今年2回も発生した建柱祭の事故、もっともっと大変なことの予兆2010/05/13 22:02

祭りの御柱倒れ4人下敷き、うち1人が死亡 長野・千曲 
4月11日
http://blogs.yahoo.co.jp/taddy442000/31324394.html


御柱祭:下社「建て御柱」2人死亡事故 春宮で実況見分 /長野 5月8日

http://mainichi.jp/area/nagano/news/20100513ddlk20040009000c.html

5月8日の諏訪大社御柱祭のワイヤが切れて2人が死亡するというショッキングというか不吉な事故は、多くの関係者に衝撃を与えた。これまでも何度も危険なこの御柱祭の行事が行われてきたが、死者が出るような大きな事故は、みられなかった。

実は、その1ヶ月前の4月11日にも御柱祭での死亡事故が起きている。野県千曲市土口の古大穴神社での御柱祭の行事で、この場合もロープは切れなかったが、2本目を立てようとする時にバランスを失って倒れ、1名がなくなった。「ここ30年程は、この様な事故はなかった。」という。


 このお祭りは、平安時代から続いているお祭りで、大国主命がニニギノミコトに国譲を承諾した時に、ただ一人タケミナカタが反対したが、追われる身となり、諏訪湖畔まで逃げてきて降伏して、その時に逃げないことを誓う為に、神社の四隅を結界で仕切ったのが最初とされている。

 この柱は、ミジャグジの拠り代であり、神のシンボルでもある。事故が起こったのは、下社里曳きの日程であった。

 柱は、山出しの担当地区で、8柱、里曳きの担当地区(初日)で8柱、同じく里曳きの担当地区で4柱が立てられる。今回は、里曳きの担当地区の最後の柱、秋宮四之御柱である。

 事故は、1980年、1986年、1992年に死者が出る事故が起こっている。しかし、今回の様な建御柱の神聖な行事の最中に起こった事故はない。


 同じ建て柱の時に、諏訪大社ではないが、同じ地域の柱建て行事で死者が出て、本祭りでも同様な事故が起こるのは、やはり、不吉というか、何か、霊象、あるいは、今年の異常気象で農作物への大きな被害、あるいは、もっともっと大変なことの予兆の様な気がしてならない。

おうぶ神社探索2010/03/14 18:21


 今週の日曜日は、前日に実家から戻っていたので、丸1日おうぶの家で過ごすことになり、暇つぶしに近所の探索に出かけることにした。
 最初に出逢ったのは、杵宮神社。

 祭神は、おそらく、天孫瓊々杵尊あるいは、枳根命と推定される。臼の上に杵を渡して岐尼神を迎えたというが、この様な伝承よりも、例えば、能勢町の森上にある岐尼神社が神宮皇后の新羅遠征に船材の杉を提供したのと同じ様に、朝廷に大型船用の船材・木材を提供した人達が、この地域
に暮らしており、それが杵宮神社としての祭神伝承につながったと思われる。
 実際に境内には、大木が祭神としてしめ縄が張られて祀られている。比較的瀬戸内海に近く、しかも豊富な木材が伐採出来るおうぶの里は、大和朝廷の昔から、大陸遠征や海賊征伐に必要な大型船を建造する為に船材である木材を提供しており、そういた森林・木への信仰が現在まで伝わったものと考えられる。


 次に神鉄有馬線にとってやや神戸側に下り、更に西側に亘ったところにある大歳神社及び小上神社を訪問。ここは、両方の神社が隣り合って鎮座されている。大歳神社の祭神は、大歳御祖神で、素戔嗚尊の子供で、同時に応神天皇をも祭神としている。建立は、平安時代中期、左側のちいさなお社は、小上神社で、祭神は、橘遠保であり、橘氏の祖である敏達天皇も祀られている。社殿は、1232年に建立され、古い建築様式を残している。平安時代中期の朝廷を震撼させた平将門の乱と藤原純友の乱の時代、橘遠保が、京の都から有馬街道を通って瀬戸内海に赴いた。既に瀬戸内沿岸は純友の支配下となっており、討伐軍は、六甲の裏山を通って瀬戸内に出る以外に方法はなかった。

