弥陀の光は、炎なのか2009/11/12 22:27

今日は、佛教大学四条センター(京都三井ビル)で行われた安藤先生の講演「シルクロード西域南道の新発見壁画 I―描線の魅力、描線の誘惑」を拝聴する機会を得た。

 これまで、ダンダンウィリク遺跡の調査の成果について安藤先生の講演にて、何度か接する機会を得たが、今回は、新発見の資料は少なかったものの、調査の結果についての考察が一層、深まり、先生のお話も非常に説得力があるつながりが出来ており、見事なものであった。

 私の席の周囲で先生のお話を聞かれていた人達も見事というか鮮やかなお話の展開に感動し、心から喜んでいたのが印象に残った。

 但し、私、個人的には、少し気がかりな点があった。

 それは、炎肩仏の図像的な解釈であった。炎肩仏は、文字通り、肩から炎の様な三角形の突起が生じて描かれた仏達であるが、たしかに西域の仏教美術の特徴である。
 
 しかし、この突起がなんであるかについては、本当に炎なのかという点である。

 仏の持つ生命力・威力の象徴して炎が肩から立ち上がっている様に描かれているとの解釈で、仏の生命力にも通じるものであるとされている。

 更に、安藤先生は、この様なコンセプトは、平等院の阿弥陀如来像にも活かされていると言われた。それは、光背の蓮華から放射する光があたかも肩から伸び上がっている様に見える点であると言われた。

 この点、私は疑問を感じる。

 阿弥陀如来は、「光の仏」であるが、この光は、果たして、炎なんだろうか。

 私は違うと思う。人々を救済する純粋無垢の光であると思う。炎の様に邪気を焼き尽くす様な光ではない。

 阿弥陀の光が蓮華の生命力が結晶して放散された光と認識することは辛うじて出来ても、炎肩仏の「炎」と同様に捉えることができるのだろうか。

 仏教芸術の中での炎の描写については、最近の展覧でも話題になっている青不動の背後に燃える「カルラ火」が代表的なものであり、このカルラ火と北野天神絵巻に描かれた六道めぐりの地獄の業火との描写技法の類似性について指摘されているが、「罪を焼き尽くす炎」としての捉え方であり、「仏の生命力」、「阿弥陀の救済の光」とは、別物ではないだろうか。

 平等院の阿弥陀仏や鳳凰堂は、阿弥陀経や観無量寿経の経典テクストを忠実に再現することに心が置かれており、西域仏教美術と直接的に結びついて論考することは、未だリスクが伴うと考える。

 今後もダンダンウィリクやタマゴウ遺跡からは、これまでみられなかった様々な新発見が登場すると思われるが、その描画・彫像技法については、その遺跡あるいは近隣の遺跡との共通性について指摘することは妥当であっても、例えば、インド→シルクロード→日本の仏教文化の流れの中で、直接的に関連づけて解釈することは大きな危険が伴い、慎重であるべきだと思った。

 それにしても久しぶりにインパクトのある講演であったと思う。