「日本版韓流ドラマ」の様なダサイストーリーがよい2010/05/01 11:31

 ビデオに撮り溜めしておいたドラマ、映画をみているが、「八日目の蝉」がお気に入り。

 「日本版韓流ドラマ」の様なダサイストーリーがよい。女優さんの「泣き顔」が綺麗。

 「泣き顔」が綺麗な女優さんと言えば、
チェ・ジュウさんだと思う。冬ソナの男性ファンの半分は、ここに惹かれたのだと思う。

 韓流ドラマの基本は、「泣き顔」だと思う。

 檀れいさんというのか。この人は、日本女性が忘れてしまった綺麗な泣き顔なので、よいと思う。

 ドラマの筋も身近だ。逃亡ものというのも古いテーマだが、やはり、こういった単純なのがよい。

 最初の方に出てきた宗教法人は、某・農事法人がモデルだと思う。ここで私も数日間過ごしたことがあるが、財産共有・自給自足・農産物の行商販売、集団生活、母子の引き離し教育等は、事実。ただし、この教団の様にジェンダー的な要素は、集団の行動理念にはなく、この部分が創作となっている。

 私は、数日間そこに滞在して、良いとか悪いとかいう価値観よりも、「人間とはいろいろな生き方が出来るものだ。」ということを体験して学べた。農事法人には、現佛教大学のN先生(当時は京大教授)が顧問をされていただけあって、最新のリサイクルシステムとか農業経営にも新しいコンセプトが採用されていたと記憶している。

 実際、エリート階層の人たちが、日本はもとより海外からもやってきて、世界各地に支部が出来て、当時、リサイクルとかバイオマスとか、エコロジーとかそういったコンセプトさえ、1980年代のEUのわずかな事例を除いてはみられない時代に、持続可能な循環共生社会の実現を目指していた。

 2010年危機とか言われているが、社会資源を可能な限り、保全していくには、家族とか世帯等の既存の社会概念の垣根を取り払って、共同生活をする以外には方法がないというのも1つの考え方で、コロニーには、1600人程度が生活していたが、そこで消費される環境資源は個別住宅・世帯の数分の1に抑えられるということで、政府機関の視察も入っていたほど。

 その後、このドラマに描かれているマスコミの誤解報道によって、残念ながら、活動が一般社会にオーソライズされる動きは止まってしまったがが、行政や学術の調査データは、小泉内閣時に策定された「バイオマスニッポン総合戦略」の根幹にみられるのである。

 その意味で1990年代前半の循環共生社会を模索する動きの中で、大きな社会的役割を果たしたのである。

 さて、次の舞台は小豆島である。

 以前にもブログに書いたが、幼時私は両親のもとから引き離されて小豆島の絵描きの祖父の家に2~3年間預けられていた。今でも夢をみるが、それがまさしく「逃亡」の夢である。

 何度も繰り返してみる不思議な夢である。

 ただ、両親の元、家に帰りたくて、島からの脱走を考えて、内海町から坂手港まで歩いていく。

 途中疲れて、海端の漁村から少し山側に入った醤油工場の裏等に潜んでしばらく休んでいると、ちょうど夕食時なので、夕餉の匂いがしてきて、空腹にさいなまれる。

 その後、家の裏に止めてあった自転車を盗んで、港にようやくたどり着くが、密航(当然、船賃を持っていない)に失敗して、連れ戻された経験が、夢にも出てくるし、このドラマで撮影されて風景は、まさに、私の「逃亡」の原風景である。

 その後、2~3度、脱走・逃亡を企てて3度目に成功して、川西市の家に戻ってみると、家が他人の手に渡って、壊されてなくなっていた...