 艱難辛苦の既に橘遠保は、純友の討伐に成功するが、疲れ果てて、このおうぶの里で客死した。当時は、この様な鄙の地で果てた時、不吉であるとして百日の供養が終わるまでは、その地を離れることが出来なかった。この為、この事件を契機に橘氏がおうぶの里に住み着くようになり、平安時代には、橘氏領となったようだ。その後、橘氏が衰えた後は、朝廷の直轄地となった。

 この様に特に小上神社は、「海の戦の神・海賊封じの神」として、船乗りに信仰されていくが、この間の阪神大震災の時に石灯籠が調査された時に、一ノ谷の戦勝祈願の為に源義経が奉納したことを示す「義経銘」が発見されたと説明されている。
 しかし、どこまでが事実かは、これらの神社が鈴蘭台の団地開発の為に移設されたという経緯もあり、十分に調査・検証が必要だろう。
 いずれにしても、古代のこの地域において、杵の宮神社、小上神社ともに、船の材料、海賊退治、航海の安全といった信仰を集めていたことは、事実であり、興味深い。

 その地域の「地域文化」を調べるならば、まず、神社を調べようというのは正解であり、今日1日の神社探索で、古代におけるおうぶの地域について、いくらかのビジョンが見えてきたような気がする。


面白いけれど、従来の人文学的な取り組み方に軍配が上がる様な気がしてならない2009/11/22 23:06

 アマテラスの岩戸隠れの伝承が古事記や日本神話にも記述されているが、11/21土曜日に放送された世界不思議発見で、247年の日没時の日食、248年に日出時の日食が関連しており、更にこれは、卑弥呼の没年、台与の即位年に結びついているという。

 日本神話に描かれている時代が西暦年代でどの年代に当て嵌まるかという点で、紀元1世紀から3世紀の間では、158年の7月13日と、247年3月24日及び248年の9月5日しかなかったという。(日本列島)

 下記はNASAのデータベースの検索出力結果。

http://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEatlas/SEatlas1/SEatlas0241.GIF

 従って世界不思議発見も、安本美典氏も同様説である。
(懐かしいお名前!、僕の修論でも先生の学説・源氏物語の計量学的測定法を一部引用させていただいている。)

 ただし、神話学の立場からみれば、別に日食年代に拘らなくても、環太平洋一帯の文化圏の中で、日食神話が存在するので、必ずしも、この2回の日食と卑弥呼の関連がなくても、日本神話の中に天の岩戸伝承が成立出来る余地は十分にあると思う。

 卑弥呼の没年と台与の即位年との関連についても、本当に関連しているのか、正確な年代考証等を踏まえて十分に検証していかないとこじつけ説となる可能性もある。

 更に不思議発見は、これらの事実を持って、巻向遺跡や箸墓の考古年代測定と関連づけて、邪馬台国=ヤマト説を出しているが、これも、実際には、直接・決定的な根拠はない。

 現在の考古学の年代測定、年輪測定等はかなり正確なデータは出るが、1~2年の誤差は出るからである。更に使用木材の伐採年と遺跡の年代とも誤差がある。

 「科学的」という名の元に仕立て上げられた1つの仮説に過ぎない。

 面白いけれど、従来の人文学的な取り組み方に軍配が上がる様な気がしてならない。

結局、それぞれのポリシーで、「元伊勢」の地がどこにあるかを、決めておけばよいのだと思う。2009/11/17 22:49

 今日、京都三井ビルにある佛教大学四条センターで斎藤英喜先生の講演を聴く。

 会場は、驚く程の満員で、先生の人気の高さは凄い。

 テーマは、「京都に棲まうアマテラス」なかなか面白い内容だった。

 中世・応仁の乱前後の京都は、疫病が流行った。戦乱と流行病を鎮める為に、伊勢の地からアマテラス大御神を祀った神明社が分霊され、京都市内各地に作られていく様になる。

 主なものでも、高松神神社、粟田口神明社、頼政神明、日降神明、伊勢大神宮、榊宮、朝日神明、高橋神明、宇治神明、そして、吉田神社(写真)である。

 興味深いのは、必ずしも総てが伊勢本宮の許可を得て分霊されたものではなくて、無断のものや了解を得ていないものもみられた。特に粟田口神明社は、公式の御願ではなくて唱聞師によるいかがわしいものとして避難されたようだ。

