インドの佛教大学建設計画2010/09/25 09:33

インドの佛教大学建設計画
http://www.asahi.com/international/update/0924/TKY201009240009.html

 ナーランダーは、釈迦が悟りを開いた後、初めて説法を開始した土地である。

 ナーランダーには、紀元427年に建設された世界最古の大学、ナーランダー大学が存在していた。そこには、1万人の学僧、1500人の師僧がいた。キャンパスは広大で、高い塀に囲まれており、図書館は、9階建ての建物で、様々な科目の授業が行われた。

 あの「空思想」の龍樹もこの大学で、講義が行われたとされているが、龍樹の生年は、150年、没年は250年頃で、大学が出来た時代グプタ朝の時代西暦427年以降と年代が合わない。

 645年に玄奘三蔵が657部に及ぶ量部経典を中国に持ち帰った。

 こんな仏教史の中では、聖地と見なされる土地に21世紀になって、人文系の総合大学が建設される計画。但し、授業に使用される経典は、漢訳仏典が中心で、初期バーリー語やサンスクリット経典について、どれ位のレベルで学ぶことが出来るのかや、仏教文化、説話や芸術に関連する科目が開講されるのか等が、興味あるところ。

 将来には、佛教大学を卒業した人が、ナーランダーの大学院で、博士号の学位を習得して、佛大、あるいは、他の大学で教鞭をとられる日もあるかもしれない。

やったー首位です。2010/07/27 23:16

やったー首位です。

みんなで食べて優勝祈願だ。

ガリレオの指は、「空」を指しているのだと理解した2009/03/22 22:13

『ガリレオの指』(ピーター・アトキンス,2008,第8版,早川書房)
http://fry.asablo.jp/blog/2009/01/26/4082496

もう読み始めて4ヶ月近く経過するが、ようやくエネルギーの章まで読み終えた。この本を理解するには、量子力学から時空論まで読み進まなければ、全体を理解したとは言えないだろう。

結局、20世紀科学史の概論書というか、そうした概論を読んでいくことで、「科学とは一体なんだろう。どんな方向を目指しているんだろう。」と長いガリレオの骸骨の指に象徴される科学の意義というか哲学論である。

こんな本が、横書きではなくて縦書きで訳本なので、非常に判りにくく理解しがたい。独自の観点から20世紀科学をみているのでもなくて、研究史の羅列である。

私には、少し、この本は難し過ぎる。でも理系の人でもこんな本よりも数式や図式を判りやすく解説してあれば、それで良いだろう。

DNAの構造をX線撮影で映し出した女性の研究者が不幸にも子宮癌で39歳で死亡したとか、理論の上では、どうでもよい(こちらの方が私は興味を持ってしまう)こと等も書かれており、また、ケンブリッジ大学でのアカハラやセクハラ等も科学の研究からみれば関係ないだろう。

しかし、実際に人のゲノムが解読されたと言っても、それは、最大公約数的な塩基構造が解明されたということで、それが、果たしてどの様に作用しているのか。また、この複雑な螺旋構造自体がなにを意味しているのか。

人間よりももっと下等な生物の方が、塩基配列が長大で複雑な構造を持っているものが存在するのは、なんでだろうか。

結局、DNAは、何故、あるのか、そういった疑問に対して科学は答えを出していない。これは、ガリレオの時代と変わらない訳だ。

アリストテレスの言う「科学的現象」とは、理論で説明が出来ることが前提であった。しかし、ガリレオは、「理論で説明がつかないことの理由を見つけ出すには、どの様なテクニックが必要であるのか。」といった方向を指差している。

つまり、科学は、真理の解明そのものではない。科学は、真理を知ろうとする我々にその方法手段を提供してくれるだけであり、真理を覚るのは、私たち個々の「知性・フォース」である。

 著者は、以下の様なことばでこの本の最後を締めくくっている。

「宇宙は、そして、そこに含まれるものは全て、数学にほかならず、物理的な実在が数学が荘厳なまでに形をとった姿なのだ。この様な考え方は、超ネオ・プラトン主義とでも呼ぶべき極端なプラトン主義で、(別のところで)私は、「深層構造主義」と名づけている。我々に実体をもって見えるもの--土、空気、火、水--は、結局、算術にすぎないのだ。もしそのとおりなら、ゲーデルの定理は、宇宙全体に当てはまるといっても良い。宇宙が真に自己矛盾していないかどうかは、知りようがないのである。宇宙が自己矛盾しているとすれば、未来のある時点で突然終わりを迎えるだろう。矛盾が疫病のように宇宙の構造全体に広がっていくにつれ、論理が混乱をきたし、構造は錆びた鉄のごとく失われる。
 存在するすべてのものは、来し方、つまり、あの、まったくの無という圧倒的な威力をもつ概念である空集合へ戻るのだ。

 われわれは、その無の威力の恩恵にあずかっている。この見方がいくらかでも妥当なら、我々を取り巻く一切合切は、無から生まれ、われわれの感覚を通して現れることになる。そしてガリレオのビジョンを受け継ぎ、彼の指がたどった先にある「科学」によって研ぎ澄まされた知性のおかげで、その感覚の喜びは深まるのである。これほど心動かされ、これ程、素晴らしいことを私は他に思いつかない。」