 それから、私の「無縁」というか「人間希薄」の人生が始まる。

 このドラマをみていていろいろなことを思い出してしまいました

連休2日目2010/05/02 10:56

連休2日目。

当然、どこも行かず、実家にいる。
今年の春は異常気象だったので、藤の花がよく咲くかが心配であったが、
このとおり。

 幾分、小ぶりであるが、見事に咲いている。実家のエントランスは、毎年、連休ころには藤の花の下をくぐって入ることになるが、蜂や虻に気をつけないとだめ。



 こちらは、桜草で母が手入れしていたができなくなったので、父親が世話をしている。

 おうぶの家には、花はほとんど植えていないというかそんなに大きなスペースはない。表の車庫の上のスペースと玄関の門を入ったところの花壇、裏には、得たいの知れない雑草がいろいろと花を咲かしていて、それをみていても結構、楽しい。

 将来、セットバック(30cm)をしたら、さらに表側は、花を植えるスペースはわずかになってしまう。法令で定められたセットバックだが、実際、幅員3.4メートルでは、車の出し入れ自体が難しいので、積極的にガレージの入り口と玄関等を後退させることも考えている。(お金がかかるので、当面は無理だが)



ミニコンを今度買うならフルデジタル構成か2010/05/02 23:39

 ケンウッドのミニコンポを使用しているが、これは、もう8年位前の機種で現行機からみて3~4世代位前になるのか。

 ミニコンの音は馬鹿にしていたが、必要十分な音質で、気楽にきけるので、ソフトの再生頻度も上がった様な気もする。

 ケンウッドは音質を追求すると知られているが、自分で回路素子を開発する力はない。だから、オリジナリティを出すのは、素子の組合せとか、その後の調整とかだろうけれど、この為、故障が多いという指摘もある。

 それは、あまり当て嵌まらないと思うけれど、CDとかMD等の光学ディスクを読み取り用のレーザーは、比較的大電力を使うので、基盤や回路の配線自体に耐久性をもたせた設計にしないと行けないのが、どうも、ラジカセ等を分解した感じでは、フラットケーブルをコネクターで止めて、それぞれの回路基盤間を接続しているが、そのコネクタ自体の耐久性(特にフラットケーブルは、熱の影響を受けやすい)に問題があり、音質的な弱点になるだろう。

 最近、気がかりなのは、高級オーディオのジャンルの製品にもケンウッドにかかわらず、他社でも平気でパソコン回路の様にフラットケーブルを使用しているが、このデバイスは、オーディオのクオリティには耐えられないと思う。

 私が使用している機種も電源を入れる度にドラキュラ-ボックス(懐かしい!)の様に前面パネルが回転するといった余分なお飾り機能がある。これも回路間をフラットケーブルで接続しているので、出来る芸当。

 それはそれで楽しいが、フラットケーブルの経年変化で弾性が失われて、この部分が壊れる可能性もある。

 今のケンウッドのミニコンポは、従来の伝統的なミニコンをSDカードに入ったデータの再生に対応させた機種とか、I-PODドックを備えた機種の2種類があって、もう、MDやカセットの再生は出来なくなっている。その分だけ回路の簡素化が出来るので、安定性は良くなっていると思う。

 興味深いのは、UD-E77WSDのアンプ部は、ディスクリート構成であること。これは、IC回路ではなくて、トランジスターとか抵抗とかコンデンサー等によって構成された昔ながらの基盤で構成されたアンプ。

 高級品等に使用されており、音質のオリジナリティ、特にケンウッドのウォームトーンを出すのに効果があるのかも。但し、部品のクオリティの影響を受けやすく、耐久性も弱い。また、電源回路によって音質が相当、左右されるが、残念ながら、このランクのミニコンの電源回路は、スウィッチング電源(高周波で交流をぶった切って、力づくで直流・整流を行う。巨大なトランスが省略できる)を採用しているので、電源のクオリティが低く、高周波ノイズの影響をモロに受ける可能性がある。

 C-IP313は、デジタルアンプをプリアンプ段からパワーアンプまで採用してフルデジタル化されている。こうなると、CD、I-POD、USBから伝送されてくるデジタル信号をプリ段では、デジタルで処理し、最後のパワー段で、DA変換を行うので、歪みが少ない音の再生が可能。