 結局のところ、都に多くの神明社が分霊されることでお伊勢さん、特に内宮の神威が損なわれることを心配したようだ。

 いくつか社をみせていただいたが、共通しているのは、縦横の千木削ぎ方の形状で、内宮と外宮とでは、当然異なるが、先生は指摘されなかったが、総ての千木が「通し千木」であるということが神明社としての権威を示している。

 色々と神社建築を研究したが、通し千木がおける社は、豊明様式(伊勢の権威)を示す社に限定されており、出雲大社、住吉大社でも置き千木である。

 最大の権威である吉田神社は、卜部家の権威を示し、中世吉田神道(吉田兼倶)の元祖となったところである。卜部家のシンボルでる亀甲(占いに用いた)をシンボル化した社殿の屋根の形状、内宮と外宮が合成された千木、そして仏教との習合さえも示す宝珠である。

 結局、中世伊勢神道は、応仁の乱前後の神明社の勧請が大きなきっかけになった事を示唆しており、日本神道史の中でも重要な出来事だった。

 京都の神明社については、先生によれば、未だ総てが解明されていないということで、これらの調査を進めていくことで、新たな中世神道の姿を浮かび上がらせることで出来るかも。

 でも、中には、ビルの谷間に小さなお社があるだけだったり、結構、チャッチイものが多い。それそれで面白みがあるので、一度、調査してみようと思う。

 講義の後半は、所謂、「元伊勢」について。「元伊勢」については、古くは、日本書記に典拠があるが、特に、丹後の国、籠神社は、伊勢外宮祭神のトヨウケとも関連が深く、中世神道の展開の中で、外宮勢力によって、「元伊勢」の権威が、天御中主大神に神威にフューチャーアップされた経緯がある。

 「元伊勢」とは、伊勢神宮にアマテラスがお祀りされる以前に最初は、大和、近江、美濃、そして伊勢の地に辿り着く経緯の中で、日本書記の記述にはない、その途中に、丹後吉佐宮に立ち寄った伝承を含めて言われる信仰である。

 「元伊勢」の地をめぐって、現在でも福知山市大江町と京都府宮津市にあったと主張する人達が峻烈な対立抗争を繰り広げている。明治政府が、正統な「元伊勢」として認定した大江町を主張する人も多い。

 今年の5月に、このブログにも書いたが、京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後)で開催された文化財講座「アマテラス神話と中世伊勢信仰」(講師、佛教大学 斎藤英喜先生)を受講する為にはるばる天橋立まで日帰り旅行した。
http://fry.asablo.jp/blog/2009/05/23/4320615

 その折りにも「大江町説」を主張される人が、当日の先生が提示された資料である「倭姫命世記」「御鎮座伝記」、「御鎮座次第記」、「丹後國一宮深秘」等の資料が、「果たして正統な根拠あるのか、疑問であると。」と、鋭い反論をされた郷土史家風の人が恐かったことを覚えている。

 結局、中世伊勢神道、元伊勢信仰に纏わる資料については、独自資料であり、日本の文献史等を俯瞰しても、独自資料の正当性を証明することは、新たな資料の発見か、あるいは、籠神社等を発掘して、元伊勢伝承を裏付ける様な祭祀施設等が発見されれば、証明が可能であるが、現状では、その様なことは不可能であるので、学問的実証することは出来ないと思う。