 科学や数学が、それぞれ発見されたエントロピーの存在意義を説明出来ないのならば、それを知ることが出来るのか、否かは、私の様な凡人は無論、例えば、死の間際にダビンチがあの手帳や紙切れの断片に書きまくり続けた大津波の絵が何を意味するのか、あるいは、アルムニアムンディの理想を音楽世界に求め続けたアルキメデスからバッハに至るまでの音楽史の流れ、最後にフーガを書きかけで投げ出した巨匠の死に顔、全てが重なってくるのである。

 結局、一切は空なのだ。

内的時間意識の現象学2009/01/21 22:30

 『シリーズ・哲学のエッセンス フッサール 心は世界にどうつながっているのか』(門脇俊介,2008,NHK出版)

 定価1000円(税別)という安い本であり、薄い本でもある。既に第3刷と良く売れているらしい。大学かなんかのテキストにでも使用されているのだろうか。

 この本の特色は、フッサールの原著からの引用が翻訳にせよ一切されていない点であり、ユニークである。著者の門脇氏は、東京大学文学部哲学科から同大の博士課程を出て、同大学の教養学部の教授をされている。正に、エリートである。

 頭が非常に良い著者である。フッサールの難解な理論を完全に消化しきって、それの必要最小限のエッセンスの部分を再構成して、この本で提供してくれている。

 居酒屋を出てから紀伊国屋で立ち読み後、買い求めて、阪急電車を降りる頃には、読了していた。

 フッサールは、「現象学」の創始者である。つまり、デカルト以来、客観的事実・絶対的真理とされていた存在の実証的認識は、単に現象に過ぎないと言い切った人である。

 仮説の過程を経て、実証され、追試、再現されて、真理として認められているあらゆる理論が実は、刹那刹那の現象の説明に過ぎない。

 結局、ここの知覚・認識を経て心的世界に現実として投影されている現象に過ぎないとしている。

 人は、「クオリア」(感覚質)を経て、現象を「意識」として認識する。その様な認識の積み重ねで、「心の志向性システム」を作り上げる。

 「心の志向性システム」に適った適った現象が合理的であり、真理であると錯覚しているだけである。

 さて、「クオリア」では、現象の存在における基本的要素である「時間」をどの様に認識しているのだろうか。それは、「内的時間意識の現象」として認識される。

 アリストテレスの哲学における現象の認識は、静止した時間として捉えられがちであったが、中世のキリスト教哲学者アウグスチヌスは、①「想起された現在」、②「現在の直観」、③「予期された現在」として、意識時間の創始者である。これは、あたかも部派仏教がアビダルマとして体系づけられたことに比肩している。

 フッサールは、実は、意識は、こうした様に断片化された時間の中に存在するのではなくて、連続性・流動性を持って存在していると考えた。全ての客観的真理されていることがらは、全て、流動性を持っており、常に変化し続けている「心の志向性システム」の一部であるに過ぎないのである。この考え方は、ある意味詭弁の様に受け取られがちであるが、仏教の中観思想に通じるところがある。

 しかし、客観的真理が存在しないのならば、どうして私たちは、認識を共有・意思疎通が出来るのだろうか。

 それは、言語表現(表象性)によるものである。しかし、言語には、位相があり、恣意的な性質を持っている。つまり、私たちが共通して認識している現象は、決して、同じ現象として認識されているのではない。それでも心的な現実世界の共有が出来るのは、行動の中に「言語行為の志向性」と「知覚的志向性」が包含されており、それらの方向性が共通であるから。

 フッサールは、表象性が一定の志向性を持っている状況をノエマ、ノエシスとなずけている。このノエマ、ノエシスは、質的な段階を持っている。最も高次なのが、「純粋ノエシス」(純粋意識の方向性)であり、これが全ての表象性の根底に存在している。

 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。この位相とは、「自我」、「他我」の区別に拠る認識の相違である。しかし、デカルトの「純粋理性」とは、異なり、純粋ノエシスでさえ、普遍の真理ではないのである.....

 この本の惹句にある様に、「世界が私に現れ出るという謎」という言葉で仏教思想を学ばれた方は気づかれるかも知れないが、これは、「本覚」という考え方に近い。認識→心→純粋ノエシスの先にあるもの、それは、「世界」そのものなのである。

 つまり、現象の世界では、様々な位相によって客観・不変の真理が存在しない様に見えても、私たち全ての存在の中で、純粋ノエシスによって位置づけられ、心の中で、共有された世界は、一つの純粋な存在に収斂されるのである。

 それは、「仏性」に相通じるものがある。菩薩の修行を経て如来となった修行者には、「自我」も「他我」ももはや存在せず、あらゆる位相はなくなり、純粋な光の塊の中に不変の存在となり得るのだと思う。

 私達を導く純粋ノエシスは言い換えれば、アラヤ識の様なものかも知れない。

 フッサールが、「内的時間意識の現象学」を出版したのは、1928年である。中観理論の時代とは、1千年以上も隔絶しているが、仏教が、西洋哲学に比べてずっと進んでいるとは言えないが、人間の思惟にとっては、10世紀の時間の隔たり等は、一瞬に過ぎないのだと思う。

各各に隔てありと雖も相い由りて成立し、融通無礙にして、同じて1念と成す2008/12/24 09:28

 昨日の全日本大学女子選抜駅伝をTV観戦していて、佛大の西原選手が区間賞をとる様な速さで突進ながら、立命館大学のアンカーにどうしても追いつけず、3秒差を縮めることができない有様をみて、「ゼノンのパラドックス」(アキレスと亀の寓話)を思いだしてしまった。

