応身のブッダは、ナタン系のイエスの上に光り輝き、洗礼者ヨハネの口を通して説法を続ける ― 2009/09/28 22:58
「ハイジ!、あたし、歩けるのよ!」(クララ)
「凄いわー、本当なのね。」(ハイジ)
「ああ、神様!」(クララの祖母)
「ワシが言ったとおりだったじゃろ。アルムの山の自然と神様のおかげなんじゃ。」
これは、皆さんご存じの「アルプスの少女ハイジ」のクライマックスの場面である。
この話は、シュタイナー思想とは直接は、関係ないと思われるが、当時のドイツ文化圏の思想的背景をうまく表現していると思う。
この小説は、単なる児童文学ではなくて、教育・思想文化の深層のメタファーでもあると私は考えるのである。
その根拠について説明すると、19世紀中葉から後半のドイツ文化圏、それは、キリスト教理性主義、カソリックの厳格主義、そうして、近代科学の合理主義の支配された文化の元に人々は生活していた。
クララが暮らしたフランクフルトアムマインでもこの傾向は例外ではなく、ドイツ合理主義・厳格主義の権化とも言えるロッテン・マイヤー女史の元で、クララは歩ける様になる術もなかった。ところが、神の自然の申し子というべきハイジが突然現れて、状況は一変した。ロッテン・マイヤーとハイジの衝突は悲劇的であったが、同時にクララの祖母は、ハイジの姿を見て、新しい何かを感じ取っていた....
シュタイナーの教育理論も、私なりに解釈すれば、神智の元で、子供達の感性を情操や体験教育で発露させることで、これまでの性悪説的観点からの管理主義、懲罰主義的教育では得られなかった教育方法を目指している。
日本にもシュタイナーの教育理論は、入って来たが、それは外形的なものであり、佛教大学の先生方も研究されているが、それは、教育思想史的な側面、あるいは、単なる教育システムとしての理解に止まっていると言わざるを得ない。
「神智主義」については、古くは、ゲーテ等の思想にも見えており、小林秀雄等もそれらの思想について論じているが、これも外面的理解にとどまっている。
○一体、「神智主義」は、どこから来たのだろうか。
この問題について、『シュタイナー仏教論集』では、大きな解決に向けたヒントを与えてくれる。
近代科学技術とキリスト教の理想主義との対立は、当時のドイツでも一層強まるばかりであった。ニーチェは、「神は死んだ。」と言い、後期浪漫派の芸術音楽の世界に目を馳せると、1911年には、グスタフ・マーラーは、この代の決別とも言うべき、絶望的な交響曲を残したが、結局、それは、キリスト教的なアルモニア・ムンディの理想に基づく響和音で終わらざるを得なかった。それよりも以前に死んだアントン・ブルックナーは、世界をあるがままに捉え、死に向かう弛緩の音楽の中で、最後まで未解決なドグマを反物質的な不協和音を最強奏させることで表現しようとしたが、結局、「神智」の世界に至ることは出来なかった。
一方、ヨーロッパの思想研究では、そういったキリスト教的な文化の限界を突き破る為にも異文化・宗教の研究が活発になっていった。
仏教の研究もそうであり、「ブッダの教え」については、やはり天才的な思想家による究極の合理主義という考え方と捉えられたが、その後に続く、菩薩や如来が支配する大乗仏教にちては、近代ヨーロッパの合理主義的な理解を逸脱していた。
ところが、キリスト教の一部の神秘主義(神智主義の萌芽ともいうべきか)の観点から、六波羅蜜や菩薩業、如来による救済というものを、文化を越えて理解する様に務めた結果、実は、菩薩の一切利他の精神、あるは、観音の救済は、聖母マリアが果たした役割、あるいは、12使徒も菩薩業を行ったと解釈する考え方生まれて来た。
