コンピュータが実証した天照大神と卑弥呼の時代2011/03/26 15:11

 安本美典「コンピュータによる記紀の分析」では、代々の天皇の在位年数から、年代を推定する方法も紹介されており、明治時代の那珂通世の研究や、東京大学の平山朝治の論文が紹介されており、平山朝治の代々天皇の在位年代の推定と誤差率についての一覧からみると、卑弥呼の時代(西暦238年に魏に朝貢)に相当するのは、神武天皇の時代よりも5代前の天照大神の時代に当たるとしている。

 そこから、論が飛躍して(この辺りは感心できないが)先ほど書いた通り、古事記に登場する地名等で九州が多いことから、邪馬台国九州説を支持されている。

安本美典先生による「コンピュータによる記紀の分析」2011/03/26 09:22

 未だに実家においてある本も多い。

 この3冊もお気に入りだが、分厚く重たいので、実家においてある。幻想図書辞典は、最近買ったほんである。

 古今東西の怪しげな事物に関する図書をまとめた文献目録であり、非常に役に立つ本である。

 その中でも「ヴォイニッチ写本」の項目が面白い。大体、未だに解読されていない文献が存在していること自体が面白い。写本ということで、15世紀までに成立したとされているが、言語も文字も不明である。実は、かのフランシス・ベーコンが贋作した本であるという奇妙な説まである。

 とにかく読んでいて興味はつきない。

 残りは、佛大の斉藤教授宜しく神社、記紀関連で学術的というか興味本位で書かれたものである。僕は、幼い時から神社・仏閣が好きで、親に連れられて一人でよくお参りにいっていた。

 実家の近くは、多田院といって清和源氏発祥の地でもあり、多田神社の領地でもあった。家から30分の距離にあるこの神社では、毎年4月になると源氏祭りが開催される。

 そこに昔は、武者行列に加えて稚児行列というのがあって、その稚児になるのが、僕の夢であったが、友人が選ばれても容貌が醜怪な自分は選ばれることがなかった。まさに「鬼」の様な気持ちで、これらの行列を眺めていた。

 神社から出発して、祭神について興味を持つようになり、古事記、日本書紀の世界に入っていくようになっていた。だから、これらに出てくる神々は自分にとっては、身近というか生活感さえも漂っている。

 『古事記・日本書紀の謎』には、安本美典先生による「コンピュータによる記紀の分析」という記事が掲載されている。

 安本先生は、私の源氏物語の成立についての考察、研究(修士論文)にコンピュータによる解析法を採用する際に同先生の「宇治十帖の成立過程について」の論文を先行研究に取り上げさせていただいたが、ここでは、記紀についての同じ様な研究手法の投入について簡単に記されている。

 面白いのは、「数理文献学」のコンセプトを導入されており、古代インドの文献学者がリグヴェーダの詩句の観察に始まり、イギリス王立統計協会会長のユールによる数理文献学研究の金字塔とも言える著作について触れられている。これは、「イミタチオ・クリスチ」の著者についてドイツの修道士トマス・ア・ケンピスという説と、ジェン・ジェルソンという説に分かれていた時に、文章の統計的な解析を行い、更に、2人の著者候補の書いた文章についても同様の解析を行って、その相関性について、統計的な判定手法によってトマスの相関係数が、0.91であり、統計的に有意の相関関係にあると判定した。

 私も同様の方法で、紫式部日記と源氏物語の本文について、分析を行った結果、源氏物語の文章は、

1.複数の著者による執筆の可能性がある。
2.紫式部日記の作者と有意な統計的相関性がある文章が存在する巻(夕顔、若紫)が存在することから、源氏物語の複数の著者の中には、紫式部が含まれている可能性が高い。

といった事実を科学的・客観的に立証し、それを佛教大学の国文学会で発表したが、誰も、賛同者がおられなかったのは残念である。

記紀の場合は、源氏物語の場合は仮名表記でのパソコンへの入力が容易であるが、記紀の場合は、遙かに困難である。従って、文章そのものの解析よりも、歴法、年代法の鑑定及び登場する地名の統計的考察等が有効な手段である。