 結局、それぞれのポリシーで、「元伊勢」の地がどこにあるかを、決めておけばよいのだと思う。

 先生は、抜け目なく、「詳しいことは、私が書いた『読み替えられた日本神話』を参考にして下さい。立ち読みではなくて、本当に買って下さいよ。」と宣伝された。

 講座が終わると外は真っ暗で、冷たい雨が未だ降り続いていた。今日聴いた、「元伊勢」のお話は、今年5月から半年の間をおいて、斎藤先生が新たな結論を提起してくれたと思うので、今年の神道・神話に関する学習の私なりの締めくくりになったのではと満足した。

「白鳥説話」2009/08/15 10:38

「白鳥説話」

 毎年、「敗戦の日」には、ワーグナーのパルシファルやローエングリンを聞く。

 「聖なる愚者」パルシファルの清透な終末感のイメージは、この日にしみじみと聞くのに相応しい。

 毒々しい戦いと色欲のドラマも、「聖なる愚者」によって真っ白に浄化されていく。

 「浄化」というイメージを、ワーグナーにみられるゲルマン説話では、「白鳥」の美しさになぞらえている。

 古事記の中で、「英雄の死の象徴」としての白鳥の昇天説話は、最も美しい部分である。高校時代の古典の時間に、この部分を授業で習ったが、朗読をされている先生の声が感極まって、声が出なくなってしまったことを記憶している。この先生の授業は独特で、古典をただ読む(音読)だけで、別に現代語訳とか、注釈とか、文法の解説等、全くされないのに、先生の朗読に聞き入っている内、ネイティブランゲージとして、古典の文章が徐々に理解出来る様になっていくのである。

 話は戻るが、ワーグナーのローエングリンでは、白鳥の王子が登場するが、劇的な最後という訳ではない。神々の黄昏では、ワルハラの城が燃えて、神々のエゴイズムの悲劇が終わりを告げ、復しゅうに燃える悪者が水に飲まれて死ぬが、白鳥の昇天・死に見られるような清透な情景を持った悲劇という表現ではない。

 一方、古事記描かれた倭建命の最後の情景は、もっとずっと美しく、日本民族の心の気高さを描いている。
 
 ここに倭に坐す后等また皇子達、諸下り至りて、御陵をつくり、すなはち、其地のんづき田に匍匐廻りて哭きまして歌ひたまひしく、
 なづき田の稲幹に 稲幹に 匍ひ廻ろふ 野老葛
とうたひたまひき。ここに八尋白智鳥に化りて、天に翔りて濱に向きて飛び行でましき。ここにその后また御子達、その小竹の刈杙に足きり破れども、その痛きを忘れて、哭きて追ひたまひき、この時に歌ひたまひしく・・・・

 白鳥のみささぎの起こりを描いた部分であるが、同時に古事記という物語作者の倭建命への哀悼の文章である。

 「哭きて」とあるが、中国の葬制に関しての資料によれば、中国では、帝王や英雄が亡くなった時には、その葬儀で「泣く」という行為が非常に重要であった。「哭」は、その中で、最も重みを持った「泣き方」であり、地面に腹ばい、頭を打ち付けて、それこそ血が出るまで打ち付けて高らかに鳴き声を挙げて、みずからも死んでまで付き従おうという強い意思の表現である。

 面白いのは、倭建命の妻に対する言葉は、描かれず、それよりも、死の直前に逢瀬をもったミヤズ姫のことを臨終の時に詠んだ、
「嬢子の床の邊に 我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや」という象徴的な歌が詠まれる。

 この白鳥の場面に出てくる后達についての描写や倭建命の「言葉」がみられないのは、何故だろうか。

 「単なる白鳥説話なんだからさ。」と言われてしまえばどうしようも無いが、ここに倭建尊の生き方の2面性がうかがわれるのである。

 帝に命じられて各地の征討に赴く尊は徐々に疲れて身体も弱ってくる。その時に、「ひさかたの天の香具山 利鎌に さ渡る頸」という和歌を詠むが、これは、自らの死を悟った諦観の歌であると同時に、オオヤケの立場から、本来の人間の立場に帰ったということだろう。

