手振れ補正効果 ― 2008/12/04 09:05
いわば、総金属製のEOSのようなもんだ ― 2008/12/04 09:31
イカロス出版(2008年11月刊、税込み1500円)、この本は、1998年に出版されたものの、増補改訂版。
O系がなくなるので、急遽、出版された。面白いのは、O系がなくなるのは、21世紀早々と予想されていたが、実際には、それから8年程、生き延びたということ。
衝動買いした理由は、右の見開きページの前照灯と、空調吹き出し口の写真が買いたい心を直撃した。
0系の模型やオモチャ等で育って来たが、この前照灯の赤・オレンジの色と白いフェース、青いスカートは、最高の取り合わせだと思う。新鋭機では、レールスター等素晴らしい車両もあるが、この優雅なデザインには及ばない。
この新幹線が走り出した頃には、国内旅客航空便は、当然、プロペラ機であり、しかも、YS11も完成しておらず、バイカウントという飛行機がメインであった。
イギリスビッカース社の航空機で、ターボプロップ機。低空の視界が良いので、これで羽田に到着する時には、当時、未だ帆走していた帆掛け船の漁船等をみながら、着陸態勢に入るのが見えた。
国産機の開発技術が無い時代にこれだけの工業製品を開発することが出来たのは、奇跡だと思う。
特に見開きの中央部の空調吹き出し口の写真であるが、「金属製でノスタルジーを誘う」とあるが、当時は、こういった方法での車両空調ダクト設計自体が斬新であり、今でも新素材ではあるが、空調システムは、この技術が踏襲されている。
内装パネルは、全て金属製だが、現在の様な組み合わせの技術はなかったので、全てビス止めであった。そのビス1本にしても新幹線専用のものが新開発された。
また、車両外装に使用された沈頭ビョウは、零戦等、戦前の日本開発の航空機の技術が応用されている。
座席以外の内装は全て総金属製。
さぞかし重たい車両だったと思う。のぞみ等に乗車してトンネルを通過すると、空気圧で車両が変形しているのを壁際の席では感じられるが、この車両は、しっかりしている。
座席は非常に狭くて、これで東京まで3時間強の乗車はつらいものがあったが、新幹線の基本システムは、44年前に既に完成していたと言っても過言ではない。
凄いのは、従来の車両開発は、車両独自の性能を考慮して設計されるが、0系では、新幹線という交通システムを新たに創造するという観点から、総合システムとして設計された点である。
全て40年後を予見した工業製品と言える。いうならば、現在、合成樹脂製のEOS一眼レフが金属カメラの時代に総金属製で技術を結集して作り上げられたようなもんだと思う。
O系がなくなるので、急遽、出版された。面白いのは、O系がなくなるのは、21世紀早々と予想されていたが、実際には、それから8年程、生き延びたということ。
衝動買いした理由は、右の見開きページの前照灯と、空調吹き出し口の写真が買いたい心を直撃した。
0系の模型やオモチャ等で育って来たが、この前照灯の赤・オレンジの色と白いフェース、青いスカートは、最高の取り合わせだと思う。新鋭機では、レールスター等素晴らしい車両もあるが、この優雅なデザインには及ばない。
この新幹線が走り出した頃には、国内旅客航空便は、当然、プロペラ機であり、しかも、YS11も完成しておらず、バイカウントという飛行機がメインであった。
イギリスビッカース社の航空機で、ターボプロップ機。低空の視界が良いので、これで羽田に到着する時には、当時、未だ帆走していた帆掛け船の漁船等をみながら、着陸態勢に入るのが見えた。
国産機の開発技術が無い時代にこれだけの工業製品を開発することが出来たのは、奇跡だと思う。
特に見開きの中央部の空調吹き出し口の写真であるが、「金属製でノスタルジーを誘う」とあるが、当時は、こういった方法での車両空調ダクト設計自体が斬新であり、今でも新素材ではあるが、空調システムは、この技術が踏襲されている。
内装パネルは、全て金属製だが、現在の様な組み合わせの技術はなかったので、全てビス止めであった。そのビス1本にしても新幹線専用のものが新開発された。
