アノミー的自殺とはありえることなのか ― 2009/06/04 00:36
さっきまでウォシュレットが壊れて、その修理と掃除に明け暮れていて、ふいにアノミーについて考えてしまった。
前にもこのブログに書いたと思うが、デュルケムの『自殺論』の中で、アノミー的自殺というのが挙げられている。
アノミーというのは、「現象」でアノミアは、「アノミー現象」を導く要因であり、仏教でいうと縁起とか因果といったものか。
一般的にアノミー現象とは、社会に対する「個人」の欲求の実現が困難な時に、自暴自棄的な逸脱行為を引き起こす、反社会的行動であり、クスリや、犯罪、自殺、あるいは、暴走等の集団的行為も含まれると考えられる。
デュルケムの『自殺論』の自殺の要因として、能動的行為としての
①集団本意的自殺(これって凄いなぁ、例のネットとか練炭とかも含まれるのか。戦時中の特攻行為も含まれるのか。)
②アノミー的自殺
③自己本位的自殺(自殺は本来自己本位的なものではないだろうか。この分類も妙だな。)
を挙げている。
しかし、どうなんだろうか?これって分類になっているのだろうか。見ず知らずの人が集まって練炭パーティーで死ぬ行為、あるいは、近松浄瑠璃のある作品の様に、お互いに時刻を示し合って、その時刻が来たら、別々の場所で念仏を唱えながら自殺する行為等もあり、自殺には、集団と個人の区別が難しい場合だってある。また、アノミー的自殺は、集団的能動的自殺とは異なるという。しかし、この世の中に絶望した青年達が一緒に死を選ぶ行為は、どうなんだろうか。たしかに行為の性格は能動的だとしても、その要因は、受動的であったり、利己的であったりする。
人間の心理は非常に複雑である。アノミー現象としての定義は、社会学では、定説とされているけれども、アノミアは、実証されていない。つまり、原因は、究明されないのに(デュルケムの時代からちっとも進歩していない。)、結果のみが論じられている訳である。私は、たしかにアノミアというのは、存在すると思う。そして、その分類例として、
①意識下のアノミア
②無意識下のアノミア
の2類型に分類されると思う。
つまり、「欲求が充足されていないなぁ、だから、やけっぱちだぁ、やってしまえ。」というのと、欲求不満を意識していないが、それは、無意識化のストレスとして蓄積される。そうして潜伏したままで、理解不可能な行為に及んでしまう。という場合もあると思う。
特に社会犯罪の場合は、②の無意識化のアノミアが原因となっている例がかなり高いと思う。最近では、K教育大学の学生達によるレイプ事件が発生したが、私立名門の某大学でも同様の事件が起こっている。之は、別に連絡を取り合った訳でも示し合わせた訳でもないが、教育という本来は、高邁な理想を掲げ、自他の行動の分析能力があり、規範的な行為を求められる教師の卵達が、同じ犯罪行為を同じ様な状況下で起こしている。
酒の為に、理性が崩壊したのだろうか。そうではないと思う。
彼らが、無意識化のアノミアによって行動を起こしているのだろうと思う。
逸脱行動を採ることにより、自分たちがどうなるか、「判っていて意識せずに」犯罪を犯してしまうのだ。
意識化であれば、集団としての利害関係を意識する為にこの様な行動パターンは採らないだろう。同じレイプ犯罪を行うにしても、知能犯罪的な周到な準備と隠匿が伴う筈だ。
ここで注目されるのは、意識化のアノミアも集団伝播性を有するが、無意識化のアノミアは、高病原性インフルエンザの様に集団伝播性は恐ろしく高いということである。
同じ様な社会的や欲求不満を無意識の内に抱えている階層の増加により、それが、欲求不満と認識せずに、無意識のアノミアを誘発し、逸脱や無規範の行為が行われていく訳である。
一番、恐いのは、こういった社会病理現象は、表面現象だけを観察する現代の臨床社会学では発見しにくことである。
心理学や精神病理学等とも連携して、究明を進めていく必要があると考える。
そうした協調により、これまで不可解とされてきた数々の犯罪や社会病理の現象が究明されていくのだと私は思う。
前にもこのブログに書いたと思うが、デュルケムの『自殺論』の中で、アノミー的自殺というのが挙げられている。