 倭建尊は、残念ながら実在しなかった可能性が高いそうである。

 帝(大和朝廷)の名で各地に征討に赴き、大勢のものが戦死、あるいは、疲れて亡くなっていった大勢の英霊の御霊の象徴として、この物語の最後の場面が描かれているのであろう。

 スメラミコトの権威が固まったこの時期、天皇への絶対服従という行為の中で、潔く死んでいくという美談と白鳥に象徴される美しい日本人の本来の魂が昇華される有様を同時に描くことで、この物語の悲劇性を一層、強めているのだと私は考える。

国宝附「勘注系図」にみられる仮名文字の裏書を発見2009/05/30 01:18

 先日訪問した丹後一ノ宮の籠(この)神社宮司海部氏が伝える「海部氏系図」は、「勘注系図」と共に、国宝に指定されている。「海部氏系図」は、その複製をみた限りでは、書写年代は相当古いものであると考える。
 この「海部氏系図」の信憑性を保証しているのが、「勘注系図」であり、それにより、この系図の作者と成立年代が推定出来るとされている。
 この「勘注系図」についてどの様に考えるべきであるのか、宝賀寿男氏は、下記のWEBで説明されている。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/amabe/amabe%20k1.htm
 一番問題なのは、勘注系図の成立年代である。この勘注系図の書写年代は、かなり後世になるということは、
 「書写の時期は江戸幕府三代将軍家光の寛永年中であって、筆者は海部勝千代(第七〇代永基のこと)とのことである。」と同WEBにあり、私も、後の時代であると思う。

 但し、本文の書体のみで近世期の写本であると断ずることはかなり危険を伴う。この様な貴重な系図、資料の書写作業は、臨模本、あるいは、敷き写しという作業でおこなわれた場合には、現代のコピーに匹敵する程の精緻さを有する可能性があるからである。
*****

 私は、今回、この勘注系図について、実際に丹後資料館で拝見することができて、感謝しているが、一番の発見は、料紙の裏書きの記述に非常に興味ある問題点を発見したからである。

 この勘注系図は、本来伝えられるべきものではなくて、下書きの様な物であった可能性がある。

 その理由として、裏書き記述を一部であるが判読してみると、何か説話か物語本文の仮名書き文字を発見したからである。その書風は、中世後期から近世初期にかけてと推定されるが、平安朝の書風を真似たかなり教養のある書き手である可能性がある。もっと、詳しく、全文を解読する機会が与えられれば、現存する勘注の成立年代や書写に纏わる事情を推定出来るかも知れない。勘注系図のなかに見える「丹後風土記残欠」いわゆる「残欠風土記」についても何か手がかりになることが判るかも知れない。

 勘注を偽書とする説があるが、私は、どうかと思う。もし偽書として制作された資料ならば、むしろもっと正式な料紙を用い、清書の形で残っている筈だが、いくら紙が貴重な時代であるといっても、この様な反古紙の裏書きとしての形で残る筈はない。

 やはり、それなりに由来のある資料であると考えるべきではないのだろうか。和本学、書誌学的な精査が今一度、行われることが期待されるのである。

28年前の横田健一先生の講義2009/05/27 17:49

lumix-G1で撮影 標準ズームレンズ
 私は、過去の出来事を想い出す時は、夢の中が多い。

 先日の籠神社について、今から28年前に横田健一先生の講義を受けている時の夢をみた。

 もう、春も終わり頃のちょうど今の様な時候、私は、関西大学文学部の横田健一先生の古代史の授業をモグリ聴講していた。国文学科の学生が、他の学科の先生の講義を聴講する制度は、大学院は兎も角、学部生には、なかった。

 何時も白か薄いブルー、もしくは、グレーの開襟シャツを着ておられ、かなりお年にもかかわらず腕っ節が強そうな感じの先生だった。ズボンは黒色。顔がガッシリとしており、やや面長、顎は、少し角張っていた。

