安藤先生らしいと思ったのは、田中先生の見事な帯の文様にしきりにみられて褒められていた点で、さすが、文様フェチの安藤先生だと思った。

 講義の内容は、以前、拝聴した内容とかなりダブっていたが、貴重なニヤ遺跡やダンダンウィリク遺跡、キジル等の壁画については、印刷物になっていないものが多く、先生が現地で撮影されて来た写真をみる以外になく、それは、講演のスライド以外には不可能なので、同じ資料を何度みても、それは、それなり意義があることだと思った。

 尊像を両手で支える人物についても以前の講演でみた資料が中心であったが、兜跋毘沙門天の足元を支える地天女と二鬼更に、その下に文様があり、これがグプタ朝唐草である点に大変興味が持てた。

 そのルーツが、シルクロードのダンダンウィリク遺跡の出土壁画みることが出来る点、更に、尊像を下から支える人物自体が、グプタ朝唐草によって産み出された生命力というかエネルギーを表している部分が凄いと思う。

 そういった点で安藤先生の仏像や仏教絵画の解釈は、文様のエネルギーと言った部分で根元がつながっており、単なる解釈を超えた一貫性と説得力があるのが面白いと思った。

 3回シリーズ、続けて行けると良いが、平日の昼間なので、時間が許せばということになるだろう。

菩提心2011/01/26 09:54

 昨日の法然忌、僕は、すっかりと忘れて仕事に追われていた。これではイケナイと思う。風花が舞う寂しい日であったが、法然忌に相応しい日であったと思う。

 法然上人が母親と別れて比叡山に入って半世紀以上、一度も再開することはなかった。

 激しい母親への憧れが、純粋な専修念仏の探求の道に昇華されていったのだと思う。

 その様な菩提心については、江戸時代の説教浄瑠璃に幾つも描かれており、そこには、法然の生身の人間性が感じられるのは、どうゆう訳か。

○法然忌嗚呼垂乳根の観世音
○風花と舞い舞い踊る供養仏

『正岡子規 言葉と生きる』2011/01/25 23:05

 稔典先生の『正岡子規 言葉と生きる』である。

 稔典先生には、佛大の大学院のゼミ授業で正岡子規の主要な散文については、習う機会を経た。

 特に『病床六尺』や『仰臥慢録』等の作品を分担して読んでいったと思う。

 俳句については、殆ど、その表現については習わなかったのか記憶にない。

 僕は、稔典先生に「俳句って何が面白いのか僕には判りません。」と面と向かって言ってしまった人間である。

 でも、実は、関大時代から子規句集は読んでいたし、漱石書簡集にも子規のことは出てきていた。

 でも、僕の興味は、尾崎放哉であった。

 何故ならば、小豆島で絵描きの祖父の元に預けれており、小豆島霊場第五十八番札所西光寺奥の院南郷庵等の旧跡を祖父と一緒に訪問して、祖父がスケッチしているのを横でみていたからだ。


 「俳句とは、偏屈なもんやが、それ以上に偏屈なのが、放哉や。」と言っていたし、よく小豆島のアトリエを訪れた竹中郁も同様のことを口にしていた。

 僕が最初に俳句を詠んだのは10歳の時であるが、「祖父が俳句みたいなくだらんものは止めとけ。もっと子供らしい詩を習え。」と竹中さんの児童詩というのをやらされて、子供の目とかそういった本に当時の僕の詩等が載っているが、本人は、全然面白くなかった。朝日新聞にも僕の詩が載ったことがあるが、恥ずかしいだけだった。

 児童詩らしい直接性を装った白々しい表現に吐き気を催した。
 小豆島では、俳句とか詩よりも、昔の「蛸壺」とか漁師が海から引き上げた古い沈没船の陶片等に興味を示している年寄り臭い子供だった。

☆☆☆
 ところで、正岡子規の「写生」という考え方については、稔典先生は、他の俳句の師匠様達に比べて、距離を置いてみられていると思う。関大では、乾裕之先生や谷澤先生に芭蕉の連句を学んだが、やはり、同様に彼らの発句も、対象から距離を置いてみられている。

 芭蕉の俳句には、「客観写生」はみられないのだろうか。

 例えば、子規句集(高浜虚子 岩波文庫)の巻末に稔典先生は、解説を書かれている。

 その中で、虚子は、「明治の俳句は、月並みの中から芽生えて、新しき客観写生の境地を招き来たった。」と述べていることを引用されているが、虚子がいう「客観写生」と子規の「獺祭書屋俳句帖抄」で述べている「写生的妙味」が判ったと言っていることと同じ次元で捉えるべきか否かについては、結論を出されていない。

 子規句集の明治二十二~二十三年までの俳句と、「写生的妙味」が判ったとしている明治二十七年以降の俳句とどう違うかと言う点で、たしかに僕の印象でも、初期の俳句は、「言葉の妙味」に重きを置いていることが判る。そうして、声を出して読んでみると判る様に、スピードが遅く停滞的である。明治28年以降の俳句は、たしかにその点で、「視覚的表現」、「焦点の明確化」、「直接的印象表現」の点で凝縮が進んでおり、スピーディであり、一種の緊迫感がある。これが、「写生的妙味」なんだろうか。