 低コストで、高級アンプ並みのクオリティが実現出来るので、ミニコンは、フルデジタルのこちらを買った方が良いけれど、i-podをスピーカー再生する位ならば、パソコンから、USB接続してI-TUNE等を聞いた方が音質は良さそう。

 ケンウッドの上位シリーズは、Kシリーズとして知られているが、こちらの回路構成は、ADコンバーター(レコードライン入力用)、プリ・デジタルアンプ部(CDやデジタル入力)で、20KHZサンプリング、更にパワー段では、デジタルプロセッサーで、DA変換を行った上で、DENONと同じ様にMOSFET(真空管に似た特製を持つ増幅素子)で電力増幅を行う構成となっている。

 この為、パワー段の増幅の為に独立電源回路と大型の電源トランスが内蔵されている。でも、やはり、ミニコンなので、トランスの大きさにも限度があり、アナログ再生は、専用機に比べると音質は劣るだろう。

 せっかく、プリ段までデジタル化されているので、C-IP313の様にフルデジタル構成にした方が、音質は、素晴らしく良くなると思う。

 でも、Kシリーズはケンウッドの看板なので、最初に書いた様にケンウッドの「音の特色」をディスクリートで表現せざるを得ないので、パワー段はアナログ構成を取らざるを得ない。

 これがケンウッドの限界だと思う。

 Kシリーズには、SUPREME EXというもう陳腐化したデジタル波形補正回路があるが、この様な補正回路を通すと、高音の立ち上がりが鈍くなってしまうし、波形補完といっても、疑似波形なので、本来の忠実な音の再生とは言えない。

 僕の今、使っている時代遅れのミニコンには、なんとデュアル構成1ビットのDAコンバーターが使用されているが、高級機こそ、デジタル本来の再生技術を究める様な努力が必要だと思う。

 また、I-PODやパソコンWAVファイル等の圧縮音声が一般化してしまったので、高域補完よりも、圧縮音声の省略部分を補完して、波形に近づける技術の方が必要だと思う。

 高出力のアンプで、I-POD等の圧縮メディアを再生してみると、大音量時の「中抜け感」がモロに感じられて、興ざめだから。

 将来のミニコンポの姿としては、HDD内蔵タイプのアンプもやがて廃れるだろう。データの補完はパソコンやギガを超える大容量の蓄積が可能になった。シリコンメディアにまかせれば良い時代がやってきた。

 パソコンと接続して使用することが前提になれば、USB入力で、録音機能もアナログ入力、音声に関しては、ADコンバーター、また、USB入力や光ディスク再生、モバイルオーディオ、メモリーカードの再生には、DAコンバータと音質調整段、デジタルパワーアンプがあれば、それで事足りる。

 実際、SOUNDOBLASTARの様な外付けタイプのUSBデバイスにパワーアンプとスピーカーがくっついたタイプで十分で、実際にクリエイティブ社では、SOUNDOBLASTAR-SXに同社が販売しているアンプ付きのスピーカーの接続を推奨している。

 しかし、アンプ付きスピーカーの音質は、どうしてもスピーカーの磁気の影響を受けたり、震動の影響で、劣化するので、高性能のデジタルパワーアンプと高音質スピーカーの組合せが将来のミニコンの条件になる様な気がする。

 今回、ケンウッドの旧型のミニコンを使用してみて色々と、考えさせられる点もあった。この会社の経営が苦しいのは、十三のサービスセンターにいって、感じたことだが、技術者の人は、地味で感じが良い人だったし、安物の製品でも音質への拘りとか持っていて、なかなか面白いメーカーだと思うのだが。