古事記に登場する地名には、山陰と九州地方の地名が圧倒的に多いことが統計的手法で示されており、それが何を意味するのかについて考えてみると興味がつきない。

わたぬきつぼみは大御神に祈れ2011/03/16 13:51

4月3日は朔日である。

 「四月朔日」でわたぬき、つぼみと読む苗字があるそうだ。つまり、春から夏への季節の動きが始まる時期でもある。

 日本の姓氏の中で、最も難読、珍しい姓とされている。

 古代から朔日参りという風習がある。新しい月の無事を大御神様にお祈りするそうだ。

 その背景には、やはり、朔日とは、ある意味で、季節の移り変わりでもあり、その折り、厄を祓う意味もある。

 この日は、太陽、月、地球が一直線に並び、大潮になる。こういった時には、災いが起こりやすいので、神様に無事をお祈りする風習も生まれたのかも。

 今年の場合は、太陽の反対側に木星が並び、木星→太陽→月→地球→土星が直線に並ぶ計算になる。 

 当然、地震、津波には十分注意しなければならない。

こんなにアマテラスが生き生きと描かれている本は少ないのでは2011/01/22 21:01

『アマテラス』を今日、読み終えた。
http://fry.asablo.jp/blog/2011/01/20/5642361

内容的には面白い。古代のアマテラス像よりも、平安時代から中世以降については、面白く、源氏物語や更級日記から引用等も、なるほどと感じさせられた。

「霊感少女」 菅原孝標女に現れたアマテラスの影向は、どんなものであったのか。また、彼女がみた内侍司の語り部の老女房の雰囲気描写等も見事である。各時代の「アマテラス」がパノラマ的に描かれており、斉藤先生の文章力・表現力が凄いので、つい引き込まれてしまう。

こんなにアマテラスが生き生きと描かれている本は少ないのではと思った。

近代以降のアマテラスについては、大嘗祭や平成の即位大礼等について書かれているが、皇国史観とアマテラスの関わりについて、更に論じて欲しかった。

また、疑問もある。

4世紀頃に、宮廷から伊勢にアマテラスを移し祀る由来の記事で、人民に流行病等の多くの災いが起こり、それがアマテラスの祟りだとしたが、平安朝以降のアマテラスの祟りは、帝、自身に祟っていくので、祟りの性格が変わっていると思うのだが、どうして、そんな風に変化したのだろうか。

最後に誤字・誤植が見あたらなかったのは、感心。最近では、学術論文でさえ、誤字・脱字が多くみつかるので、念入りの校正がされているのだろう。

「原典」とはなんぞや2011/01/20 00:20

 『アマテラス』(斎藤英喜著、学研新書)

 どこかのブログで喧伝しているので、買いました。ちらちらめくってみると、事前のイメージ通りの内容の様な感じ。

 神話学の人が、記紀や、中世日本紀、神仏習合を論じたら、こんな風になるというのは、なんとなく判るが、国文畑からみたら、やはり、抵抗があるし、学問というよりも、「学問小説風」である。

 つまり、学術資料をもとに壮大なストーリーを作り上げている。論文とも違うかも。

 一応、原典資料とやらが引かれているが、『古事記』新潮日本古典集成 新潮社とあるが、これは、原典というよりも注釈書であり、しかも、原文ではなくて、読み下し文なので、こうしたものは、原典と言ったら、僕の学部生時代だったら、「ゲンコツ」だった。

 やっぱり、古事記だったら、何本を参照したのか、この愚かな僕でさえも、真福寺本の影印で読んでいるのに、どんなものか。

 古事記の神々が当時、どの様に発音されていたのか、それは、こういった原典を読めば、一部に訓点の痕跡もみられるし、同じアマテラスでも読み分けられてことが判る。こうしたことは、本物の「原典」をみなければ、判らない。

 二次資料を孫引きしても怒られない佛大の学風というのは、たしかに自由で好いので、空想作品も生まれやすいが、学術的信憑性という点でどうだか。

 関大は、この逆で、こうしたことを許されない「お堅い学風」なので、「創造的な研究」というのは、関大オリジナルでは生まれなかった。

 私の師の清水好子先生は、関西大学に骨を埋められたが、もし、京都大学の教授であられたら、あるいは、間違って佛大の先生になられていたら、斉藤先生の様に、凄くユニークで面白い研究が幾つも生まれたかも。

