ガリレオの指は、「空」を指しているのだと理解した2009/03/22 22:13

『ガリレオの指』(ピーター・アトキンス,2008,第8版,早川書房)
http://fry.asablo.jp/blog/2009/01/26/4082496

もう読み始めて4ヶ月近く経過するが、ようやくエネルギーの章まで読み終えた。この本を理解するには、量子力学から時空論まで読み進まなければ、全体を理解したとは言えないだろう。

結局、20世紀科学史の概論書というか、そうした概論を読んでいくことで、「科学とは一体なんだろう。どんな方向を目指しているんだろう。」と長いガリレオの骸骨の指に象徴される科学の意義というか哲学論である。

こんな本が、横書きではなくて縦書きで訳本なので、非常に判りにくく理解しがたい。独自の観点から20世紀科学をみているのでもなくて、研究史の羅列である。

私には、少し、この本は難し過ぎる。でも理系の人でもこんな本よりも数式や図式を判りやすく解説してあれば、それで良いだろう。

DNAの構造をX線撮影で映し出した女性の研究者が不幸にも子宮癌で39歳で死亡したとか、理論の上では、どうでもよい(こちらの方が私は興味を持ってしまう)こと等も書かれており、また、ケンブリッジ大学でのアカハラやセクハラ等も科学の研究からみれば関係ないだろう。

しかし、実際に人のゲノムが解読されたと言っても、それは、最大公約数的な塩基構造が解明されたということで、それが、果たしてどの様に作用しているのか。また、この複雑な螺旋構造自体がなにを意味しているのか。

人間よりももっと下等な生物の方が、塩基配列が長大で複雑な構造を持っているものが存在するのは、なんでだろうか。

結局、DNAは、何故、あるのか、そういった疑問に対して科学は答えを出していない。これは、ガリレオの時代と変わらない訳だ。

アリストテレスの言う「科学的現象」とは、理論で説明が出来ることが前提であった。しかし、ガリレオは、「理論で説明がつかないことの理由を見つけ出すには、どの様なテクニックが必要であるのか。」といった方向を指差している。

つまり、科学は、真理の解明そのものではない。科学は、真理を知ろうとする我々にその方法手段を提供してくれるだけであり、真理を覚るのは、私たち個々の「知性・フォース」である。

 著者は、以下の様なことばでこの本の最後を締めくくっている。

「宇宙は、そして、そこに含まれるものは全て、数学にほかならず、物理的な実在が数学が荘厳なまでに形をとった姿なのだ。この様な考え方は、超ネオ・プラトン主義とでも呼ぶべき極端なプラトン主義で、(別のところで)私は、「深層構造主義」と名づけている。我々に実体をもって見えるもの--土、空気、火、水--は、結局、算術にすぎないのだ。もしそのとおりなら、ゲーデルの定理は、宇宙全体に当てはまるといっても良い。宇宙が真に自己矛盾していないかどうかは、知りようがないのである。宇宙が自己矛盾しているとすれば、未来のある時点で突然終わりを迎えるだろう。矛盾が疫病のように宇宙の構造全体に広がっていくにつれ、論理が混乱をきたし、構造は錆びた鉄のごとく失われる。
 存在するすべてのものは、来し方、つまり、あの、まったくの無という圧倒的な威力をもつ概念である空集合へ戻るのだ。

 われわれは、その無の威力の恩恵にあずかっている。この見方がいくらかでも妥当なら、我々を取り巻く一切合切は、無から生まれ、われわれの感覚を通して現れることになる。そしてガリレオのビジョンを受け継ぎ、彼の指がたどった先にある「科学」によって研ぎ澄まされた知性のおかげで、その感覚の喜びは深まるのである。これほど心動かされ、これ程、素晴らしいことを私は他に思いつかない。」

 科学や数学が、それぞれ発見されたエントロピーの存在意義を説明出来ないのならば、それを知ることが出来るのか、否かは、私の様な凡人は無論、例えば、死の間際にダビンチがあの手帳や紙切れの断片に書きまくり続けた大津波の絵が何を意味するのか、あるいは、アルムニアムンディの理想を音楽世界に求め続けたアルキメデスからバッハに至るまでの音楽史の流れ、最後にフーガを書きかけで投げ出した巨匠の死に顔、全てが重なってくるのである。

 結局、一切は空なのだ。

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