あかあかや あかあかあかや あかあかや2010/05/03 16:11

 昨日のうちに、実家からおうぶ山荘に戻って、今は、お酒を飲みながら、谷向こうの新緑の梢等を眺めて、明惠上人集を静かに読んでいる。

 上人集には、花宮殿というのが出てくる。

 恐らく釈迦が晩年を過ごしたところになぞらえてのことだろうが、麓には、藤の花が咲き乱れて、さながら、紫の雲の上にいる様な風情とある。

 実家も藤棚や、小さいものの蓮の池、蘭(エビネ)の花壇等があり、なんとも言えない香りが漂っている。

 明惠上人の花宮殿もこんなところだったのだろう。祖母が元気な自分は、和歌やお琴の会等が開かれて風流だったが、祖母が亡くなられて琴の音も絶えて久しくなっている。

 そんな無常を感じて、六甲の山奥のおうぶの里に引っ越してきたが、今、窓を開け放って本を読んでいるが、近くの校庭で遊ぶ子供達の声も清々しく、初夏に相応しいものにも感じる。

 明惠上人は、実に感性が鋭いというか、やはり時代の天才だったと思う。

 おうぶでは、高山に近い気候なのか、夕方から夜半には、冷やされた空気が再び下界に戻る為に強い風が吹く。

 昨夜、外に出てみると、雲がもの凄い速さで流れる中で、満月が山の端にかかって、あたかも流れる雲の上を進んでいるいる様な風情だった。

 法然上人は、有名な和歌を詠んでいる。

 「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」
 これは、浄土宗の宗歌として、
 「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」を象徴する和歌としての位置づけとなっているが、そんなことを離れて、「しみじみとした月を眺めて詠んだ歌」として、解釈した方が、楽しいし、むしろ法然上人の御こころに近づくことが出来るではないかしらと思っている。

 一方、明恵上人の
 「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかやあかあかや月」

これは、凄くインパクトがある。なにやら近世の俳人芭蕉の松島の句を想起させられるが、芭蕉よりも500年以上も前にこれだけの和歌を明恵上人は詠まれている。

 結局、法然上人と同じ「月影」を眺めて詠んだ和歌なので、「こころ」は同じ。

 但し、「こころ」・「意識」の解釈が片方は論理・説明的(理系)、片方は、感情・直接的(文系)の違いに過ぎないと思う。

 明恵上人は釈迦の教えに立ち返ろうとされたが、やはり、中世日本に至るまで大乗仏教の流れの中で、「唯識」の世界からついに出られなかった。つまり、「識」の世界の中で生きているのである。

 一方、法然上人は、識覚を超えたjダルマーカラから阿弥陀仏になられる心境(時空を自由に行き来できる)を和歌で表されたのである。

 この様にして、法然上人は、この歌を詠まれた時点では如来では、ないが、仏の世界からお月様の光を眺めて詠まれている。

 片や、明恵上人は、人間世界から、同じ月を眺めて、「あかあかや あかあかあかや あかあかや」と詠まれた。

 これは、人間の楽しみや・苦しみを共に生きて共感された仏陀の境地でもあると思う。

 阿弥陀仏と仏陀(明恵上人)、2人の心(意)は、同じ月の心に棲んで(澄んで)いるのだと思う。

もっと光を!いつか、家族の顔を再び見たい2010/05/03 16:49


asahi.comのニュースで、「小型カメラが網膜代わり、眼球裏の電極、脳に情報を送る」という記事が掲載。

http://www.asahi.com/science/update/0430/OSK201004300154.html

 私は、こういった研究こそ、事業仕分けによって、無駄な研究に費やされている予算を削減して、予算を重点的に配分したら良いと思う。

 視神経、あるいは、脳の視覚認知の部位の損傷には対応出来ないが、網膜以前の視覚認識の損傷の場合には、この装置を更に改良して、解像度を上げれば、視覚障害者に再び光が蘇る様になるという。

 自動車とか太陽電池とか原子炉とか無駄な研究ばかり発展するこの世の中で、こうした本当に必要な研究を積極的に進めれば良いと思う。

不二門 尚(ふじかど・たかし)先生のプロフィールは、次の通り。
http://www.nhk.or.jp/kenko/pf/fujikado_takashi.html