 いずれにしても、この本の参考文献の項目をみただけで、「昭和は遠くなりにけり。」で、関大の恩師の木下先生や、神堀先生のお姿が好くも悪しくも忍ばれる。

 こうしたケチをつけたが、内容は、面白く、一昨年に籠神社での斉藤先生の講演を拝聴した内容、中世のアマテラスと元伊勢との関係についての考察にまで発展をみせている部分に研究の進歩の片鱗をうかがうことが出来る。

独特の海社(うみやしろ)の祇園舎2010/12/26 23:32

これもBESSARとSUPER-WIDE HERRIER 15㎜で撮影したもの。
下津井吟行で印象的だったのは、瀬戸大橋と、冬凪の海の近景、
そうして、この独特の海社(うみやしろ)の祇園舎であった。

祇園信仰には、蛭子信仰が根底にあり、これに後の世に、素戔嗚
尊への信仰も加わっているが、海社の祇園者は蛭子、つまり、
水死者やあるいは、海幸の海神信仰、そして、水に関係してくる
ので、遊女信仰、あるいは、淡島神社の様な雛流しの信仰など、
複雑なものである。

蛭子は、遠い海のかなたから、やってきたマレビトである。
つまり、蛭子を祀ることで、その海の町は、守られて、幸福に
なるのだと思う。


冬荒れに素戔嗚おののく海社

2人の先生が日本神話を論ずる2010/11/29 23:15

 久しぶりに佛教大学に行き、上代文学の先生の講演を拝聴したが、非常に興味深い内容であった。実は、昨年は、同じ佛教大学でも神話学の先生の講義をNHKカルチャーセンターで受講したが、テキストは、古事記と日本書紀、更には、中世以降の資料を含めた文献資料も読んでいく内容であったが、やはり、かなり類似していると思った。

 シラバスAは、神話宗教学系の先生のもので、シラバスBは、国文系の先生のものである。これをみる限り、かなりの共通性が認められるが、但し、これは、古事記、日本書紀という限られた資料から、日本神話の諸相をみていく訳なので、当然、類似せざるを得ない。

 先日の講義でも日神系とアマテラス系の分類について、テキスト注釈、文献学的な立場、あるいは、中国の歴史書の影響を踏まえた方法で見解が述べられたが、神話系宗教学系の先生の場合は、文献というよりも、文献から想起されるイメージ、また、現在まで伝えられている神道儀式等を踏まえ、作り上げられたアマテラス像を中心に解釈を述べているのに対して、国文系の場合は、あくまでも、文献記述の解釈が中心となっており、実証的である。

 でも、残念ながら実証的な方が、なにやら説得力に乏しく、正直言って面白くないのが、残念なところ。
 国文でも古代文学というのは、想像とかイメージで補完されなければならず、その材料があまり多くないのが、大変なところだと思う。
 また、天孫降臨についても、歴史的立場、神話学的立場、文献注釈的立場と分類は出来るが、先日の講演では、果たして、歴史的立場から述べているのか(津田先生の論文)、あるいは、文献学的立場での述べているのか判りにくく、結論めいたものは、神話学的立場に結局は傾斜してしまうという1つの限界をみせつけられてしまった。

 私個人としては、古事記と日本書紀というのは、別個の資料と割り切って考えた方が良く、神話学的立場の場合は、古事記に限定して読んでいった方が良いと思う。日本書紀については、別の系統の本文がところどころ織り込まれており、それを比較することは、1つのヒントにはなるが、いくら正確に分類、構造を検討してみても、結局のところは、成立論の段階までには至らないと思う。

 但し、伊勢神道や中世神道まで含めて日本神話のありかたを考えようとすると、どうしても中世日本紀の世界にも踏み込まねばならず、日本書記の分析と理解も必要になって来る。

