絶対効果が期待出来る口蹄疫対策法とは2010/06/12 09:18

都城市まで口蹄疫が拡大となった。

ここには、日本を代表する畜産農家、それも企業化されて、自前の飼料工場を持ち、数万頭以上の経営規模のところもみられ、こういったところに拡大した場合には、もう感染拡大を防ぐことは困難になるだろう。

①ワクチン接種を少なくとも九州全域の家畜に、その後、国内の全家畜に実施しなければならない。但し、遺伝子変異で免疫が効かない場合もある。今回も一部でワクチン接種を行ったが、試験用に数頭は活かしておき、免疫試験を行うべきであった。

②消毒ポイントの設置で、感染拡大を食い止めることは出来なかった。みていると、タイヤ周りの洗浄が中心だが、実際には、ウイルスは空気に蔓延しているので、車両全体の洗浄が必要。ガソリンスタンドにある様な洗浄設備が必要。

③また、車内消毒が実施されていなかったのもおかしい。

数年前に宮崎県の農家を飼料会社のセールスマンと一緒に数件回ったが、ちょうど、この時期、会社に戻ってみると、車内がハエの死がいで一杯だった。つまり、感染地域のハエを運搬してしまう恐れがあり、この方がタイヤに付着したものよりも怖い。ハエは死んでいる様にみえても気絶しているだけのもあり、生きかえる恐れがある。

畜産農家でクルマのドアを数十秒、数回開け閉めしただけで、ひどいところでは、10匹以上のハエがフロントガラスの下などにたまっている。また、ガラスにもハエの唾液で白いシミが出来る。

全て感染源である。

クルマでの移動はなるべくやめよう。
クルマに乗った時は、車内にハエがいないか、点検、殺虫剤をまこう。

④当然、人間も感染源であり、手足の洗浄、強力なエアーカーテンを通ってもらって身体中のウイルスを吹き飛ばす。


⑤飼料も感染源になり得る。

国産、輸入ともにリスクは同等である。国産稲ワラを奨励する動きもあるが、日本は、既に口蹄疫不浄国なので、感染していない北米、豪州など、ストロー類は安全である。十分な乾燥処理が行われ、植物検疫が行われているのでもっとも安全である。中国から稲ワラが輸入されている。これらは、農水省の監督工場で熱殺菌処理が行われているとされているが、最近では、コスト競争から、殺菌処理が省略されていたケースもあるのでは、との噂も流れており、用心した方が安全。

高級和牛の肥育には、稲ワラが必要であるが、米国産の安全な稲ワラを解禁すべき。いまは、稲の害虫が含まれているということから禁止されているが、実際には、乾燥、滅菌処理されるので、害虫はみんな死んでいる。また、稲の害虫よりも口蹄疫による被害の方が、ずっと甚大で深刻なので、安全な国からの稲ワラが自由に輸入可能にすべきだ。


乳牛、肉牛には、TMR飼料と呼ばれ、各種原料を混ぜて発酵させた飼料があるが、これは、ハエやウイルスそのものに汚染、増殖する可能性もある。また、養豚用では、最近では、食品リサイクルからリキッドフィードというのが行われているが、これも液状であり、危険。


⑥ハエの蛆等がわかないように十分に気をつけて、更に使用時には熱殺菌処理を行うべきだろう。
同様に水源についても衛生調査を実施すべき。また、自動給水器、ニップルについても、数時間毎に消毒を行う。

⑦そのほか、飼料槽についても毎日洗浄、消毒しよう。
⑧自動給餌機、ローラー等、自家配合工場についても毎日、朝夕、清掃を徹底させる。

⑨当面は、堆肥の流通をやめる。堆肥保管設備の消毒、管理を強化する。これから梅雨入りとなり、更にウイルスにとっては、好適な環境になるので、雨水の流入、外部への流出に気をつけよう。