シュタイナーは、この書物で、ヨハネやルカ、パウロ等の思想と行動を大乗仏教の思想になぞらえているし、一層の有情(生命)には、「仏性」が存在し、菩薩の光(言い換えれば、キリスト教的な神智)を当てることで、あらゆる人達を救済出来るし、子供達の可能性を伸ばせるのではないかと気づいたわけである。
この本が書かれた時代、それは、先ほど述べたグスタフ・マーラーが光明を壮大な交響曲の音楽世界に求めようと絶望的な最後の戦いを繰り広げていた1910年前後である。
その中で、「ブッダとキリスト教」、「ブッダとイエス」、「ブッダと菩薩」、「いま、ブッダは何をしているのか。」、「ブッダの教えと修行」、「弥勒菩薩」等の論文を書き綴っている。
「『ルカ福音書』を自分のうちに、作用させると、この福音書の中に含まれているもの総てが、巨大で圧倒的な霊的世界として、自分に向かって流れてくるのを感じる様になる。仏教的世界観が、すべてこの福音書に流れ込んでいるからである。このことは、霊的な探求によって、明らかにされている。『ルカ福音書』から流れでるものは、仏教だ。」(ブッダとキリスト教より)
「人類は長い時間の経過の中で、何を失ったのだろうか。エーテル体の器官を使用する能力を失ったのである。人類は次第に、物質体の外的な器官のみを使用し、物質体が伝えるものをアストラル体の中で、思考、感覚、感受、表象として体験することで満足しなければならなくなった。それらすべてが、ブッダの偉大な心魂を通して、体験されたものの、表現として現れた。」
「生命への欲望と呼ばれるもののなかに、ブッダは、以前の受肉に由来し、人間を世界の享受へと駆り立てるもの、色彩と音、その他の印象の世界をさまようだけでなく、この世界を切望するものを見た。それは、前世から一つの傾向、力として人間の中に存在するものである。
」
「応身のブッダは、ナタン系のイエスの上に光り輝き、洗礼者ヨハネの口を通して説法を続ける。洗礼者ヨハネの語ることは、ブッダの霊感から発している。ヨハネの語る言葉は、すべてブッダの語った言葉の続きである。」’(ヨハネとブッダ)
大乗仏教の如来、菩薩思想とキリスト教のイエスと12使徒がここでは、融合して存在している。衆生救済の考え方は、キリスト教も大乗仏教も共通しているとの見通しになっている。
全人類救済の真理として、キリスト教と如来菩薩思想は、同じ地平に立っているという観点である。
シュタイナー教育思想には、この様な深い大乗仏教への理解が根底にあるという事実をこの本は気づかせてくれる。
クララが歩きたいとする心、ハイジやお婆さん、クララが歩ける様になると願う心が世界の根底に息づいている菩薩業の衆生救済の真意がくみとり、一切有情のものである自然の息吹の生命力を借りて、実現したのである。
「凄いわー、本当なのね。」(ハイジ)
「ああ、神様!」(クララの祖母)
「ワシが言ったとおりだったじゃろ。アルムの山の自然と神様のおかげなんじゃ。」
これは、皆さんご存じの「アルプスの少女ハイジ」のクライマックスの場面である。
この話は、シュタイナー思想とは直接は、関係ないと思われるが、当時のドイツ文化圏の思想的背景をうまく表現していると思う。
この小説は、単なる児童文学ではなくて、教育・思想文化の深層のメタファーでもあると私は考えるのである。
その根拠について説明すると、19世紀中葉から後半のドイツ文化圏、それは、キリスト教理性主義、カソリックの厳格主義、そうして、近代科学の合理主義の支配された文化の元に人々は生活していた。
クララが暮らしたフランクフルトアムマインでもこの傾向は例外ではなく、ドイツ合理主義・厳格主義の権化とも言えるロッテン・マイヤー女史の元で、クララは歩ける様になる術もなかった。ところが、神の自然の申し子というべきハイジが突然現れて、状況は一変した。ロッテン・マイヤーとハイジの衝突は悲劇的であったが、同時にクララの祖母は、ハイジの姿を見て、新しい何かを感じ取っていた....