 西原選手の方が明らかに走行速度が速いのに、2人の間は、縮まらない。つまり、西原選手が立命館1回生の沼田選手に、肉薄しても決して追いつくことはなかった。

 ゼノンのパラドックスは、「運動は存在しない。なぜなら始点から終点までの移動は、終点に達する前に両者の中間、すなわち中点に達しなければならない。この中点に達するためには、この中点と始点との中点に達しなければならない。以下同様である。ところが、あるものが有限の時間にひとつひとつ無限のものに触れることは不可能である。ゆえに運動は存在しない。」
http://www6.plala.or.jp/swansong/007400taikakusen.html

飛んでいる矢は止まっている(wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

 「これは物体の運動に関するものである。矢が飛んでいる様子を考えよう。ある瞬間には、矢はある場所に位置している。僅かな時間だけに区切って見れば、矢はやはり少ししか移動しない。この時間をどんどん短くすれば、矢は動くだけの時間がないから、その瞬間だけは同じ場所に留まっているであろう。次の瞬間にも、同じ理由でやはりまた同じ場所に留まっているはずである。こうして矢は、どの瞬間にも同じ場所から動くことはできず、ずっと同じ場所に留まらなくてはならない。従って、飛んでいる矢は止まっている 。」

 こうして、ゼノンは、運動など存在しないということを立証することで「不動こそが、万物の根源である」ことを示そうとした。そして、無限を克服しなくてはならないということを運動を不可能とする根拠とした。

 この考え方は、実は、説一切有部のアビダルマと同じ考え方。
 今、私たちが見ている「現象」は、実は目に見えない無限の停止性を持つ画面・場面の点滅であると考えようとした。
 つまり、連続して認識される運動を人は現象として捉えきれないのである。

 こうした考え方を龍樹は、「中論」で否定した。つまり、時間そのものが「空性」である為に、そもそも停止や運動の絶対的な「実性」は、存在しないというのである。

 つまり、西原選手が沼田選手をみたら、近づくどころか、こんなに走っても近づけないのだから、どんどん離れていく様にも錯覚出来るし、逆に沼田選手は、実際には距離は縮まっていないのにどんどん肉薄してきている様に感じただろう。(実際に沼田選手はその様にインタビューで話していた。)

 相対的現象は存在しても絶対的な現象は存在しない。

 僅か3秒の時間差、これも時間スケールの見方を変えれば、既に追いついているというか同地点にいるとも見ることができるし、2人の距離は、数千キロにも匹敵するとみることが出来る。これが仏教的な距離感であると思う。

 果たして、絶対的な時間というものが存在するのか、龍樹の理論を発展させて考えると、現象として認識される「絶対的な時間等は存在しない。」ということになる。
 だから、アビダルマの中の狭義の「縁起」は「空性」である。

 何故ならば、縁起は、時間的な前後関係によって「現象」が生起することを示そうとしたからである。
 
 大乗思想の時空論は、現象としての時空認識を越えている。しかし、その宇宙観を見ていると、理論・思想的に完全に克服出来ているとは言えない。

 それにしても西原選手と沼田選手にとっての「3秒」の時間は、これからの何十年という1生(世)、あるいは輪廻転生の数世の「時間展開」の中で、大きな意味を持ち続けるのである。

 まさに、中国華厳宗の賢首大師法蔵の著作、『華厳五教章』に、表題の通り、記載されているのである。

ダライ・ラマの宇宙論と(蓮華)化生のつながり2008/04/16 23:48

 今週の日曜日に仏教美術史のテキスト履修の最終試験がある。
 安藤佳香先生は、蓮華化生という、先生に出逢うまでは、殆ど馴染みがない言葉を使われたので、非常に新鮮であった。
 「化生」という概念は、例えば、霊木化現仏という言葉があるが、この「化現」とはどうことなるのか等も気になる。
 レポートには、インド神話のビシュヌ神がブラフマーと産む際に臍から茎が伸びて、そこから蓮華が開花し、その上にブラフマーが産まれたという事になっている。
 こうしたことから見れば、ビシュヌ神は、宇宙の外にいる事になる、ブラフマーは創造神であり、宇宙そのものを創造された。
 先日、紹介したダライ・ラマ『科学への旅』では、宇宙論が紹介されているが、宇宙そのものが、生命の総体であるとの概念があり、つまり、地球やその他の天体を形作っている物質も、私たちの身体も同じ根源から出来ているという概念である。
 アビダルマの「四生」説を引かれ、1、胎生(母胎から産まれる。2、卵生(卵から産まれる。)3、熱と湿り気が産まれる。(虫等のことか)、4,忽然と産まれる(化生)という事になり、化生の概念も四生説に挙げられている。
 チャーンドラキルティは、「感覚ある生の世界は心から生じる。」
 と定義しているが、これは、心→意図→行為→発生という業(カルマ)に属している。
 チャーンドラキルティは、龍樹中論の後継者とされているが、「空」については、4つの位相が存在するとしている。
①形あるものは空である。それは、現象世界が空であるという考え方
②空は実に形あるものである。
③形あるものは、空以外のものではない。
④空は形あるもの以外ではない。
 結局、「空」は、私たちが意識している現象の中に存在し、様々な実体に変化をするという事になる。つまり、実体はあるが、形はないという状態が「空」という事になる。
 実体が現象として意識されるのが宇宙であり、生命である。
 空論に至れば、アビダルマの四生は生命の誕生のみにとらわれる事なく、あらゆる事情に当て嵌まる事である。つまり、1~3迄は、何らかの前段階の変化過程を経て、実体が現象として意識される存在となるが、4は、その前段階を経ずにそのまま実体化するという事になる。
 インド神話では、ブラフマーが蓮華の花の上に誕生したが、その根源を遡ろうと茎の中に入ってみたが、何も判らなかったという話もある。
 つまり、実体が無い段階では、意識できないので、そうなってしまうのである。
 実体はないが、心意を受けて、ある一定の方向のエネルギーの段階(宇宙の生命エネルギー総体)というべきものを経て、命・霊現あるものと認識される実体を表すというのが、発生の過程である。
 そうなれば、蓮華化生も蓮華は、単なるエネルギーの変換器に過ぎない。
 霊木化現仏は、心意(霊木についている神威)を受けて、樹木の過程を経て、仏として誕生するという事になり、4生説で忽然と姿を現すというには、少し異なるが、プロセス自体には、大きな違いはない。
 安藤先生のグプタ朝唐草に見られるエネルギーの奔流は一定の渦巻き状のベクトルを経て収斂し、実体化するもので、これは、(宇宙の生命エネルギーの総体が一つの方向に動き始めた段階)を示している。
 写真の真ん中は、安藤先生のグプタ朝唐草の東伝から拝借したものであるが、ダライ・ラマやチャーンドラキルティの考えによれば、右側の宇宙の生成のエネルギーの流れも見ようによっては、位相は同じであるという事になる。
 仏像の姿も化生理論で見れば、エネルギーが一時的にその様な姿に変換、化現しているという見方になるのだろう。
 そして、生命も宇宙も全て、1つの源につながっている。そう、あのビシュヌ神から発生された心意である。