アノミーというのは、「現象」でアノミアは、「アノミー現象」を導く要因であり、仏教でいうと縁起とか因果といったものか。
一般的にアノミー現象とは、社会に対する「個人」の欲求の実現が困難な時に、自暴自棄的な逸脱行為を引き起こす、反社会的行動であり、クスリや、犯罪、自殺、あるいは、暴走等の集団的行為も含まれると考えられる。
デュルケムの『自殺論』の自殺の要因として、能動的行為としての
①集団本意的自殺(これって凄いなぁ、例のネットとか練炭とかも含まれるのか。戦時中の特攻行為も含まれるのか。)
②アノミー的自殺
③自己本位的自殺(自殺は本来自己本位的なものではないだろうか。この分類も妙だな。)
を挙げている。
しかし、どうなんだろうか?これって分類になっているのだろうか。見ず知らずの人が集まって練炭パーティーで死ぬ行為、あるいは、近松浄瑠璃のある作品の様に、お互いに時刻を示し合って、その時刻が来たら、別々の場所で念仏を唱えながら自殺する行為等もあり、自殺には、集団と個人の区別が難しい場合だってある。また、アノミー的自殺は、集団的能動的自殺とは異なるという。しかし、この世の中に絶望した青年達が一緒に死を選ぶ行為は、どうなんだろうか。たしかに行為の性格は能動的だとしても、その要因は、受動的であったり、利己的であったりする。
人間の心理は非常に複雑である。アノミー現象としての定義は、社会学では、定説とされているけれども、アノミアは、実証されていない。つまり、原因は、究明されないのに(デュルケムの時代からちっとも進歩していない。)、結果のみが論じられている訳である。私は、たしかにアノミアというのは、存在すると思う。そして、その分類例として、
①意識下のアノミア
②無意識下のアノミア
の2類型に分類されると思う。
つまり、「欲求が充足されていないなぁ、だから、やけっぱちだぁ、やってしまえ。」というのと、欲求不満を意識していないが、それは、無意識化のストレスとして蓄積される。そうして潜伏したままで、理解不可能な行為に及んでしまう。という場合もあると思う。
特に社会犯罪の場合は、②の無意識化のアノミアが原因となっている例がかなり高いと思う。最近では、K教育大学の学生達によるレイプ事件が発生したが、私立名門の某大学でも同様の事件が起こっている。之は、別に連絡を取り合った訳でも示し合わせた訳でもないが、教育という本来は、高邁な理想を掲げ、自他の行動の分析能力があり、規範的な行為を求められる教師の卵達が、同じ犯罪行為を同じ様な状況下で起こしている。
酒の為に、理性が崩壊したのだろうか。そうではないと思う。
彼らが、無意識化のアノミアによって行動を起こしているのだろうと思う。
逸脱行動を採ることにより、自分たちがどうなるか、「判っていて意識せずに」犯罪を犯してしまうのだ。
意識化であれば、集団としての利害関係を意識する為にこの様な行動パターンは採らないだろう。同じレイプ犯罪を行うにしても、知能犯罪的な周到な準備と隠匿が伴う筈だ。
ここで注目されるのは、意識化のアノミアも集団伝播性を有するが、無意識化のアノミアは、高病原性インフルエンザの様に集団伝播性は恐ろしく高いということである。
同じ様な社会的や欲求不満を無意識の内に抱えている階層の増加により、それが、欲求不満と認識せずに、無意識のアノミアを誘発し、逸脱や無規範の行為が行われていく訳である。
一番、恐いのは、こういった社会病理現象は、表面現象だけを観察する現代の臨床社会学では発見しにくことである。
心理学や精神病理学等とも連携して、究明を進めていく必要があると考える。
そうした協調により、これまで不可解とされてきた数々の犯罪や社会病理の現象が究明されていくのだと私は思う。
賢治の「運命交響曲」 ― 2009/06/04 09:46
NAXOS8.111003「ヴィルヘルム・フルトヴェングラー初期録音第2集」を聴いている。
このCDには、1926年にフルトヴェングラーが初めて録音したベートーヴェン交響曲第5番ハ短調「運命」が収載されている。
