『空と無我』(定方晟著 講談社現代新書)2007/12/30 23:08

 佛教大学の五島清隆氏担当の仏教学概論のテキスト履修に参考文献に挙げられていたので、購入したが、読む気になれず、「積ん読」になっていた。
 この本のデザイン、最近のブックカバーのデザイン改悪で、全く知的好奇心刺激されずに購買意欲が起こらない講談社新書にしては、『空と無我』という題だけあって、地味でシンプルな色調とデザインで好感が持てる。
 ブックカバーのデザインが変わってから講談社現代新書は購入していない。古本屋で例のクリーム色のデザインの古いデザインの本を見つけた時に気に入った内容であれば、躊躇なく買う事にしている。
 先日の冬の佛大スクーリングで京都に宿泊した時に、睡眠薬替わりに持参した本である。ところが結構、面白く、1晩で全て読み切ってしまった。
 例によって龍樹が登場。
 この人、たしか、観音様として崇拝されていると記憶しているが、その青年時代の逸話が有名だが嫌らしくて気にくわない。
 透明人間になる術を修得して、後宮に侵入し、女達を手当たり次第に犯して、孕ませてしまうという話は、こうした聖者に相応しくない。
 俗悪な後世のねつ造した話に違いない。
 龍樹は真面目に「現象」というものを考えていたのだと思う。
 定方氏の文章は判りやすく明解であるだけに著書本人がどこまで、「空論」を理解しているのかが判る。
 こうした本は、自我(アートマン)から無我という概念から始まって、空・仮・中の3諦の解説に至る言わば定石通りの説明がされている。
 いわゆる「五位75法」の分類表は、どこかでみた様な気がしたが、案の定中村元先生の『龍樹』の使い回しである。
 こうした表は、著者の考え方が一番判る点なので、安易な引用はして欲しくない。少なくとも自分なりに考えた上で表を書き直して欲しい。
 『中論』第14章の「和合の考察」は、「見るもの」と「見られるもの」は、言語の持つ、主観と客体の2律背反する性質を融合する矛盾を指摘している。
 つまり、言語では、「見られるもの」が、「見るもの」に対しても、「見るもの」が、「見られるもの」について対しても、その位相の違いを説明する場合に、「実証」と「虚証」を区別する事が出来ない訳である。
 むしろ言語の本質が、この「合理」・「不合理」の「虚実」の組み合わせに過ぎない。
 こうして、「言語」・「虚実」の組み合わせでなりたっている「論」ダルマ自体が、「虚実」を伴わない「空」の性質を持つ。
 仏の思惟を言葉によって構成したものが、「論」であるとすれば、仏教が「空」であるという結論に行き着いてしまう。
 このような矛盾点を避ける為に、仏は、「論」が、「世俗」と「究極」の2段階で構成されており、「世俗」の真理では、これまで述べた様な性質を持つが、それを越えた「究極」の真理では、言語の限界を超える「真理」を持つ事が出来るのだとしている。
 「如来」とは、tatha-agataつまり、「世俗」と「究極」を自在に行き来出来るものである事を示していると知れば、「空」を覚る事は、「究極の真理」への到達過程という事になる。
 「縁によって生じるもの、我々はそれを空と説く。」→「この世の中に縁によって生じない存在はない。」→「いかなる存在も空」であると言う論法が、「空・仮・中」の3諦に結びつくまでは、判りやすく説明されている。
 しかし、龍樹の言う「空」が私たちとの現実世界にどの様に関係するのか説明されていないのは残念なところ。
 しかし、それ以上に、この本がやっかいのは、その次に「唯識論」を持って来ている事である。「識」は、「現象」か「主観」かの区別は、先ほどの龍樹によれば、その区別して考えようとする論法自体が「空」であり、存在価値が無くなってしまう。では、「アーラヤ識はどうなるのか。」
 結局、著者は、「私は、ナーガリュージュの思想は共感を持って説明する事が出来るが、唯識思想と取り組む時は、批判精神が沸き立つのをどうする事もできない。」と悲鳴をもらしている。
 私は、「識は、主観をも包含する「現象」である。」と考える。
 また、「私たちが現象と捉えているあらゆるものが、そのアスペクト(位相)において、「真」とも「偽」とも定める事が出来ない『空』の存在である。」と考える。
 そうすれば、まず、「唯識論」を説明、「空論」をその後に説明すれば、定方氏の様なジレンマに陥る事もないと考える。
 つまり、「空思想」は、「唯識思想」を包含している。
 としれば、私たちが「認識出来ないもの」も含めて「空」となる。
 そして、アーラヤ識は、虚実を越えて、世俗から究極の真理に続く「識」なのであると考える。 
 ホテルでこの本を読みふけっていた翌日、12月16日のスクーリングは、朝早く大学に出かけたのに講師の先生は、急病で、来られず。
 代講の小野田先生が、眠い目を擦りながら、出てこられた。どうゆう訳か「アイコノグラフィー」の話から、「唯識論」について話された。
 「この世界は、私たちが意識していないものは、全て虚である。(机をパンパン叩いて)、こうして、音がして、こんな形をしているから机と認識するが、これまで一度も机を見た事がない人、これまで目が見えなかった人が机を見ても、それは机があるとは思わない。つまり、机はないのですよ。」
 なにやらインチキくさい説教坊主の様な感じで話されたが、その後、黒板に6と8の数字を書いた。
 「6と8の違いが判るかな~、つまり、6の上が閉じているのが8なんですよ。ほら、トポロジーというのがあるのですが、皆さんご存じですか。」
 私は、「トポロジー」という言葉を聞いて飛び上がる程、驚いた。
 「さすがは、小野田先生、私と同じことを考えられているのか、それとも、私の心が読めるのか。」
 先生の風貌は、どことなく神秘的である。存在自体がチベットの仏教という感じがある。それに不思議な匂いもする。
 先生が「トポロジー」の言葉を使用されたのは、「閉じた図形」という事から使われたのだと判ったが、実は、「トポロジー」は、現象が閉じられた存在であるという事を規定する時に私が概念として使用している数学用語だ。
 つまり、「世俗の真理」=「現象」=閉じられた空間という事である。
 以前にも色々書き込んだが、私達の「識覚」している「世界」は、3次元空間である。そこでは、「現象」は、「縁起」によって生起され、それが「真理」であるかの様に見える。
 しかし、哀しいかな私たちは、その経過を客観的に捉えて説明する事は出来ず、時間を輪切りにして比較した「変化」あるいは、その時点で「結果」と呼ばれるものを見て「言語」で考え、論理的な説明づけをしているが、結局は、龍樹の指摘した様な論理の矛盾に陥ってしまう。
 しかし、「現象」(閉じられた世界)の境界を越えた「涅槃」の境地にたてば、「究極の真理」として、時間を自由に行き来して観察出来るのである。
 それは、「ハッブルの膨張宇宙」の理論にも似ている。ハッブルの宇宙は、「トポロジー」の外側から見て、初めて認識出来る世界観である。
 先ほどの如来(tatha-agata)の真理は、小野田先生の語義的解釈に基づくものであるが、言葉そのものの、この様な世界観・宇宙観が包含されていると私は考えている。
 最後の書評も理屈っぽくなってしまったが、病気になってからずっと、「空が先か、識が先か」という問題について考え続けて来て、この書物や小野田先生によって愚かな私ながら、時間の経過と共に年の果てで行き着いた考えを書いてみたかったまでである。

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