『ダライ・ラマ 科学への旅』(ダライ・ラマ著 伊藤 真訳,2007,サンガ)2008/04/16 00:08

『ダライ・ラマ 科学への旅』(ダライ・ラマ著 伊藤 真訳,2007,サンガ)

 別の話題のダライ・ラマだからこの本を取りあげたのではない。
 翻訳者の伊藤真氏は、1965年東京生まれで京都大学文学部を卒業後、佛教大学文学部及び佛教大学文学部大学院修士課程修了(仏教学専攻)と後書きにある。
 この本にどの様な事が書かれているのか、各章毎の註の項目を抜き出してみよう。
序章
○素粒子物理学、○相対性理論、○量子力学、○量子物理学」
 最初から、こんな理論物理学の用語が出てくるなんてとお思いだが、「仏教は現象科学である。」というのがダライ・ラマの考え方なのだから仕方がない。私も常日頃から仏教は科学だと思っており、その様なことをブログにもいろいろ書いているが、著者と私の考え方は最初から共通している。
 仏教も科学も精神現象を扱うが、科学には、その様な必ずしも唯物とは言えない分野、むしろ意識(狭義の意味)に近い分野を扱うこともあれば、マテリアルそのものを扱う分野もある。ところが、物質現象の研究も突き詰めていけば、量子物理学等の段階になれば、不思議と唯物と唯識の境界線が見えてくる訳である。だから、ダライ・ラマは、むしろ、現代科学に最も近いところにいるという事になる。
第1章
 ○経験主義・経験論、○唯物主義・唯物論
 チベット仏教の指導者、ダライ・ラマがずっと考え続けて来たこと、それは、極めて現実的かつ抽象的なことがらだった。この項目では、科学的唯物主義の問題点が指摘されている。芸術や倫理等についても、脳内で精神活動のつかさどる物質の化学反応で説明出来るのかという点である。一方、宗教的な象徴や抽象的な価値以外を認めない態度もこれとは両極にあり、どちらも視野が狭いということになる。仏教の持つ世界観は、この両者を全て包含していなければならないということを彼は、ずっと考えていたのである。
(私の疑問)経験は、現象を体験することだろう。でも、現象とはいったい何者なんだろう。フッサール(現象論の著者)もこの本に取りあげられており、なるほどと言う点もあるが、明確な結論は出されていない。
第2章
 ○ボードガヤー、○ナーランダー寺院、○アルバート・アインシュタイン、○ナーガールジュナ(龍樹)、○アサンガ(無著むちゃく)、○ヴァスバンドウ(世親)、○シャーンティデーーヴァ(寂天)、○ダールマキルティ(法称)、○ヴェルナー・ハイゼルベルク、ディクナーガー(陣那)、○ジッドゥ・クリシュナムルティ、○ツォンカバ
 まるで「仏教学史」のテキストみたいなものだ。しかし、ダライ・ラマの全て体験談として書かれているのでたいしたものだ。ネールの『親が子に語る世界歴史』みたいなところもある。
 この章はダライ・ラマの「学習の記録」である。幼い時から英才教育を受けた。特に仏教哲学や仏教思想の教育を受けたが、ポタラ宮には、天体望遠鏡や自動車、時計、もろもろの少年の好奇心を刺激する科学機械類が沢山あり、それらもダライ・ラマの思想形成に関与している。
 経典・経験・儀式が中心の仏教も、これらの科学機器が同じ世界に存在している。科学は合理だが、ブッダの教えも科学的合理に通じるものがある。仏教がサイエンスであることは、ダライ・ラマは、自らの少年時の経験を観照的な考察によって純化し、一つの理論を導いた。結局、仏教は、そもそもは経験的考察に基づくものであることを覚られた。アビダルマ(大毘婆沙論)から龍樹『根本中頌』への道筋がつながっていったのである。これらの仏教科学の理論とワイツゼッカー等20世紀を代表する物理学者と直に対話すること、西洋科学の経験主義と5世紀の仏教科学者ディクナーガー7世紀ノダールマクルティの理論が比較検討されていった。特に推論の方法、演繹法では、仏教と西洋科学は共通している点もあるが、違っている点もある。 西洋科学は、20世紀初頭に起きたパラダイムシフトを契機に、客観的な唯物主義では、とても把握出来ない複雑な現象の解明に向いていった。