 稔典先生は、子規の初期俳句について、「言葉遊びに富む回覧雑誌の編集や漢詩の創作に熱中した時期を持つ子規には、俳句においても、一種の言葉遊びを楽しむ面があった。」と述べている。

 そうして、この「言葉遊びと創造の密着」が子規の初期の俳句の原点だとしている。虚子は、この「言葉遊び」を排除したのが、「客観写生」であったとしているが、果たして、子規本人は、どの様に考えていたのだろうか。

 斎藤茂吉は、虚子とは違う子規の「写生」についての見方を持っていた。それが、「端的単心の趣き」であり、これは、「客観写生」とは違う。むしろ、「素直な遊びの精神と創造が密着した境地」であり、虚子が認めたがらなかった点を評価されている。

 稔典先生も実は、茂吉の見方に近いと思う。「F君、俳句なんて、写生、写生と言っても、そのまま直接的な感動とか印象によって俳句を作ろうとしても、それは、絶対無理だよ。」っと言われたことを記憶している。むしろ、対象から距離を於いた遊びの精神である。

 さて、今回の『正岡子規 言葉と生きる』であるが、どの様な見解が述べられているだろうか。「言葉」の捉え方と子規の生き様の関係について、新しい見解が示されていると思い、これから楽しみに読み始めるとしようか。

もう150冊は、同じ人から買い続けている。2011/01/24 23:10

ビッグイシュー第9号からずっと同じ人から買い続けている。

よく頑張って販売しているものと思う。現在159号なので、もう150冊は、同じ人から買い続けている。

最近は、堂島地下街までなかなか行かないので、3冊一度とか買ったりする。買った時に、販売しているオジサンが凄く嬉しそうな顔をするので良い。

最近は、物を買っても社員とかアルバイトの人が多いので、こんなに嬉しそうな顔をする人は少ない。

そういった売る人と買う人の関係って良いと思う。

最近、読んだ中で印象に残っているのは、やはり、ダライ・ラマ14世の記事で、中共にチベットが占領されて、逃げる時の様子とかいろいろ書かれている。

中国の人も全てが悪い筈ではないのだけれど、国家とか政党とか資本家とか企業とかそういったものが駄目なんだと思う。

民主党内閣も早く解散して、国民総背番号制とか、消費税増税とかTPPとか、みんな止めて欲しい。

チベットの人達と虐める中共と日本人・国民を虐める民主党とそんなに変わりはないと思う。

「原典」とはなんぞや2011/01/20 00:20

 『アマテラス』(斎藤英喜著、学研新書)

 どこかのブログで喧伝しているので、買いました。ちらちらめくってみると、事前のイメージ通りの内容の様な感じ。

 神話学の人が、記紀や、中世日本紀、神仏習合を論じたら、こんな風になるというのは、なんとなく判るが、国文畑からみたら、やはり、抵抗があるし、学問というよりも、「学問小説風」である。

 つまり、学術資料をもとに壮大なストーリーを作り上げている。論文とも違うかも。

 一応、原典資料とやらが引かれているが、『古事記』新潮日本古典集成 新潮社とあるが、これは、原典というよりも注釈書であり、しかも、原文ではなくて、読み下し文なので、こうしたものは、原典と言ったら、僕の学部生時代だったら、「ゲンコツ」だった。

 やっぱり、古事記だったら、何本を参照したのか、この愚かな僕でさえも、真福寺本の影印で読んでいるのに、どんなものか。

 古事記の神々が当時、どの様に発音されていたのか、それは、こういった原典を読めば、一部に訓点の痕跡もみられるし、同じアマテラスでも読み分けられてことが判る。こうしたことは、本物の「原典」をみなければ、判らない。

 二次資料を孫引きしても怒られない佛大の学風というのは、たしかに自由で好いので、空想作品も生まれやすいが、学術的信憑性という点でどうだか。

 関大は、この逆で、こうしたことを許されない「お堅い学風」なので、「創造的な研究」というのは、関大オリジナルでは生まれなかった。

 私の師の清水好子先生は、関西大学に骨を埋められたが、もし、京都大学の教授であられたら、あるいは、間違って佛大の先生になられていたら、斉藤先生の様に、凄くユニークで面白い研究が幾つも生まれたかも。

 いずれにしても、この本の参考文献の項目をみただけで、「昭和は遠くなりにけり。」で、関大の恩師の木下先生や、神堀先生のお姿が好くも悪しくも忍ばれる。

 こうしたケチをつけたが、内容は、面白く、一昨年に籠神社での斉藤先生の講演を拝聴した内容、中世のアマテラスと元伊勢との関係についての考察にまで発展をみせている部分に研究の進歩の片鱗をうかがうことが出来る。