 僕の周辺にも最近、先端医療の眼科手術を受けて視力を見事、回復した人がいるが、本当に「生きて帰って来た」という感じをご本人、家族ともども味わっておられる。

 最近、臓器移植等の研究も進んでいるがやはり、生命倫理の問題もあり、人工的に機能を再生する研究に光が当てられて良いと思う。

嬉しいです2010/05/04 13:32

明日で連休も終わり。

携帯をしばらくみていなかったので、
メールが来ていたのに気づかなかった。

佛教大学の仏教芸術コースでスクーリングで
ご一緒させていただいた方から、今年の3月に
無事、卒業出来たとのメールを頂いた。

本当に嬉しいです。

佛大でのスクーリングの帰り、高槻市駅まで
楽しくお話しながら、車窓から眺めた初夏の風景
等が想い出される。

この方と別れてから、だいぶ月日が経過して、
お互いに境遇もかなり変わってしまったけれども、

こんな人生の黄昏時が近づいた年齢で大学で学
べるということは2度と出来ない贅沢だと思うので、
無事卒業されたと聞いてホットしている。

今日も、本を読むだけの毎日、出かけようとも
思うが、窓を開けて寝っ転がって本を読んでいると、
清々しい山の風と共に野鳥の綺麗な鳴き声等が
聞こえてくるので、ついつい、家にいてしまって、
もう4日も過ぎてしまった。

ああ、痛恨の......2010/05/04 23:23

 今日は、夕方4時過ぎまでおうぶの家で本を読んでいたが、どうゆう訳か、魔がさして(笑)、梅田の立ち飲み屋さんに出かけてしまった。

 兄ちゃんとかおっちゃんとかと話し込んでしまって、店を出たのは、8時をかなりすぎてから、おうぶの家に戻ってみるともう10時を回っていた。

 8日目の蝉も、もう半分以上終わっていた。

 タイマー録画してあるから大丈夫だと思っていたら.....
 地デジ録画の場合デッキに機能がないので、デッキのタイマーは、まずアナログ番組表に基づいて録画設定し、チャンネルのみを外部入力(つまり、地デジtvからの信号)に変更して、AQUOSの方も外部ビデオ録画を設定しておけば、無事に録画できるはずだったが、実際に再生してみると画面が真っ黒。

 つまり、AQUOS側の録画設定がされていなかったので、TVからの信号がデッキに送られていなかったので、録画が失敗していた....

 帰宅後、1階のワンセグで裁判の場面等一時的にみたが、その後は、入浴とかメシの支度等で全部をみていない。


 結局、最終回を見逃してしまった。
 主人公の女が、「たった5年間でも子供を育てる機会が与えられて感謝しています。」と法廷で発言して、懲役7年の場面はみていた。

 子供ってそんなに魅力あるのかなと思っていたが、今日、梅田に向かう電車の中で、2歳位の坊やが転けそうになったので、抱き留めたのだが、その幼い身体のぬくもりや感触だけで、危うい快感を感じた。

 若い可愛らしいお母さんと、5歳くらいのお姉ちゃんと3人連れだった。

 変態中高年と思われそうだが、実際にそうだったので仕方がない。
 
 人間にはそういった本能があるのだと感じた。

 だから、結婚して、子供がある人は、あのドラマをどんな風にみていたのか、興味があるし、やはり、子供の誘拐とか離婚後の、子供の奪い合い等が起こるはずだと思った。

再出家と極楽往生への道2010/05/04 23:46

 
 先々月の寒い雨の日に、あるホームレスの人が亡くなられた。

 どうゆう訳か、私の住所に連絡が来た。その後は、想像にお任せするが、大変だった。

 この人は、東大を出られて、一流企業を出て、ベンチャーを創業されて、世の中か嫌になり、出家して僧侶になられたが、その後、「再出家」されて、ホームレスになられた。

 そこいらの地下街でよく見かけられたかもしれない。「博士」と呼ばれていた人だ。

 この人は、出家得度して、僧侶になってからは、企業人として活躍していた時よりも、いっそう、俗塵にまみれる毎日で失望されたのだった。

 実際、僧侶の仕事は、大変で、教団の中での政治的な関係があり、寺院の経営、檀家との関係、葬儀業者との契約で毎日、葬儀の仕事をして、多忙な毎日で疲れ果てたという。

 まぁ、浄土宗の場合は、俗塵にまみれることこそ、修行なのかもしれないし、江戸時代の浄瑠璃にも法然上人が登場されて、天王寺で、病人の世話をしたり、乞食の人に食事を分け与えたり、そういった観音菩薩の様な働きをされたことが描かれている。