 (私の疑問)説一切有部は、現象を因果関係によって説明しようとした。しかし、現象そのものが変化(つまりパラダイムシフト)し続けているので、その回答自体が無意味なものであった。『根本中頌』では、その様な変化自体も普遍化しようとしたが、果たして成功したのだろうか。
第3章
 ○ヴァイバーシカ(説一切有部)、○ダルマシュリー(法勝)、○アーネストラザフォード、○サウトラーンティカ(経量部)、○プラーサンギカ(帰謬論証派)、○カマラーシーラ(蓮華戒)、○チャンドラキールティ(月称)
 この章では、20世紀の物理科学、量子物理学の大系を打ち立てる過程が、7世紀の説一切有部理論を脱却して、帰謬論証派を経て、チャンドラキールティ『プラサンナパター』の段階に到達し得た事実と比較している。
 ダライ・ラマの少年から青年時代は、こうした理論物理学の革命的な出来事を直に体験出来る時代であった。
 仏教を現象科学(サイエンス)としてみた場合との比較・検証が行われている。
 こうして仏教の空理論によって到達し得た客観的実在概念と、相対性理論との共通性は、結局、ヴァイバーシカ原子理論と相まって量子物理学との関係性まで類似している点に気づかせられる訳である。
 (私の疑問 『プラサンナパター』では、果たして、現象を越えた普遍的理論が確立されているのだろうか。)
第4章
 ○ビッグバン、○ブラフマン神、○アビダルマ、○ヴァジュラヤーナ、○カーラチャクラ(時輪)、○量子的真空、○華厳経、○有情のもの(あらゆる生命)
 この章では、量子物理学が到達した宇宙観とヒンドゥーや仏教の宇宙観、そして、生命観を比較している。
 非常に面白いのは、前項のパラダイムシフトで、パラダイムシフトというのは、結局、縁起・因果関係によって引き起こされる現象に過ぎないことが指摘されたが、ビッグバンについてもパラダイムシフトと同様に、何らかの因果であるという見方をされている点である。
 宇宙の起源については、そもそも縁起理論では説明が難しい。縁起理論では、現象の内側のことしか判らないので、その現象がどの様なことが原因で引き起こされ、どの様に変化しようとしているのかを論理的に説明することは不可能である。
 釈迦が回答していない十の質問やチベットの十四無記を挙げている。
 仏教の宇宙論には、アビダルマ的宇宙論があり、それは、世親の倶舎論である。(東大寺大仏殿の大仏の蓮華座に描かれている三千世界の線刻画) アビダルマの宇宙観は、宇宙が段階的構造を持っていると考えている。アサンガ(無著)は、この宇宙の起源を縁起によって説明しようとしたが、成功しなかった。 カーラチャクラの説では、宇宙は、「空」から始まったとしている。つまり、宇宙自体の存在は、現象に過ぎない。空理論では、現象に始めも終わりもないから、起源等説明しようがない。 ビッグバンがはじめなのか、終わりなのかも判らないが、それを契機に「現象」として光、そして、物質が誕生し、それらは生命・有情のものの誕生につながっていく。
(私の疑問 時間は車輪の様に回り続けるのか、始めがあるのか、終わりがあるのか、時間の概念さえも現象であれば、一体、宇宙自体の存在も「空」であれば、有情のものさえも「空」であることになる。それでは、仏性自体も存在し得ないことになってしまう。)
 この後、第5~第9章を経て、終章に至るが、それは、仏教的生命理論とDNA理論、生命とは何かの定義、進化論等を経て、結局、生命は「識」の世界に集約される。 結局、精神と物質的存在の2つの共存を図ることは、人類の未来につながる。科学は、物質的利益を得る為だけのものではなくて、こうした共存の方向性を探る事に意義があるという。
 この本を読んで驚かされたのは、ダライ・ラマの視野の広さである。そして、理論そのものよりもその理論がどの様な現象を産み出し、その現象がどの様な形で伝播し、世界を造り上げているのか常に合理的に考えている点である。そこには、政治主義・主張の押しつけ、不合理な点は、ひとかけらも見当たらない。

大乗起信論と存在と時間の関係2008/02/20 01:03

『大乗起信論』(宇井伯寿・高橋直道訳注岩波文庫)