また、車両外装に使用された沈頭ビョウは、零戦等、戦前の日本開発の航空機の技術が応用されている。
座席以外の内装は全て総金属製。
さぞかし重たい車両だったと思う。のぞみ等に乗車してトンネルを通過すると、空気圧で車両が変形しているのを壁際の席では感じられるが、この車両は、しっかりしている。
座席は非常に狭くて、これで東京まで3時間強の乗車はつらいものがあったが、新幹線の基本システムは、44年前に既に完成していたと言っても過言ではない。
凄いのは、従来の車両開発は、車両独自の性能を考慮して設計されるが、0系では、新幹線という交通システムを新たに創造するという観点から、総合システムとして設計された点である。
全て40年後を予見した工業製品と言える。いうならば、現在、合成樹脂製のEOS一眼レフが金属カメラの時代に総金属製で技術を結集して作り上げられたようなもんだと思う。
「あなたならどっちを選ぶ 食べる or 食べない」 ― 2008/12/04 22:59

佛教大学の黒田先生(教育学部)からお奨めを受けた映画だが、なかなか映画館に出かけるのが億劫で、今回、やっとみることが出来た。
映画館は、シネ・リーブル梅田
http://www.cinelibre.jp/umeda/theaterinfo/index.html
この映画の原作者である黒田先生(この映画と同じ体験というか教育を実践された)と学生達のディスカッションをビデオでみることが出来る。
http://www.bukkyo-u.ac.jp/
ある6年生の学級で豚を飼うことになり、どんどん肥え太っていくPちゃんを卒業間際になって、どうするか、迷うお話。
「命の教育」と言えば、簡単で聞こえも良いが、実際に豚の世話をするのは、大変だと思う。当然、そんな世話を続けていたら大人でも情が移ってしまう。
同じ命を持ったイキモノなのに何故、豚は食べられて、人間は食べる方なんだろう。
この不可解な問題は、実は、私にもどれが正しいということは出来ない。
仕事で、畜産農家等をたまに訪問する。また、これも佛教大学の内藤先生(当時は京都大学教授)が一時、関与されていたヤマギシズムのシンポジウムを取材しに、ヤマギシズムの農場を訪問した時にも感じたことである。
ここでは、小学校に入ると、子供は親から引き離されるというか、子供達のお父さん、お母さんは、その社会の全てで、全体から面倒をみてもらうという他の日本の社会にはみられない生活を送っている。
こうした子供達が家畜の世話をしている。子供達の共通の両親達や、動物も同じ社会の一員だという認識が持たれている。
家畜の飼料は、この映画にも出てきた様に残飯等のリサイクル飼料(現在では、エコフィードと言われている。)、家畜の糞尿は、有機肥料に生まれ変わる。高温発酵の熱は、鰻の養殖の為の温水熱源に使用される全く無駄がない。肥料は、野菜づくりに利用され、収穫された野菜は、共同食堂の食卓に並び、再ひリサイクル飼料となる。
母豚からの一貫肥育で、施設内の食肉処理場で、加工され、様々な畜産製品に生まれ変わる。
子供達は、動物を一生懸命に世話して、愛情も持っている。
豚はそれ程ではないが子牛等は、あまりにも可愛いので、哺乳期から育てると本当に人間の赤ん坊と同じ位に感じてしまう。
こうしたシステムの中では、牛や豚がと畜されることには、あんまり疑問を持たない。
別に洗脳されているというのではなくて、命の循環というものを生まれながらに身につけているので、なんら不思議には思わないようである。
しかし、この映画に出てくる東京の都会の小学校では、事情は異なっている。いきなり、エイリアンの様に子豚がやって来て、直ぐに、子供達の生活や価値観の中心的存在となる。様々な苦労は、そのまま愛情に変わっていく。
でも、その愛情は、犬猫ペットへの愛情と変わらない。残飯等を飼料として与えるということでリサイクルの大切さ等も学ぶが、先生の目的は、そんなことではない。愛情や苦労は、最大の課題のプロセスに過ぎない。
「豚を生かすべきか、殺すべき(食べるか)」の選択を子供達自身にさせるという過酷な体験教育の為である。
最終的には豚は、食肉処理場に送られていくが、最後にPちゃんの餞(せんべつ)のトマトを持って、豚を送り出す子供の気持ちはどうだったろうか。