フルトヴェングラーの戦前の「運命」の録音は、たしか3~4種類(ライブを含めて)存在したと思うが、この録音は、フルトヴェングラーが音質等出来映えに難色を示して、直ぐにお蔵入りとなり、SPレコードとして市販された時期は案外短かった。直ぐに1937年録音の「運命」がこれにとって換わった為。
たしかにこの1926年の「運命」は、一応、電気録音であるが、マイク録音ではなく、アメリカのブランスウィック社が開発した「ライトレイ録音」という方式で録音されている。これは、トーキームービーが最初に登場した時に採用された音声収録システムであり、原音は振動板に伝えられ、その振動板から伸びる針がフィルムに軌跡を刻む。再生する時は、その軌跡に光を当てて、その光の強弱を電流信号の変化に換えて、増幅するといったシステム。
従って、音質は、マイク録音に比べてレンジは狭く、1929年辺りから使用され出した電気録音方式(マイク)に比べて、かなり落ちる。
しかし、このCDは、ノイズは少なく、マイクは、オンマイクであり、各楽器の音が、鮮明に聞き取れるので、エコーが加わった後年の録音に比べて、フルトヴェングラーの指揮の特色は一層露わにされる。
また、ベルリンフィルも黄金メンバーでナチスがユダヤ人の楽員を追放する以前の一糸乱れないアンサンブルを聴くことが出来る。
演奏を技術面から評価すると非常に優れたもので、戦前、戦後を通してみてもトップクラスであると思う。また、フルトヴェングラーの指揮も、この頃は、霊媒師の様な感じではなくて、明確にタクトを振っていたと思われ、アインザッツ等も綺麗に揃っている。
ところで、この1926年録音のフルトヴェングラー指揮交響曲第5番のSPレコードを聴いていたのである。
宮沢賢治は、昭和2年にレコード交換会を開催しているが、その折りにもベートーヴェン第5交響曲という名称がみられる。(「運命」というタイトルはない。)この時の第5交響曲は誰の演奏であった判らない。昭和2年というのは、1927年にあたる訳で、フルトヴェングラーが最初の第5の録音を行ったのが、1926年であるので、このSP版の事ではない筈だ。
http://www.kanzaki.com/music/cahier/schicksal0407
宮沢賢治のSPレコード収集レパートリーがWEBで発表されている。
http://www32.ocn.ne.jp/~tsuzu/operetta-kenjisp.html
この中で、J.パスターナック指揮ビクター・コンサート管弦楽団の第5がリストにあるが、1916~1917年録音とあるので、これの盤か、1913年録音のアルトゥール・ニキッシュ指揮ベルリンフィルのSPである可能性がある。
このCDも賢治のコレクションの中にあり、POL60024/08という5枚組みのSPである。友人に寄贈したとされている。
賢治は、1933年に亡くなっているので、この1937年録音のフルヴェン「運命」を耳にすることなく世を去っている。
賢治がもし、1940年頃まで在世しており、この録音を聴いたら、どんな感想を述べただろうか。1930年代は、ビクター赤盤の時代に入り、どんどん名曲がSPレコードで発売された時代であった。きっと、長生きして、綺羅星の様な演奏家の名録音を聴きたかったに違いない。
事実、宮沢賢治は、この時代にしては驚くほど広範囲のコレクションをしており、当時の現代作曲家であったR..STRAUSの交響詩ドン・ファンや死と浄化といった作品も含まれているし、ドビッシーの牧神の午後等のフランス音楽も含まれている。
面白いのは、結構、オタクレパートリーであるストコフスキー指揮のイッポリトフ・イワノフの管弦楽組曲「コーカサスの風景」があり、この中の酋長の行列等は、賢治の童話、メルヘンの世界にぴったりだ。
このCDには、1926年にフルトヴェングラーが初めて録音したベートーヴェン交響曲第5番ハ短調「運命」が収載されている。
フルトヴェングラーの戦前の「運命」の録音は、たしか3~4種類(ライブを含めて)存在したと思うが、この録音は、フルトヴェングラーが音質等出来映えに難色を示して、直ぐにお蔵入りとなり、SPレコードとして市販された時期は案外短かった。直ぐに1937年録音の「運命」がこれにとって換わった為。