 2007年の11月に第8刷が発行された。1994年に新しい版が起こされ、訳注や解説も新版に改められた。
 非常に良く読まれているという事なのか。
 馬鳴菩薩造(めみょうぼさつつくる)、真諦三蔵訳(しんだいさんぞうやく)
 この書物は、中国で撰述されたか否かも判っていないし、成立年代も不明。一番問題になっているのは、龍樹よりも後か先かという事。
 これは、大きな問題であり、既存の「空理論」に唯識的な解釈を加えて、大乗理論を打ち立てているからである。
 「空論」と「唯識論」とは、対立した考え方であると解釈する先生も、我が佛教大学におられる。
 それは、「空論」と「唯識論」が同じ問題について論証していると仮定している為である。
 しかし、私は、前者は、存在論であり、後者は、現象論であり、実は、異なった要素から成り立つ問題を扱っている理論であると考える。
 「空論」は、教義理論に昇華された仏性自体をも「空」と論じており、全否定の論だとみられがちである。
 この為、敢えて逆説を呈して、従来理論を批判しているとか、現代の仏教学者でも様々な解釈が加えられている。
 例えば『空と無我』(定方晟 講談社現代新書)等がその例である。
 ここで取りあげる『大乗起信論』では、第1章の「顕示正義」でこの問題に決着をつけている。
 まず、唯識の基本には、心真如すなわち心の真実のあり方がある。
 「空」については、「如実空」(ありのままに空)とは、「この世の全ての現象は妄念に過ぎない。」として、「如実不空」(ありのままに不空)とは、心のあり方が、何者にも汚されていない無漏の状態を示すと定義づけている。
 すなわち、「空」の定義は、心理現象の範囲内に設定している。
 唯識とは、全ての世界は、識のみにあるという事で、心理現象の範囲内は、全世界の現象という事になる。
 つまり、「空」理論を現象理論として定義づける事で存在論との矛盾を止揚した訳だ。
 もし、「空」理論を存在論とすれば、この世のあらゆる存在が自体が空であると位置づけられるので、仏性をも否定されてしまうが、「如実空」では、あらゆるこの世の妄念から解脱し、覚りを得た存在(如来)は、存在論を超越していると位置づける新たな絶対肯定論にすり替える事に成功した。
 『大乗起信論』で言う妄念の最大の要因とは、「相」を持つ事である。
 「相」は、物事の変化と密接に関係している時間の流れをも含まれている。 
 如来蔵は、全ての分別・思唯を離れ、「相」を持たないエーテルの存在で全ての生命体が有しているものである。
 大乗の中心となる修行道、すなわち菩薩道とは、あらゆる実在と現象との関わりと打ち切って、生命の総体としての如来蔵に尽くす事であり、一切利他の教えである。
 手塚治虫の劇画『ブッダ』で、本来ならば信仰等をもたないウサギが、飢えた者のために自らを火の中に投ずる行為は、菩薩道の実践に他ならない。
 ウサギの自己犠牲の行為は、次の世の菩薩や如来の前世の姿を時空(相)の隔たりを越えて投影する事を可能にするのである。
 ここにブッダの本来の姿勢であった自我(アートマン)やバラモン的な輪廻の否定や、迷信から理論への脱却に成功した大きな理論的成果である説一切有部に見られた合理性は、全く、その姿を潜めてしまい、本来の仏教が目指したものとは全く異なる神秘宗教へと変質していくのである。
 ややこしい理論ばかりなので、これ以上の説明は控えるが、説一切有部→空論→唯識→大乗思想の流れを考える上で非常に参考になる読み物だと思う。
 この文庫本の構成も漢訳文・読み下し文、現代語訳、注釈、解説と全てが揃っていて、非常に読みやすいテキストだと思う。
 でも、せっかく仏教理論が現代科学にもつながる存在論を説一切有部で打ち立てていたが、現象と存在の関係について理論的な解明を捨ててしまったのは、非常に惜しかったと思う。
 西洋では、エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサールが、現象論を基礎に20世紀哲学の流れを打ち立てた。その後、マルティン・ハイデッガー
が、フッサールの現象論を踏まえて、『存在と時間』を現し、現象と存在との関係を時間という存在に注目して論考を行っている。
 説一切有部では、現象を考えるのに最も重要な要素であった時間論が、空論では、抽象化され、唯識論では、その形跡さえも失われてしまっていく課程を考えるとアビダルマから大乗仏教への道と20世紀哲学が歩んだ道とは、全く逆方向であった事は、興味深い。
 ヘーゲルは、西洋哲学と大乗仏教思想の歩んだ道のりの違いを認めながらも仏教が遙か昔にフッサールや自らと同じ課題、「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」と存在と時間が分けられない点と現象との関わりと矛盾について考えていた事に驚嘆したと言う。
 実は、私は、この書物と並行して『存在と時間』の読破に挑んでいるがこれは、大乗起信論よりもずっと難解な書物である。

