空の思想史2008/01/15 23:56

 ホームレスのオジサンが配っている雑誌。『THE BIG ISSUE』は、実に高度な専門的な内容を持つ雑誌だ。これで売れるのか心配になる。
 やはり、その点が気になったと見えて、2号は、ずっと庶民的な内容となっている。
 『THE BIG ISSUE』1月1日号は、「ゼロを考えてみたくなった。」という事で、新年のゼロからのスタート、「ゼロ」特集だった。
 ゼロ・0と「空」とは、本来は異なっている筈だが、一般的には、その様な見方もある訳で、「空」思想の紹介がされており、国立民族学博物館教授立川武蔵氏が登場。
 何やら黒板の背景に関数が書かれている写真があり、「これは、ひょっとして面白いかも。」という事で、記事に紹介されていた『空の思想史』(立川武蔵著・講談社学術文庫)を早速、読んでみた。
 関数(Function)、中学校で最初にこの概念を習う。
 Xが入力で、f(関数)によって何らかの変化を受けて、Yの形で出力される。
 これを仏教に直せば、Xが「因」で、fが「縁」で、Yが「果」となる。
 アビダルマでは、世の中の事象が全て、この形の関数・因縁によって見られる。
 3次元になっても一緒である。ベクトルの出力の方向性が立体的になるだけだ。
 さて、そこで、Xが虚(ゼロではない)場合には、Y(出力)はどうなるのか。
 中観思想を唱えた龍樹は、当然、その様な因果関係は存在しないので、出力も虚、それどころか、関数自体も意味が無くなってしまう。
 Yは、この世の中の現象そのもので、それを産み出す、因果関係が止滅され、全ての縁起から解き放たれる境地、それが即ち覚りという事になる。
 この本にも紹介されているが、私の考え方は、チベットの学僧で『中観荘厳論』シャーンタラクシタに近い。
第1偈にある。
定義
「自派と他派が述べるこれらのもの(認識・外的実在性は、最高真理においては自性を欠く。」
理由
「単一な自性も多様な自性も存在しないから。それは例えれば、一瞬の内に無くなってしまう映像の様なものだから。」
 つまり、「空」とは、内的にも外的にも固定される様な属性は全て失われた状態である訳。
 この思想に従えば、そもそも空思想を関数に例えて説明する事自体が無理な筈である。
 2次元関数は、直線や曲線を現す。その構成される最小の要素は、点である。数学の授業で、「点とは大きさを持たない。」とか習ったが、私は、「大きさを持たないという事は存在しないという事ではないだろうか。そうすれば、点が一つの方向性を持って結ばれた線(これをアビダルマでは、次第縁と呼んでいる。)自体も存在しない事になる。」と幼い頃からずっと疑問で数学が嫌いになってしまった。
 「自性」を持たない状態、それは、物質を、最小の構成単位まで分解し、そこでは、属性が失われ、カオスの様な状態で、諸要素との包含関係で存在している状態を事を指している。この状態を、立川氏は、「とっくりの中の酒ではなくて、薄い革袋の中に入った水の様な状態」と表現している。
 何やら理解しがたいが、やはり、自性自体が存在しない状態は、閉じられた領域の中に存在していると見る考え方は、この間、「空と無我」のところで書いたトポロジー空間、ハッブル宇宙の様な世界と共通している。
 この本では、「空」理論は、龍樹の中観思想以前のインドヒンドゥ、インド仏教(初期から後期、そして中観派の登場まで)、初期大乗仏教における龍樹「中論」の位置づけ、チベット仏教、中国仏教、そして、日本仏教、更には井上円了から現代思想までの「空」思想の変遷を論考している。
 特に、この本で評価出来るのは、単なる理論の解説というよりも、「空」が著者やこの本の読者が存在している現代社会との関わり方にまで触れている事である。「空」思想の日本化は、天台・真言密教との関わり方から鎌倉仏教に至る段階で、既に日本人の思想の根幹に無意識であるが、大きな根を下ろしている事に気づかせられる。インド仏教からシャーンタラクシタ辺りの時代までは、龍樹の原典に忠実で、論(ダルマ)それ自体をも否定するものであったが、一度、現象の外に出て会得された「空」の境地は、やがて、再び現象世界に戻ってきて、現世的な力の根源となるという回帰性が、中国大乗仏教を経て、日本仏教に定着した。それは、大乗仏教の受容の中で、必然的な歴史的過程であったろう。
 龍樹は、「空」思想をあくまでも一般論として展開したのであるが、日本仏教での「空」は、教派思想の修行目的として位置づけられていく。
 この本は、非常に難解ではあるが、ユニークにこの過程を説明している点が他の解説書と違って評価出来る。

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