 しかし、これも、結局のところ神道史の研究には役に立つが、日本神話の客観的理解に結びつくかと言えば、否であると思う。

 この様に考えていくと、日本書記の成立論が明らかにされたところで、日本神話の本質的な理解には結びつかないのではと考えてしまう。
 

シラバスA

第1回 神話とは何か。神話伝承学の可能性
第2回 アマテラスとスサノオ。戦う女神のイメージ
第3回 「うけひ」物質変成の呪術
第4回 岩戸こもり、死と再生のイニシエーション
第5回 皇祖神への成長
第6回 伊勢神宮創建の深層
第7回 「祟り神」としてのアマテラス
第8回 天孫降臨の深層
第9回 ホノニニギとは誰か
第10回 ホノニニギとサクヤビメの結婚
第11回 コノハナノサクヤビメの「一夜婚」とは
第12回 浦島太郎のルーツへ。失った釣針を求めて
第13回 海幸・山幸神話の隠された意味
第14回 異類結婚の伝承と天皇家の結婚形態
第15回 神話と歴史のミッシングリンク

シラバスB

第1回 国生み
第2回 黄泉
第3回 イザナギ、イザナミ神話のまとめ
第4回 誓約
第5回 石屋戸隠り
第6回 天照大神と須佐之男命神話のまとめ
第7回 八上比売
第8回 須勢理毘売
第9回 沼河比売
大国主神の国造り神話のまとめ
第10回 天孫の天降り
第11回 天孫と木花之佐久夜毘売との聖婚神話のまとめ
第12回 海幸彦と山幸彦
第13回 山幸彦と豊玉毘売との破局神話のまとめ
第14回 古事記の男と女をめぐる神話の振り返りとまとめ
第15回 神話から歴史への展開

ロシアの支配から立ち上がる2010/11/01 09:40

 この時期になると、とうゆう訳かシベリウスが聴きたくなる。

 シベリウスの音楽のイメージといえば、もう10年以上前に北海道のニセコアンヌプリに旅行した時に、その雄大な秋野原の風景に感動して、シベリウスのシンフォニーの第3番の第1楽章の特徴的なリズムフレーズを想い出したりした。

 この写真のCDは、シベリウスの中でも、もっとも通俗的な交響曲第2番とフィンランディア、トゥオネラの白鳥、悲しきワルツ(死のワルツ)の組合せ。

 交響曲第2番のやり方としては、このオーマンディやカラヤンの様に華麗極まりなくやる方法や、或いは、渡辺暁雄やオッコ・カム、ヤルヴィの様な地味にやる方法がある。

 どちらが本格的かと言えば、後者であるが、シベリウス本人は、オーマンディの演奏を大変賞賛しており、それは、まるで、グスタフ・マーラーとメンゲルベルク等の関係にも似ている。

 オーマンディ指揮フィラディルフィア管弦楽団のサウンドは、たしかにアメリカ的であるが、その色彩感にやや憂愁を交えた独特のものがある。だから、シベリウス以外には、ラフマニノフのコンチェルト等の伴奏も素晴らしい。

 トゥオネラの白鳥は、黄泉の国の湖に飛来する白鳥である。音楽も北欧的な憂愁を讃えながらも、例えば、日本的な伝説性をその表現世界の中に感じることが出来る。
 フィンランド人は、ユーラシア大陸を旅して、この地域に辿り着いた民族なので、そういったアジア人の感傷を受け継いでいるのかも知れない。特に日本武尊の死の場面の古事記の描写にも白鳥が出てくるが、白鳥と黄泉の国のイメージがオーバーラップしている点で、カレワラ伝説等と大きな共通点がある。

 更にカレワラ伝説が、ユーカラとの類似性を指摘されているのも知られており、何か遠い昔の共通の文化風土を持っているのかも知れない。

 フィンランディアは、「独立歌」である。冒頭の重苦しいトロンボーンの音は、ロシアの強い支配がフィンランディアに及んでいたことを示している。
 ロシアの植民地支配からの独立を目指す民衆の力が音楽に描かれている。通常フィンランディアは、管弦楽のみで演奏されるが、これは、なんと合唱音楽つきであり、感動は数倍に膨れあがる。