佛教大学四条センターの黒田先生の講演を拝聴2011/01/15 16:36

 昨日の佛教大学の四条センターでの黒田彰先生の講演を拝聴させていただいた。
 孝子伝図の世界 ―舜の物語攷(二)―
http://www.bukkyo-u.ac.jp/BUSEC/lecture/course/now/kyouyou_bungaku/p28-2.html
 教室は、生徒さんが少なかったので、「少人数授業」で、会議室を使用するという贅沢なもの。
 今回は、舜の物語攷の3回目ということで、
 ①『お伽草子二十四孝』
 ②『太平記32天竺震旦物語事』
 ③『全相二十四孝詩選』
 ④『史記五帝本紀』
 ⑤『列女伝』
 ⑥『孝子伝 陽明本・船橋本』
 ⑦『舜子変』敦煌発掘文書P272、S4654冒頭部
 ⑧『普通唱道集下本孝父篇重花稟位』
 ⑨『纂図附音本注千字文23・24「推位譲国、有虞陶唐注』
 ⑩『三教指帰成安注』
 他数点の文献資料に加えて、『寧夏国原北魏墓漆棺画』、『後漢武氏祠画象石』等の図像資料等々、膨大な資料群を読み解きながら、
 
 い 焚蔵
 ろ 掩井
 は 歴山耕作
 に 易米、開眼
 ほ 堯二女娶
 へ 譲帝位
 ◎ 降銀銭五百文
 以上の7プロットについて、それぞれの資料から抽出し、分析を行った。

 先行研究には、
 増田励氏「虞舜至考説話の伝承 太平記を中心に」があり、増田氏が問題としている『普通唱道集』、『重花稟位』の共通点を指摘しながらも、我が国に伝来している最古の『孝子伝』の陽明、船橋の両本には、◎降銀銭五百文のプロットが抜けていることを指摘し、それは、元々テキストに存在していない要素であり、後から他資料から附記された為であると考察された。
 黒田先生は、これに反論し、◎降銀銭五百文のプロットは、もともと別系統の資料に存在していたものが、陽明・船橋本孝子伝とは、別のルートで伝来したと考えられている。
 舜説話の伝来のルートとしては、次の通り考察されている。
     →伝本 →   →孝子伝
 原話           →変本→唱道→民間説話
     →民間口承伝承
 つまり、◎降銀銭五百文のプロットについては、口承伝承系のテキストが西域を中心に流布した説話に起源があるとの説をおっしゃられた。

☆☆☆
 私が、この講演を聴いてもっとも興味を持ったプロットが、ろの掩井である。この部分に◎降銀銭五百文のプロットが変本に入り込んでいる。
 ペリエ本の敦煌文書舜子変には、
 「舜井を浚を聞いて、心裏(裏にある企み)之を知る。すなわち、衣裳を脱ぎて、井縁に跪拝して、井に入り、泥を浚う。上界の帝釈天は、(これをみて)密かに銀銭五百文を井中に入れる。舜子すなわち、泥罇の中に銭を置きて、令して後、母引き出す。数度、上の阿嬢に向いて乞う。『井中の水は満ち銭も尽きたり我を出でさせて、飯盤食させるは、阿嬢の徳に能わざるや。』後母、これを聞いて、瞽叟を欺いて曰く....」とある。
 孝子伝には、「或いは、深井を掘りて出さしむ。舜、その心を知りて、先ず傍らに穴を掘りて、之を隣家に通ず」とある。孝子伝には、「銀銭五百文」の部分は見あたらない。
 訓読が大変なので、省略したが、変文では、この後、瞽叟は、後妻にだまされて、石を持って穴を塞いで、舜を殺そうとする。そこで、帝釈天は、黄竜に姿を変えて、舜を引っ張って、東の家の井戸に穴を通じて出してやると、さすが、仏教の布教・啓蒙を旨としているだけあって、帝釈天が活躍する仕組みとなっている。

 この様な違いをどう考えるかというのが、増田論文の出発点であるが、舜に関する説話・孝子伝のルーツは、遙か後漢の時代、つまり、仏教が伝わる遙か以前から行われていたと考えると、もともとは無かったと考えざるを得ないと思う。つまり、この変文は、舜の伝記であると同時に帝釈天への賛歌になっている点が、原話を変質させていると考えるのである。
 「掩井」のプロットは、かなり原話に遡る古い時代から行われて、私の考えては、多分に、説話の西域性を示していると考える。
 その根拠として、井戸を掘り下げて、地下水路を通して、隣の井戸に連結させるということは、水分の蒸散を防ぐ為に西域を中心にカナートと呼ばれている。(図参照)
 

 この井戸は、イランやペルシア起源があると考えられているが、後漢の時代、つまり起源3世紀頃までには、中国の甘粛省等の地域に伝来している。
 その井戸の名前が、カンアルジン(かんじせい/坎児井/KanErJing)と呼ばれており、その意味は、「児を埋めた井戸」すなわち、舜の「掩井」のプロットそのものを示しているのである。
 黒田先生は、この説話の「入遊歴山」という語句に注目されて、実際に、歴山の舜井や竜泉を訪ねられているが、私の解釈としては、舜の説話が誕生してからかなり後の時代に成立した遺跡であり、年代考証が合わないのではないかと考えるものである。