 お話の口調はゆっくりとだが、威厳と気品があった。今の大学教授には、こんな人はおられないだろう。

 「君たちは、籠神社を知っておるかな。」と学生達に尋ねられた。
 (手を挙げる私)
 「ほう、どこにあるか説明してご覧。」

 (高校時代に天橋立を旅行した時にバスガイドさんから聞いた古い系図の話やアマテラスの話等を雑然と話す私)

 「そうなんだ。ここには、海部氏という天皇家よりももしくは古いかも知れない由緒ある氏族の系図が保管されている。昭和二十六年の夏の終わりの頃じゃった。関大の史学科の古代史を研究しているグループでは、海部氏系図について注目しておった。それで、系図の拝観を宮司さんにお願いした訳じゃ。
 宮司さんは、『あんたは、どこの大学を出たのか。京大か。あんたの師匠の**先生(名前忘れた)さえ、モーニングに白手袋をして、床の間に置かれた系図を拝むようにしてご覧になられた。ところが、あんた方は、どうじゃ、あんた(横田先生)は、背広、ネクタイをしておられるが、他の方々は、開襟シャツという裸同然の姿をしておられる。それで、失礼だと思わないのか。』と断られて、ついに見ることが出来ず、本当に残念だった。」

 戦後直ぐのこの時期は、アメリカとの戦で敗れ、敗戦国日本の軍国主義と神道が結びついていたという誤解を受けて、批判され、日本神話や日本古来の神々が軽視、侮辱された時代であった。

 当時の宮司であられた海部穀定氏は、教育のアメリカ化、天皇制や神道批判が吹き荒れ、人心が荒廃していった不毛の時代に、大きな抵抗と不信を持っておられて、どうしても閉鎖的になってしまわずにおられなかったのだろう。

 横田先生は、このお話を学生達に何度も話されたそうで、別冊歴史読本「古事記・日本書紀の謎」にもこの話を書かれている。

 私は、ナマでこの話を聞いたが、古代史の中で、皇室に匹敵する歴史を持った氏族の系図が残されているという事実を改めて認識した。それが古代史に興味を持つきっかけになった訳。

 いま、丹後郷土資料館に行けば、複製本であるが、自由にこの系図をみることが出来る。時代は、大きく変わった。古代史の秘密の資料が一般の研究者がみることが出来る様になり、古代史や神話の研究は更に進歩するだろう。

 横田先生は、佛大でも教鞭を執られたことがあるそうで、それは、佛大の通信に入ってからその事実を初めてしった。

 写真は、天橋立の顔の無いお地蔵様。
 なんどシャッターを半押ししてもピントが合わなかった。
 写真を撮られることを嫌がられたのに違いない。

蓮華座の上に垂直に立ち上がった蛇の図像2009/05/26 21:17

 以前、仏教芸術コースのスクーリング授業で、蓮華座の上に垂直に立ち上がった蛇の図像を見せられた。
 神仏習合が進むとこんな奇怪なことも行われるといった趣旨であったと記憶している。

 これがアマテラスオオミカミの正体であるという。

 斎藤先生のアマテラス神話と中世伊勢信仰(5月23日京都府丹後郷土資料館)でも同じ図がプリントされて配られた。

 中世の時代には、門外不出の絵図であり、一般の目に触れる様になったのは、最近のことである。

 蓮華座からアマテラスが蛇体で立ち上がっているというイコノロジーの解釈を仏教芸術コースの安藤先生や私と一緒に学んだ方達は、どの様に解釈されるだろうか。

 蓮華座というのは、仏の「化生」の根源となるものである。これは、古代インド神話のビシュヌ神の説話にも出てくる思想である。

 これは、以前に『読替えられた日本神話』の記事でも紹介した大和葛城宝山記に、天地の成り立ちのこととして、「十方の風至りて相対し、相触れテ能く大水ヲ持ツ。水上ニ神化生して、千ノ頭二千ノ手足有り。」とある様に、中世神道の世界では、本来仏教の生命力を現すコンセプトの「化生」という語を使う様になる。