空の思想史2008/01/15 23:56

 ホームレスのオジサンが配っている雑誌。『THE BIG ISSUE』は、実に高度な専門的な内容を持つ雑誌だ。これで売れるのか心配になる。
 やはり、その点が気になったと見えて、2号は、ずっと庶民的な内容となっている。
 『THE BIG ISSUE』1月1日号は、「ゼロを考えてみたくなった。」という事で、新年のゼロからのスタート、「ゼロ」特集だった。
 ゼロ・0と「空」とは、本来は異なっている筈だが、一般的には、その様な見方もある訳で、「空」思想の紹介がされており、国立民族学博物館教授立川武蔵氏が登場。
 何やら黒板の背景に関数が書かれている写真があり、「これは、ひょっとして面白いかも。」という事で、記事に紹介されていた『空の思想史』(立川武蔵著・講談社学術文庫)を早速、読んでみた。
 関数(Function)、中学校で最初にこの概念を習う。
 Xが入力で、f(関数)によって何らかの変化を受けて、Yの形で出力される。
 これを仏教に直せば、Xが「因」で、fが「縁」で、Yが「果」となる。
 アビダルマでは、世の中の事象が全て、この形の関数・因縁によって見られる。
 3次元になっても一緒である。ベクトルの出力の方向性が立体的になるだけだ。
 さて、そこで、Xが虚(ゼロではない)場合には、Y(出力)はどうなるのか。
 中観思想を唱えた龍樹は、当然、その様な因果関係は存在しないので、出力も虚、それどころか、関数自体も意味が無くなってしまう。
 Yは、この世の中の現象そのもので、それを産み出す、因果関係が止滅され、全ての縁起から解き放たれる境地、それが即ち覚りという事になる。
 この本にも紹介されているが、私の考え方は、チベットの学僧で『中観荘厳論』シャーンタラクシタに近い。
第1偈にある。
定義
「自派と他派が述べるこれらのもの(認識・外的実在性は、最高真理においては自性を欠く。」
理由
「単一な自性も多様な自性も存在しないから。それは例えれば、一瞬の内に無くなってしまう映像の様なものだから。」
 つまり、「空」とは、内的にも外的にも固定される様な属性は全て失われた状態である訳。
 この思想に従えば、そもそも空思想を関数に例えて説明する事自体が無理な筈である。
 2次元関数は、直線や曲線を現す。その構成される最小の要素は、点である。数学の授業で、「点とは大きさを持たない。」とか習ったが、私は、「大きさを持たないという事は存在しないという事ではないだろうか。そうすれば、点が一つの方向性を持って結ばれた線(これをアビダルマでは、次第縁と呼んでいる。)自体も存在しない事になる。」と幼い頃からずっと疑問で数学が嫌いになってしまった。
 「自性」を持たない状態、それは、物質を、最小の構成単位まで分解し、そこでは、属性が失われ、カオスの様な状態で、諸要素との包含関係で存在している状態を事を指している。この状態を、立川氏は、「とっくりの中の酒ではなくて、薄い革袋の中に入った水の様な状態」と表現している。
 何やら理解しがたいが、やはり、自性自体が存在しない状態は、閉じられた領域の中に存在していると見る考え方は、この間、「空と無我」のところで書いたトポロジー空間、ハッブル宇宙の様な世界と共通している。
 この本では、「空」理論は、龍樹の中観思想以前のインドヒンドゥ、インド仏教(初期から後期、そして中観派の登場まで)、初期大乗仏教における龍樹「中論」の位置づけ、チベット仏教、中国仏教、そして、日本仏教、更には井上円了から現代思想までの「空」思想の変遷を論考している。
 特に、この本で評価出来るのは、単なる理論の解説というよりも、「空」が著者やこの本の読者が存在している現代社会との関わり方にまで触れている事である。「空」思想の日本化は、天台・真言密教との関わり方から鎌倉仏教に至る段階で、既に日本人の思想の根幹に無意識であるが、大きな根を下ろしている事に気づかせられる。インド仏教からシャーンタラクシタ辺りの時代までは、龍樹の原典に忠実で、論(ダルマ)それ自体をも否定するものであったが、一度、現象の外に出て会得された「空」の境地は、やがて、再び現象世界に戻ってきて、現世的な力の根源となるという回帰性が、中国大乗仏教を経て、日本仏教に定着した。それは、大乗仏教の受容の中で、必然的な歴史的過程であったろう。
 龍樹は、「空」思想をあくまでも一般論として展開したのであるが、日本仏教での「空」は、教派思想の修行目的として位置づけられていく。
 この本は、非常に難解ではあるが、ユニークにこの過程を説明している点が他の解説書と違って評価出来る。