シュタイナーの教育理論も、私なりに解釈すれば、神智の元で、子供達の感性を情操や体験教育で発露させることで、これまでの性悪説的観点からの管理主義、懲罰主義的教育では得られなかった教育方法を目指している。
日本にもシュタイナーの教育理論は、入って来たが、それは外形的なものであり、佛教大学の先生方も研究されているが、それは、教育思想史的な側面、あるいは、単なる教育システムとしての理解に止まっていると言わざるを得ない。
「神智主義」については、古くは、ゲーテ等の思想にも見えており、小林秀雄等もそれらの思想について論じているが、これも外面的理解にとどまっている。
○一体、「神智主義」は、どこから来たのだろうか。
この問題について、『シュタイナー仏教論集』では、大きな解決に向けたヒントを与えてくれる。
近代科学技術とキリスト教の理想主義との対立は、当時のドイツでも一層強まるばかりであった。ニーチェは、「神は死んだ。」と言い、後期浪漫派の芸術音楽の世界に目を馳せると、1911年には、グスタフ・マーラーは、この代の決別とも言うべき、絶望的な交響曲を残したが、結局、それは、キリスト教的なアルモニア・ムンディの理想に基づく響和音で終わらざるを得なかった。それよりも以前に死んだアントン・ブルックナーは、世界をあるがままに捉え、死に向かう弛緩の音楽の中で、最後まで未解決なドグマを反物質的な不協和音を最強奏させることで表現しようとしたが、結局、「神智」の世界に至ることは出来なかった。
一方、ヨーロッパの思想研究では、そういったキリスト教的な文化の限界を突き破る為にも異文化・宗教の研究が活発になっていった。
仏教の研究もそうであり、「ブッダの教え」については、やはり天才的な思想家による究極の合理主義という考え方と捉えられたが、その後に続く、菩薩や如来が支配する大乗仏教にちては、近代ヨーロッパの合理主義的な理解を逸脱していた。
ところが、キリスト教の一部の神秘主義(神智主義の萌芽ともいうべきか)の観点から、六波羅蜜や菩薩業、如来による救済というものを、文化を越えて理解する様に務めた結果、実は、菩薩の一切利他の精神、あるは、観音の救済は、聖母マリアが果たした役割、あるいは、12使徒も菩薩業を行ったと解釈する考え方生まれて来た。
シュタイナーは、この書物で、ヨハネやルカ、パウロ等の思想と行動を大乗仏教の思想になぞらえているし、一層の有情(生命)には、「仏性」が存在し、菩薩の光(言い換えれば、キリスト教的な神智)を当てることで、あらゆる人達を救済出来るし、子供達の可能性を伸ばせるのではないかと気づいたわけである。
この本が書かれた時代、それは、先ほど述べたグスタフ・マーラーが光明を壮大な交響曲の音楽世界に求めようと絶望的な最後の戦いを繰り広げていた1910年前後である。
その中で、「ブッダとキリスト教」、「ブッダとイエス」、「ブッダと菩薩」、「いま、ブッダは何をしているのか。」、「ブッダの教えと修行」、「弥勒菩薩」等の論文を書き綴っている。
「『ルカ福音書』を自分のうちに、作用させると、この福音書の中に含まれているもの総てが、巨大で圧倒的な霊的世界として、自分に向かって流れてくるのを感じる様になる。仏教的世界観が、すべてこの福音書に流れ込んでいるからである。このことは、霊的な探求によって、明らかにされている。『ルカ福音書』から流れでるものは、仏教だ。」(ブッダとキリスト教より)
「人類は長い時間の経過の中で、何を失ったのだろうか。エーテル体の器官を使用する能力を失ったのである。人類は次第に、物質体の外的な器官のみを使用し、物質体が伝えるものをアストラル体の中で、思考、感覚、感受、表象として体験することで満足しなければならなくなった。それらすべてが、ブッダの偉大な心魂を通して、体験されたものの、表現として現れた。」
「生命への欲望と呼ばれるもののなかに、ブッダは、以前の受肉に由来し、人間を世界の享受へと駆り立てるもの、色彩と音、その他の印象の世界をさまようだけでなく、この世界を切望するものを見た。それは、前世から一つの傾向、力として人間の中に存在するものである。
」
「応身のブッダは、ナタン系のイエスの上に光り輝き、洗礼者ヨハネの口を通して説法を続ける。洗礼者ヨハネの語ることは、ブッダの霊感から発している。ヨハネの語る言葉は、すべてブッダの語った言葉の続きである。」’(ヨハネとブッダ)
大乗仏教の如来、菩薩思想とキリスト教のイエスと12使徒がここでは、融合して存在している。衆生救済の考え方は、キリスト教も大乗仏教も共通しているとの見通しになっている。
全人類救済の真理として、キリスト教と如来菩薩思想は、同じ地平に立っているという観点である。
シュタイナー教育思想には、この様な深い大乗仏教への理解が根底にあるという事実をこの本は気づかせてくれる。
クララが歩きたいとする心、ハイジやお婆さん、クララが歩ける様になると願う心が世界の根底に息づいている菩薩業の衆生救済の真意がくみとり、一切有情のものである自然の息吹の生命力を借りて、実現したのである。
最近のコメント