 合唱はフィラデルフィア管弦楽団合唱団であるが、アメリカの合唱団らしく、その圧倒的なスケール感、女声の輝き、色彩的な和声感等々、優れた演奏で、この演奏を聴いて、僕は何度か涙したこともある位。

 同じ頃、ロシアの圧政、極東支配は、日本にも及ぼうとしていた。それは日本海海戦での決定的な勝利で打破された。フィンランド人も日露戦争で日本がロシアの暴力に打ち勝ったことを聞いて、大きな共感を覚えたそうだ。

 今、ロシアの大統領が、北方領土を訪問するなど、日本には、北から南から他国の支配の魔手が伸びてきている。

 こうした「魔手」を討ち滅ぼす為にもフィンランディアの様な国家一丸となった国民芸術・文化活動が求められる様になってきている。

卑弥呼の宮殿と桃の実・日本神話の世界とのつながり2010/09/17 23:12

2千個超える“魔よけの果実”発見 奈良の纒向遺跡

纒向遺跡から出土した桃の種と籠=15日、奈良県桜井市東田(沢野貴信撮影)  邪馬台国の最有力候補地とされ、「女王・卑弥呼の宮殿」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)が確認された奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡から、全国最多となる2千個以上のモモの見つかった。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100917/acd1009171959002-n1.htm


恐らく、桃の実は魔よけといっても、死者の弔いの意味もあったのだろう。

古事記のイザナギ・イザナミの黄泉の国の神話は、卑弥呼の時代の祭祀を伝えている。

このことは、9月4日付の私のブログ記事「日本神話の『幽冥界』」に佛教大学の斉藤英喜先生の佛教大学四条センターでの講座のことを書いた中で、取り上げたことがらにつながってくる。

特に、黄泉の国から地上世界へと逃亡を図る時に追っ手を追い払うのに桃の実が活躍する件について、斉藤先生が、桃の実の魔除けとしての威力について説明されたのが、今、古代遺跡の発掘で、そっくり現代に蘇ったのである。
http://fry.asablo.jp/blog/2010/09/04/5330469

こうしてみると、日本神話、古事記やその他の伝承と考古学の実際の発掘成果との関係をみていくと、なかなか面白い古代世界のイメージができあがってくるのではないだろうか。

つまり、日本でもかのトロイア発見・発掘したシュリーマンのみた夢というか幻想が現実となることが可能なのである。

写真は、真福寺本の『古事記』写本の桃の実について記述された部分。

日本神話とチベット佛教絵画2010/09/04 23:54

 今日は、午後1時から午後5時過ぎまで、みっちり、佛教大学四条センターの講座を受講した。

 午後1時からの講座は、斉藤英喜先生の「日本神話の『幽冥界』」というテーマであった。

 最初に柳田国男の「他界論」が取りあげられた。結局、近現代の我々のアイデンティティのルーツを辿っていくと、神話の世界から連なる他界観に行き着くのである。

 更に時代をタイムマシンで遡上していくと、江戸後期の平田篤胤の「『幽冥』」は、この世の我々にはみることが出来ない世界として、存在し続けているという考え方につながる。

 18世紀の垂加神道系の松岡雄淵は、「人死すれば、魂気斯国に留在して、子孫と共に散ことなし。」という考え方につながる。

 実際、民俗学でも魂の招来と葬送に纏わる儀礼が取りあげられるが、その行いをみると、山から魂を迎えて、一定の期間、祖霊が滞在する。そうすることで子孫の繁栄・田畑の豊作につながる。一定の期間を過ぎると、再び祖霊を送り出すという考え方が現在も残っている。

