文学と歴史と ― 2009/03/20 15:25
坪内捻典先生と原田文学部長によるBUまなび隊「明治の青春-伊予を愛した人々」というストリーミングビデオを視聴した。
http://www.bunet.jp/info/index4.html
この講演というかシンポジウムが2月7日に開催されたので、松山城と梅の花がクローズアップして撮影してあり、面白かった。
ビデオの内容は、やはり、こんな話が出てくるだろうなということであるが、やはり坪内先生のお話というのは、目を閉じて聴いていても判りやすい。つまり、そのまま活字化されても「売り物」になる話し方なので、凄いと思った。原田先生のお話も面白かったが、これを文章化した場合には、校正とか補筆、注が必要になってくると思う。
歴史と文学、そして明治時代ということだが、文学作品に描かれた歴史的情景と実際の史学的考証、研究とは異なるなるので、文学者と歴史学者の観点の相違が、今回の講演のあらましを聴いても出てくるので、そういった点が面白かった。
文学者&歴史学者←→読者=享受者=現代大衆
という関係が、ここには成立している。その史学的な分析内容をメカニックに示そうと思えば、学術論文となるが、読者、享受者、現代人に印象づけようとした途端にバイアスがかかってくるのである。
つまり、現代人の感性から、明治時代の人の考え方、習俗、社会的背景等をあたかも目前にした様に、アレンジして説明することになる。
歴史学は、「唯物」である。
一方、文学は、個々の人格による「唯識」によって生じた「現象」を、色々なフィルターにかけて、テキストとして抽出されたものである。
同じコーヒー豆を使用しても点て方で味が異なってくる訳である。
歴史学では、文学作品を歴史史料として分析する場合も出てくるだろう。そうなれば、どうしても史料への価値認識が生じてくるので、客観的な歴史記述ということは、不可能である。
つまるところ、個々の人間の感性の相違を越えた普遍的な事実として、一つの歴史的事情、人物の生き方を説明するということは、実に難しい作業であり、現代情報社会に一つの客観的な成果として示すことは、困難なのである。
それ故に、現代社会における文学や宗教の存在価値は希薄化しているのだと常々考えている。
http://www.bunet.jp/info/index4.html
この講演というかシンポジウムが2月7日に開催されたので、松山城と梅の花がクローズアップして撮影してあり、面白かった。
ビデオの内容は、やはり、こんな話が出てくるだろうなということであるが、やはり坪内先生のお話というのは、目を閉じて聴いていても判りやすい。つまり、そのまま活字化されても「売り物」になる話し方なので、凄いと思った。原田先生のお話も面白かったが、これを文章化した場合には、校正とか補筆、注が必要になってくると思う。
歴史と文学、そして明治時代ということだが、文学作品に描かれた歴史的情景と実際の史学的考証、研究とは異なるなるので、文学者と歴史学者の観点の相違が、今回の講演のあらましを聴いても出てくるので、そういった点が面白かった。
文学者&歴史学者←→読者=享受者=現代大衆
という関係が、ここには成立している。その史学的な分析内容をメカニックに示そうと思えば、学術論文となるが、読者、享受者、現代人に印象づけようとした途端にバイアスがかかってくるのである。
つまり、現代人の感性から、明治時代の人の考え方、習俗、社会的背景等をあたかも目前にした様に、アレンジして説明することになる。
歴史学は、「唯物」である。
一方、文学は、個々の人格による「唯識」によって生じた「現象」を、色々なフィルターにかけて、テキストとして抽出されたものである。
同じコーヒー豆を使用しても点て方で味が異なってくる訳である。
歴史学では、文学作品を歴史史料として分析する場合も出てくるだろう。そうなれば、どうしても史料への価値認識が生じてくるので、客観的な歴史記述ということは、不可能である。
つまるところ、個々の人間の感性の相違を越えた普遍的な事実として、一つの歴史的事情、人物の生き方を説明するということは、実に難しい作業であり、現代情報社会に一つの客観的な成果として示すことは、困難なのである。
それ故に、現代社会における文学や宗教の存在価値は希薄化しているのだと常々考えている。
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