中国浄土教と地蔵信仰・地蔵菩薩造像の関連について ― 2009/06/25 00:01
今、インドと中国の地蔵信仰について研究しているが、グラフは、竜門石窟の時代・種類別の仏像の数を測定して、その割合をグラフに現したものである。
北魏時代は、5世紀の末から6世紀の初めに造像された仏像が中心である。この時代の石窟の仏像数の分布をみれば、釈迦が50%、弥勒が41%、無量寿が9%、阿弥陀、地蔵は、0%となっている。
唐時代は、7世紀の後半から8世紀の初頭に造像された仏像が中心となっているが、なんと阿弥陀が80%、地蔵が5%、釈迦が7%、弥勒が8%と釈迦と弥勒が激減して、阿弥陀仏の割合が徹底的に増えてくる。また、これまで0%であった地蔵が5%程度みられる様になる。
また、中国浄土教史からみれば、特筆すべき時期に当たり、法然上人が宗祖としてあがめ奉った善導(613~681年)の晩年の時期に当たる。善導が導綽に観無量寿経の教えを受けて、長安に出て、阿弥陀経10万巻の書写、布教を行ったのもこの時期であり、中国浄土教が隆盛を迎えるのもこの時期である。そういった仏教文化の潮流が竜門石窟の造仏にもはっきりと認められるのは興味深いことである。
尚、面白いのは、中国での地蔵菩薩の信仰は、浄土教と密接な関係を持っている点である。来世の極楽往生は、阿弥陀如来に託すとしても、既に末法の世に入り、その衆生をこの世で救済する半ば対照的な存在として地蔵菩薩の信仰が浮上してくるのだろう。
日本も8世紀の後半から平安時代初期にかけて、薬師信仰が活発となるが、薬師如来も十一面観音と共に現世救済の象徴であり、それに付随するものとして、地蔵菩薩信仰も芽生えてくる。この地蔵信仰は、中世以降の地域信仰やシャーマニズムとの結びつきとは離れた位置にあったと考えられ、むしろ大陸渡来の新しい菩薩としての信仰であったようだ。
その名残を私たちは、元室生寺にあったとされる平安時代前期の地蔵菩薩立像に求めることが出来る。その菩薩自体も安藤先生が「大陸的な」と評された様なエキゾチックな様子をしている。私には、そのお姿は、やはり、救済の光が特に身体を取り囲み、法然上人が感得した善導大師を彷彿とさせる面影を認めるのである。
そうして、その光背の部分には、宝相華が華麗に描かれている。
宝相華の装飾としての素晴らしさについては、この間も安藤先生の論文を紹介したが、その生命力と荘厳の関係は、実は、無量光寿の輝きにつながるとみられ、その様な光背が地蔵菩薩の荘厳にあるということは、竜門石窟においての阿弥陀仏と地蔵菩薩の関係、大陸における浄土信仰と地蔵信仰のあり方を示唆しているのではないだろうか。
その様な唐時代の大陸の阿弥陀、地蔵信仰が忘れられ、地蔵信仰の「日本化」の過程の中で、室生寺の地蔵菩薩も別のところに移され、子安地蔵としての安産祈願等の対象に変わっていったのも興味があるところである。
仏像が生き続けるということは、私たちの信仰と共に生き続けることで、その外形はもとのままでも、民衆の心情の中に生きる救済者である「地蔵菩薩のお姿」は、常に変化し続けているのだと思う。
北魏時代は、5世紀の末から6世紀の初めに造像された仏像が中心である。この時代の石窟の仏像数の分布をみれば、釈迦が50%、弥勒が41%、無量寿が9%、阿弥陀、地蔵は、0%となっている。
唐時代は、7世紀の後半から8世紀の初頭に造像された仏像が中心となっているが、なんと阿弥陀が80%、地蔵が5%、釈迦が7%、弥勒が8%と釈迦と弥勒が激減して、阿弥陀仏の割合が徹底的に増えてくる。また、これまで0%であった地蔵が5%程度みられる様になる。
また、中国浄土教史からみれば、特筆すべき時期に当たり、法然上人が宗祖としてあがめ奉った善導(613~681年)の晩年の時期に当たる。善導が導綽に観無量寿経の教えを受けて、長安に出て、阿弥陀経10万巻の書写、布教を行ったのもこの時期であり、中国浄土教が隆盛を迎えるのもこの時期である。そういった仏教文化の潮流が竜門石窟の造仏にもはっきりと認められるのは興味深いことである。
尚、面白いのは、中国での地蔵菩薩の信仰は、浄土教と密接な関係を持っている点である。来世の極楽往生は、阿弥陀如来に託すとしても、既に末法の世に入り、その衆生をこの世で救済する半ば対照的な存在として地蔵菩薩の信仰が浮上してくるのだろう。
日本も8世紀の後半から平安時代初期にかけて、薬師信仰が活発となるが、薬師如来も十一面観音と共に現世救済の象徴であり、それに付随するものとして、地蔵菩薩信仰も芽生えてくる。この地蔵信仰は、中世以降の地域信仰やシャーマニズムとの結びつきとは離れた位置にあったと考えられ、むしろ大陸渡来の新しい菩薩としての信仰であったようだ。
その名残を私たちは、元室生寺にあったとされる平安時代前期の地蔵菩薩立像に求めることが出来る。その菩薩自体も安藤先生が「大陸的な」と評された様なエキゾチックな様子をしている。私には、そのお姿は、やはり、救済の光が特に身体を取り囲み、法然上人が感得した善導大師を彷彿とさせる面影を認めるのである。
そうして、その光背の部分には、宝相華が華麗に描かれている。
宝相華の装飾としての素晴らしさについては、この間も安藤先生の論文を紹介したが、その生命力と荘厳の関係は、実は、無量光寿の輝きにつながるとみられ、その様な光背が地蔵菩薩の荘厳にあるということは、竜門石窟においての阿弥陀仏と地蔵菩薩の関係、大陸における浄土信仰と地蔵信仰のあり方を示唆しているのではないだろうか。
その様な唐時代の大陸の阿弥陀、地蔵信仰が忘れられ、地蔵信仰の「日本化」の過程の中で、室生寺の地蔵菩薩も別のところに移され、子安地蔵としての安産祈願等の対象に変わっていったのも興味があるところである。
仏像が生き続けるということは、私たちの信仰と共に生き続けることで、その外形はもとのままでも、民衆の心情の中に生きる救済者である「地蔵菩薩のお姿」は、常に変化し続けているのだと思う。
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