 斎藤先生が丹後記念資料館での講演のレジュメに挙げてある『御鎮座伝記』の中に、天御中主神(アマノミナカヌシノカミ)の項に「古語曰、大海之中有一物。浮形如葦牙。其中神人化生、号天御中主神」と天御中主神の出生も「化生」するものとして扱われている。

 天御中主神は、中世伊勢信仰では、トヨウケと称され、アマテラスと一体の神として扱われる。現在は、伊勢の外宮の神様であるが、その以前には、丹後国一社(現在の丹後一宮の籠神社のことである。)に遷座されていた。つまり、籠神社の石碑に天御中主大神宮とあるのは、この様な中世伊勢神道から脈々と受け継がれて来た元伊勢信仰に根拠がある訳だ。

  最近の考古学調査により、特に中世以降には、丹後国分寺も再建され、丹後国一社と伽藍が並び立ち、地域の神仏習合文化の中心的な役割を担っていたと考えられる。その後、戦国時代には、国分寺は焼け、籠神社は残った。斎藤先生によれば、明治の神仏分離令の洗礼を受けながらも中世以来の神仏習合思想が生き残っている数少ない神社だという。

  


 ところで、天御中主神は、古事記では、「神世七代」とは別格の神として扱われ、「原宇宙神」とも言う存在であり、古事記では、冒頭に高天原に元々鎮座されていた神である様に記述されている。つまり、古事記の世界ではアマテラスと一体なんてことは、絶対にあり得ない。アマテラスは、イザナキが黄泉の国から無事戻って来た時に、禊(みそぎ)を行うが、その時に左目から生まれた神である。この禊の時に太陽、月、航海の神と天体・天文関係の神が一度に誕生している。

 イザナキがイザナミに逢いに黄泉の国に行き、その結果、逃亡するのだが、これは、生と死の世界の戦を象徴している。結果として、生と死とは永遠に隔てられることになる。生と死の世界の隔たりは、そのまま太陽と月の運行、つまり、時間という概念が生まれたことを意味しているのだと私は考える。

 一方、日本書紀では、アマテラスの誕生は、「(イザナキとイザナミが)於是、共生日神。号大○貴(オオヒルメムチ)一書曰天照大神」と記されており、つまり、イザナキとイザナミが一緒にアマテラスを生んだことになっている。 

 つまり、日本書記では、イザナミが死なない為にこの様にアマテラスは、天地創世の時に、同時に誕生した神の様に扱われている。これが古事記とは大きく異なる点である。古事記では、アマテラスは、イザナキから矮生した様な生まれ方であるが、日本書紀では、世界の「構造」を形成する一翼を担っているのである。

 従って、天御中主神と同等に扱われるということも可能になる。こうなると仏教の元々の思想概念である「化生」のコンセプトを日本神話の世界に活かし易くなるのだと思う。この様な経緯もあり、『古事記』は中世以降の神道の世界からは、意図的に消し去られたのか、あるいは、忘却されたのか神道の表舞台から姿を長い間隠していた。

 『古事記』は、中世以降の神仏習合の影響をあまり受けていない純粋性の高いテキストであることになる。この点が、本居宣長等が古事記を重んじた理由にもなると考えられる。アマテラスが蛇神であるという僻事(ヒガゴト)は、宣長には、許せなかったのだと思う。

 ところで、写真に挙げている『地図とあらすじでわかる古事記と日本書紀』(坂本勝著,2009,青春新書)は、非常にこうした古事記と日本書紀の日本神話の構造が完結に図示されており、更に、あらすじも判りやすく、古事記や日本書紀を精読することで初めて理解出来る日本の神々の構造と系図を明らかにしている非常に良い本である。一番の見所は、ヤマトタケルの征討が一番のその特色が現れているが、他の神話についても地図によって、地域的にどの様な変遷を経て展開していったが、一目瞭然で理解出来る様になっている。

 阪急梅田のブック1STで購入し、能勢口に着く頃には、大部分を読み終えてしまっていた。