赤いトマトはPちゃんの好物であるが、これは、命の象徴なんだ。
「あなたならどっちを選ぶ 食べる or 食べない」
私には、結論を出すことは出来なかった。映画の終わりにこんな用紙を提出するのだが、私は、この紙を持ち帰ってしまった。
畜産に近い仕事(業界紙の取材)をしていても、やはり、結論を出すのは難しいし、こんな仕事をしていて良いのだろうかと思うことさえある。
映画館は、シネ・リーブル梅田
http://www.cinelibre.jp/umeda/theaterinfo/index.html
この映画の原作者である黒田先生(この映画と同じ体験というか教育を実践された)と学生達のディスカッションをビデオでみることが出来る。
http://www.bukkyo-u.ac.jp/
ある6年生の学級で豚を飼うことになり、どんどん肥え太っていくPちゃんを卒業間際になって、どうするか、迷うお話。
「命の教育」と言えば、簡単で聞こえも良いが、実際に豚の世話をするのは、大変だと思う。当然、そんな世話を続けていたら大人でも情が移ってしまう。
同じ命を持ったイキモノなのに何故、豚は食べられて、人間は食べる方なんだろう。
この不可解な問題は、実は、私にもどれが正しいということは出来ない。
仕事で、畜産農家等をたまに訪問する。また、これも佛教大学の内藤先生(当時は京都大学教授)が一時、関与されていたヤマギシズムのシンポジウムを取材しに、ヤマギシズムの農場を訪問した時にも感じたことである。
ここでは、小学校に入ると、子供は親から引き離されるというか、子供達のお父さん、お母さんは、その社会の全てで、全体から面倒をみてもらうという他の日本の社会にはみられない生活を送っている。
こうした子供達が家畜の世話をしている。子供達の共通の両親達や、動物も同じ社会の一員だという認識が持たれている。
家畜の飼料は、この映画にも出てきた様に残飯等のリサイクル飼料(現在では、エコフィードと言われている。)、家畜の糞尿は、有機肥料に生まれ変わる。高温発酵の熱は、鰻の養殖の為の温水熱源に使用される全く無駄がない。肥料は、野菜づくりに利用され、収穫された野菜は、共同食堂の食卓に並び、再ひリサイクル飼料となる。
母豚からの一貫肥育で、施設内の食肉処理場で、加工され、様々な畜産製品に生まれ変わる。
子供達は、動物を一生懸命に世話して、愛情も持っている。
豚はそれ程ではないが子牛等は、あまりにも可愛いので、哺乳期から育てると本当に人間の赤ん坊と同じ位に感じてしまう。
こうしたシステムの中では、牛や豚がと畜されることには、あんまり疑問を持たない。
別に洗脳されているというのではなくて、命の循環というものを生まれながらに身につけているので、なんら不思議には思わないようである。
しかし、この映画に出てくる東京の都会の小学校では、事情は異なっている。いきなり、エイリアンの様に子豚がやって来て、直ぐに、子供達の生活や価値観の中心的存在となる。様々な苦労は、そのまま愛情に変わっていく。
でも、その愛情は、犬猫ペットへの愛情と変わらない。残飯等を飼料として与えるということでリサイクルの大切さ等も学ぶが、先生の目的は、そんなことではない。愛情や苦労は、最大の課題のプロセスに過ぎない。
「豚を生かすべきか、殺すべき(食べるか)」の選択を子供達自身にさせるという過酷な体験教育の為である。
最終的には豚は、食肉処理場に送られていくが、最後にPちゃんの餞(せんべつ)のトマトを持って、豚を送り出す子供の気持ちはどうだったろうか。
赤いトマトはPちゃんの好物であるが、これは、命の象徴なんだ。
「あなたならどっちを選ぶ 食べる or 食べない」
私には、結論を出すことは出来なかった。映画の終わりにこんな用紙を提出するのだが、私は、この紙を持ち帰ってしまった。
畜産に近い仕事(業界紙の取材)をしていても、やはり、結論を出すのは難しいし、こんな仕事をしていて良いのだろうかと思うことさえある。
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