 この様な祖霊に纏わる神道思想のルーツは、やはり、古代神話があり、イザナキ・イザナミの黄泉の国神話が地下世界のイメージを描いているところに行き当たる。

 イザナキとイザナミの斯国と冥界のやり取りの舞台となったのが黄泉ひら坂は、出雲の国の伊賦夜坂と古事記には記されている。

 この黄泉の坂、黄泉の穴は、出雲市猪目町の猪目洞窟と考えられている。

 ここからは、古墳時代の遺骨も出土し、その遺体は、古墳時代の船材で覆いをされていたのである。

 更に、この猪目洞窟は、出雲大社につながっていると考えられた。
 
 この部分に私も非常に興味を覚えた。出雲大社の建築は、超巨大建築で、海の遠くからでも見えたとされている。

 海洋神話の立場からみれば、出雲大社の役割は、海洋神を迎えて、その迎えられた海洋神と共に、死者の魂が再び海の彼方(冥界、他界)に帰っていく。

 海洋神は、来訪神(マレビト)であり、それは、葬送の神でもあり、新たな命を呼び込む神でもあると私は考えている。 

 この出雲の古代人の他界観に纏わる資料は、今回の講義で示された以外に『出雲風土記』がある。

 以前に「海洋祭祀文化と古代葬制」という論文を執筆した時にかなりの量の出雲にまつわる文献、考古学資料を収集したことがある。

 そこには、出雲郡宇賀郷条に、海辺の磯に大きく開口した岩戸のことが語られているのである。

 その様な海に面した洞窟には、古墳時代の船棺が出土している。また、地名にも「天岩船」等がみられ、死者は、岩船に守られて、海の向こうの他界に渡っていくのだという信仰があったようだ。

 斉藤先生の講義では、更に、篤胤の注釈「死ては、その魂やがて(そのまま)神にて、かの幽霊・幽魂などといふ如く、すでにいはゆる幽冥の帰けるなれば、さては、その冥府を掌り治めす大神は、大國主神に座せば」とあり、出雲の國の神は、冥府を掌る神として位置づけていると説明された。

 篤胤の「古史伝」等も引用されたが、顕と冥との隔にて幽より顕を見ること能わぬ定なればなりとあり、冥界とこの世とは、実は、併存しているが、この世から冥界をみることが我々は出来ない。

 私達人間は、この世の寿命は精々百年だが、冥界は、永遠に存在し続けている。

 どうもこの辺りの篤胤の世界観は判りにくいが、霊真柱等には、現世と冥界の瓢箪型の構造図が記されている。こうしてみると、この世はあの世からの循環であり、あの世はこの世からの循環である。

 つまり、幽冥を祀るということは、この世の生につながるということになる。

 大國主命が、五穀豊穣につながる農業神として、農村・山間で祀られているのは、このような構造を持っているからだと思う。

 
 こうしてみると、平田篤胤の思想は、国家神道の元になったと考えることは間違えである。篤胤は正しく、古代から現代につながる神々の生と死を司る関係を分析しているのだと思う。

☆☆☆

 午後3時30分からは、日本神話の世界からほど遠い、チベット密教絵画の世界にワープした。

 前回、ブログにアップした多羅母の絵である。

 今回、先生からの宿題である輪郭線の下書きをしてくることになっているが、出席者は、10名程度に減ったが、本格的なキャンバスに描いてきている人もいるし、ご年配の方も見事に宿題をこなしておられるので関心した。

 チベットタンカ絵師の城野 友美先生がそれぞれの宿題をチェックしていく。

 その間、小野田先生のレクチャーが入る。僕の場合、やはり光輪がまずいということで、コンパスで書き直し。顔も治してもらった。

 その後、墨入れの練習。鉛筆で書いた輪郭の上に面相筆で墨でなぞっていく。

 これは、失敗が許されない作業である。僕の場合、練習中に、アル中で腕が震えるので、線が滲んでしまった。

 本番でこうなったら台無しである。

 次回は、10月2日で最終回。いよいよ塗装に入る。塗装は、本来は岩絵の具を塗っていって、乾いたら、表面をナイフで綺麗に削って、その内に植物系の顔料やシェラックで、輪郭を描いていく。冠とか金の装飾は、実際に金を塗っていくらしい。

 来月までの宿題は、仏像の衣装とか装飾を含めた鉛筆画を完成させて、その後に墨で輪郭を入れて持ってくること。

 1ヶ月でこれだけやるのは、大変だし、うっかりして、北海道の出張日程を10月2日出発してしまったが、折角なので1日出発を遅らせることに航空券の追加料金2000円が発生してしまったが仕方がない。

 ハードスケジュールである。