『空と無我』(定方晟著 講談社現代新書)2007/12/30 23:08

 佛教大学の五島清隆氏担当の仏教学概論のテキスト履修に参考文献に挙げられていたので、購入したが、読む気になれず、「積ん読」になっていた。
 この本のデザイン、最近のブックカバーのデザイン改悪で、全く知的好奇心刺激されずに購買意欲が起こらない講談社新書にしては、『空と無我』という題だけあって、地味でシンプルな色調とデザインで好感が持てる。
 ブックカバーのデザインが変わってから講談社現代新書は購入していない。古本屋で例のクリーム色のデザインの古いデザインの本を見つけた時に気に入った内容であれば、躊躇なく買う事にしている。
 先日の冬の佛大スクーリングで京都に宿泊した時に、睡眠薬替わりに持参した本である。ところが結構、面白く、1晩で全て読み切ってしまった。
 例によって龍樹が登場。
 この人、たしか、観音様として崇拝されていると記憶しているが、その青年時代の逸話が有名だが嫌らしくて気にくわない。
 透明人間になる術を修得して、後宮に侵入し、女達を手当たり次第に犯して、孕ませてしまうという話は、こうした聖者に相応しくない。
 俗悪な後世のねつ造した話に違いない。
 龍樹は真面目に「現象」というものを考えていたのだと思う。
 定方氏の文章は判りやすく明解であるだけに著書本人がどこまで、「空論」を理解しているのかが判る。
 こうした本は、自我(アートマン)から無我という概念から始まって、空・仮・中の3諦の解説に至る言わば定石通りの説明がされている。
 いわゆる「五位75法」の分類表は、どこかでみた様な気がしたが、案の定中村元先生の『龍樹』の使い回しである。
 こうした表は、著者の考え方が一番判る点なので、安易な引用はして欲しくない。少なくとも自分なりに考えた上で表を書き直して欲しい。
 『中論』第14章の「和合の考察」は、「見るもの」と「見られるもの」は、言語の持つ、主観と客体の2律背反する性質を融合する矛盾を指摘している。
 つまり、言語では、「見られるもの」が、「見るもの」に対しても、「見るもの」が、「見られるもの」について対しても、その位相の違いを説明する場合に、「実証」と「虚証」を区別する事が出来ない訳である。
 むしろ言語の本質が、この「合理」・「不合理」の「虚実」の組み合わせに過ぎない。
 こうして、「言語」・「虚実」の組み合わせでなりたっている「論」ダルマ自体が、「虚実」を伴わない「空」の性質を持つ。
 仏の思惟を言葉によって構成したものが、「論」であるとすれば、仏教が「空」であるという結論に行き着いてしまう。
 このような矛盾点を避ける為に、仏は、「論」が、「世俗」と「究極」の2段階で構成されており、「世俗」の真理では、これまで述べた様な性質を持つが、それを越えた「究極」の真理では、言語の限界を超える「真理」を持つ事が出来るのだとしている。
 「如来」とは、tatha-agataつまり、「世俗」と「究極」を自在に行き来出来るものである事を示していると知れば、「空」を覚る事は、「究極の真理」への到達過程という事になる。
 「縁によって生じるもの、我々はそれを空と説く。」→「この世の中に縁によって生じない存在はない。」→「いかなる存在も空」であると言う論法が、「空・仮・中」の3諦に結びつくまでは、判りやすく説明されている。
 しかし、龍樹の言う「空」が私たちとの現実世界にどの様に関係するのか説明されていないのは残念なところ。
 しかし、それ以上に、この本がやっかいのは、その次に「唯識論」を持って来ている事である。「識」は、「現象」か「主観」かの区別は、先ほどの龍樹によれば、その区別して考えようとする論法自体が「空」であり、存在価値が無くなってしまう。では、「アーラヤ識はどうなるのか。」
 結局、著者は、「私は、ナーガリュージュの思想は共感を持って説明する事が出来るが、唯識思想と取り組む時は、批判精神が沸き立つのをどうする事もできない。」と悲鳴をもらしている。
 私は、「識は、主観をも包含する「現象」である。」と考える。
 また、「私たちが現象と捉えているあらゆるものが、そのアスペクト(位相)において、「真」とも「偽」とも定める事が出来ない『空』の存在である。」と考える。
 そうすれば、まず、「唯識論」を説明、「空論」をその後に説明すれば、定方氏の様なジレンマに陥る事もないと考える。
 つまり、「空思想」は、「唯識思想」を包含している。
 としれば、私たちが「認識出来ないもの」も含めて「空」となる。
 そして、アーラヤ識は、虚実を越えて、世俗から究極の真理に続く「識」なのであると考える。 
 ホテルでこの本を読みふけっていた翌日、12月16日のスクーリングは、朝早く大学に出かけたのに講師の先生は、急病で、来られず。
 代講の小野田先生が、眠い目を擦りながら、出てこられた。どうゆう訳か「アイコノグラフィー」の話から、「唯識論」について話された。
 「この世界は、私たちが意識していないものは、全て虚である。(机をパンパン叩いて)、こうして、音がして、こんな形をしているから机と認識するが、これまで一度も机を見た事がない人、これまで目が見えなかった人が机を見ても、それは机があるとは思わない。つまり、机はないのですよ。」
 なにやらインチキくさい説教坊主の様な感じで話されたが、その後、黒板に6と8の数字を書いた。
 「6と8の違いが判るかな~、つまり、6の上が閉じているのが8なんですよ。ほら、トポロジーというのがあるのですが、皆さんご存じですか。」
 私は、「トポロジー」という言葉を聞いて飛び上がる程、驚いた。
 「さすがは、小野田先生、私と同じことを考えられているのか、それとも、私の心が読めるのか。」
 先生の風貌は、どことなく神秘的である。存在自体がチベットの仏教という感じがある。それに不思議な匂いもする。
 先生が「トポロジー」の言葉を使用されたのは、「閉じた図形」という事から使われたのだと判ったが、実は、「トポロジー」は、現象が閉じられた存在であるという事を規定する時に私が概念として使用している数学用語だ。
 つまり、「世俗の真理」=「現象」=閉じられた空間という事である。
 以前にも色々書き込んだが、私達の「識覚」している「世界」は、3次元空間である。そこでは、「現象」は、「縁起」によって生起され、それが「真理」であるかの様に見える。
 しかし、哀しいかな私たちは、その経過を客観的に捉えて説明する事は出来ず、時間を輪切りにして比較した「変化」あるいは、その時点で「結果」と呼ばれるものを見て「言語」で考え、論理的な説明づけをしているが、結局は、龍樹の指摘した様な論理の矛盾に陥ってしまう。
 しかし、「現象」(閉じられた世界)の境界を越えた「涅槃」の境地にたてば、「究極の真理」として、時間を自由に行き来して観察出来るのである。
 それは、「ハッブルの膨張宇宙」の理論にも似ている。ハッブルの宇宙は、「トポロジー」の外側から見て、初めて認識出来る世界観である。
 先ほどの如来(tatha-agata)の真理は、小野田先生の語義的解釈に基づくものであるが、言葉そのものの、この様な世界観・宇宙観が包含されていると私は考えている。
 最後の書評も理屈っぽくなってしまったが、病気になってからずっと、「空が先か、識が先か」という問題について考え続けて来て、この書物や小野田先生によって愚かな私ながら、時間の経過と共に年の果てで行き着いた考えを書いてみたかったまでである。