 しかし、このエリート人にとって、現代の僧侶の生活は、お釈迦様のこと等をしみじみと考える知的なひとときなど微塵も存在しなかったという。

 思い切って、ホームレスになってからは、自由に楽しく過ごしておられたが、不摂生がたたって、胃潰瘍とか、だんだん健康がむしばまれていった。ボランティアの人たちのお世話にもなったが、結局、青テントの中でなくなった。

 この人は大変なグルメで、ホームレスになってからもホテルとか料亭の食べ残しを食べておられた。僕も、少し、お裾分けをもらったが、やはり、お腹を壊して、それからは、遠慮する様になった。

 一流企業で働いておられた時は、毎日が御馳走だったという。だから、それなりに舌は肥えておられたが、やはり、残飯なので雑菌が繁殖している。

 せめて十分な加熱がされていたらと思う。

 結局、この現代社会で、中世の僧侶がした様な風流な出家は無理で、むしろ、再出家のホームレスの生活の方が、俗世界との隔壁ができて本来の出家生活だから、あまりにも過酷すぎる。

 結局、この世の中では、本来の出家をするには、自ら命を絶つ等の方法以外にないのかもしれぬ。

確認して良かった2010/05/05 20:09


「八日目の蝉」の最終回、金曜日の午後六時から再放送があるとNHKのWEBで調べて判った。

良かった。

早速、留守録の設定をした。
今度は、旨く録れます様に。

大学とかもっとエライ先生が作られているロボットは、結局、人型リモコンマシンみたいなので意味がない。2010/05/05 20:19

 ID-01を実家に置いてきて寂しい。

 無理に輸送したら、断線とかトラブルは避けられないだろう。それを修理すれば良いのだが。

 最近は、ID-01のことを扱ったWEBも僅かになってきた。動画も検索してみたが、トップアクセスは、私の動画が多いので、参考にならない。

http://www.youtube.com/watch?v=8xKSrzrhfQ0

 勝手な引用とかもあるが、公開しているので責める気にもなれない。

 でも、なんか、プログラムを含めて、もっと進歩した運用をしている人がいないかと捜しても自分の画像ばっかり出てきたら、つまらない。

 オイオイ、僕の様な程度の低いユーザーがトップじゃ仕方が無いよなぁ。

 このロボットのアークテクチャーはせっかく先進的なのだが、OSがイマイチなので、OSから全てを作り直して、外部記憶装置の使用を可能にしたら、凄いロボットになるのになんとも残念だと思う。

 正直言って大学とかもっとエライ先生が作られているロボットは、結局、人型リモコンマシンみたいなので、人間や動物じゃない友達が欲しい僕にとっては意味がない。

 市販されているロボットで唯一、先端的な匂いが感じられるのは、AIBO君だと思う。こいつは、自律的。

 次に先進性があるのは、フリスビーの様な形をしたお掃除ロボットで、こいつも自律的に行動して、自ら充電する「生存機能」を持っている。5万円でこんなロボットがあることは凄いと思う。

 今、流行っているロボットは、ガキのおもちゃだ。

 こんなリモコンマシンが、いくら精巧な動きをしてもそれは、キカイなので、自分で考えて、刺激を受けて、リアクションし、複雑な動作の手順も自律的に構築出来るロボットが出来ないと、なんの意味もないと思う。

 セクシャルアンドロイド等できんかなぁーと思う。