たしかにこの1926年の「運命」は、一応、電気録音であるが、マイク録音ではなく、アメリカのブランスウィック社が開発した「ライトレイ録音」という方式で録音されている。これは、トーキームービーが最初に登場した時に採用された音声収録システムであり、原音は振動板に伝えられ、その振動板から伸びる針がフィルムに軌跡を刻む。再生する時は、その軌跡に光を当てて、その光の強弱を電流信号の変化に換えて、増幅するといったシステム。
従って、音質は、マイク録音に比べてレンジは狭く、1929年辺りから使用され出した電気録音方式(マイク)に比べて、かなり落ちる。
しかし、このCDは、ノイズは少なく、マイクは、オンマイクであり、各楽器の音が、鮮明に聞き取れるので、エコーが加わった後年の録音に比べて、フルトヴェングラーの指揮の特色は一層露わにされる。
また、ベルリンフィルも黄金メンバーでナチスがユダヤ人の楽員を追放する以前の一糸乱れないアンサンブルを聴くことが出来る。
演奏を技術面から評価すると非常に優れたもので、戦前、戦後を通してみてもトップクラスであると思う。また、フルトヴェングラーの指揮も、この頃は、霊媒師の様な感じではなくて、明確にタクトを振っていたと思われ、アインザッツ等も綺麗に揃っている。
ところで、この1926年録音のフルトヴェングラー指揮交響曲第5番のSPレコードを聴いていたのである。
宮沢賢治は、昭和2年にレコード交換会を開催しているが、その折りにもベートーヴェン第5交響曲という名称がみられる。(「運命」というタイトルはない。)この時の第5交響曲は誰の演奏であった判らない。昭和2年というのは、1927年にあたる訳で、フルトヴェングラーが最初の第5の録音を行ったのが、1926年であるので、このSP版の事ではない筈だ。
http://www.kanzaki.com/music/cahier/schicksal0407
宮沢賢治のSPレコード収集レパートリーがWEBで発表されている。
http://www32.ocn.ne.jp/~tsuzu/operetta-kenjisp.html
この中で、J.パスターナック指揮ビクター・コンサート管弦楽団の第5がリストにあるが、1916~1917年録音とあるので、これの盤か、1913年録音のアルトゥール・ニキッシュ指揮ベルリンフィルのSPである可能性がある。
このCDも賢治のコレクションの中にあり、POL60024/08という5枚組みのSPである。友人に寄贈したとされている。
賢治は、1933年に亡くなっているので、この1937年録音のフルヴェン「運命」を耳にすることなく世を去っている。
賢治がもし、1940年頃まで在世しており、この録音を聴いたら、どんな感想を述べただろうか。1930年代は、ビクター赤盤の時代に入り、どんどん名曲がSPレコードで発売された時代であった。きっと、長生きして、綺羅星の様な演奏家の名録音を聴きたかったに違いない。
事実、宮沢賢治は、この時代にしては驚くほど広範囲のコレクションをしており、当時の現代作曲家であったR..STRAUSの交響詩ドン・ファンや死と浄化といった作品も含まれているし、ドビッシーの牧神の午後等のフランス音楽も含まれている。
面白いのは、結構、オタクレパートリーであるストコフスキー指揮のイッポリトフ・イワノフの管弦楽組曲「コーカサスの風景」があり、この中の酋長の行列等は、賢治の童話、メルヘンの世界にぴったりだ。
月面低高度撮影 ― 2009/06/04 10:22
前回、かぐやの月面落下衝突についてアップしたが、やはり、徐々に軌道が低高度化し、衝突軌道に移行する段階が今は続いているが、月面高度20㎞前後の超低空の写真をハイビジョンで撮影を開始したようだ。
これまで、超低空の月面写真がアポロが撮影したものがあったが、ハイビジョン動画は、今回が初めてであり、かぐや探査の最後の活動を飾るものとして相応しい。これは、アントニアジクレーターの映像。
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