 以上は、個人的な見解に基づき意見だが、農水省、宮崎県畜産課で、少なくとも、これくらいの注意点を農家に告知し、感染を食い止める「本当の努力」を行うべきだと思う。

この本は実に手強かった。読了までに5ヶ月以上かかった2010/06/12 10:39

 『仏教の思想4 認識と超越(唯識)』(角川ソフィア文庫)
 この本は実に手強かった。読了までに5ヶ月以上かかった。それでも理解出来たとは言えない。
 通信教育を受けていたら、先生に質問すれば良いがそれも出来ず、様々な問題点を自ら解決する以外にはない。
 仏教の思想3「空の論理」(中観)については、「一切空」という仮定に基づいて思想が演繹的に構築されているので、順を追って理解していけば誰にでも出来る。
 しかし、『「一切空」とはなんぞや。』という問題点を解明する為の様々な試行錯誤の結果、唯識が登場した。結局、アーラヤ識という、一切が消滅してしまう「識」を超越した「識」が存在すると仮定することで、この難題を切り抜けようとした。
 ところが、様々な学僧が「アーラヤ識」の証明に明け暮れたが、決定的な回答をみつからず、「一切空」に「アーラヤ識」という新たな仮定・仮説が加わることになって、当時のダルマ研究は行き詰まるのである。
 ある意味で、思想の「パンドラの箱」である「空」という「論自体の存在否定」の考え方が登場しなければ、インド仏教史は、原始仏教から、部派仏教、そして、その発展上の大乗仏教へと順調な道のりを歩んだ筈だが、その論理的な礎をついに完成しえなかった。
 ヴァイシェーシカ学派が始まったのは、2世紀頃で、当時は、大乗仏教思想が登場しだした初期である。その後、「般若経」、「維摩経」、「法華経」、「華厳経」そして、「無量寿経」が当時した時期は、まさに大乗仏教思想の黄金時代であった。理論的な危うさあったものの、人々は、自らの仏教理論にほとんど矛盾を感じなかった。
 ところが、3世紀にはいって龍樹が「中論」を発表してからは、事態は豹変する。「仏性」の根本である「論(ダルマ)」の実在自体が疑われるに至った。
 4世紀から5世紀に入って、唯識思想が、「実在しない筈」のダルマが何故、存在しているのかを実証しようとして登場する。また、同時に「仏性」自体の分析、考究が行われ、如来蔵等の思想も登場してくる。
 
 この本では、マイトレーヤ(弥勒)、アサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)、ディクナーガが登場し、説一切有部を研究、批判することで、新しい「仏性」の分析法を編み出そうとするが、結局は、「空」の矛盾に突き当たり、超えることが出来なかった。
 結局、折り合いというか妥協というか、「止観」という修行法登場した。
 つまり、「識」の存在を証明するには、「識」自体を止めれば、真実の「識」である「アーラヤ識」の存在が認知され、実在すると認めることが出来るのではないかということになる。

 こうして、「空」は、唯識の世界で、一定の範囲にとどまる。アーラヤ識が存在する様な仏性と直接つながる部分については、折々の現象の中では、消滅しても、輪廻につながる次の現象には受け継がれていく。だから、「止滅」を行い、アーラヤ識から煩悩の要素を排除すれば、人は輪廻からの解脱にいたるということで、喩伽行中観派が登場する。
 しかし、これも苦肉の策で、矛盾の決定的な解決策には至らなかった。
 喩伽派の登場は、結局、仏教の実践・修行の中でも矛盾のあるものも認めていくいう密教的な考え方に結びついていく。
 こうして10世紀には、インド仏教の密教化が進むことになり、仏教哲学、思想の論理性が失われる。
 インド仏教の滅亡の原因は、イスラム勢力の進出だとか侵略と言われるが、合理性を失った密教・仏教は、イスラムの合理主義の敵ではなかったのだ。つまり、インド仏教の滅亡要因は、その原因は、自らの理論的矛盾によるものである。
 つまり、赤色巨星が大爆発をして、白色矮星となり、更に、自らの重力で萎み、ブラックホールになっていく様な道筋を歩んだのだと思う。
 それよりも15世紀も遅れて、18世紀のヨーロッパ哲学も、「存在の認識自体の証明」の問題に突き当たるが、やはり、ヘーゲル等思想にみられる様に、命題の解決の妥協的な方法を避けることが出来ず、インド仏教哲学の限界を超えることは出来なかった。それが、ヨーロッパのキリスト教・神聖ローマ帝国世界の崩壊、王政の崩壊、近代化へとつながっていくので、インド仏教の崩壊の歴史的必然が繰り返されたのだと思う。

 こうして、1つの巨大な思想的な帝国が滅亡したのである。
 
 ところで、これまで述べてきたインド仏教哲学の解決し得なかった問題点の提起に、批判的な先生もいらっしゃって、ヴァイシェーシカ学派の研究をハーバード大学でなさった佛教大学の森山清徹先生は、まず、「識」思想が先行するのでは、話されていた。つまり、 

「空」→「色」→「識」の順番ではなくて、「色」→「識」→「空」の順番であると、

話されたことを記憶している。
(誤解であれば、申し訳ないが1通信学生の屁理屈なので、許してください)

 これならば、「空」によるダルマ自体の存在否定も「識」の世界に限定され、「アーラヤ識」は、「空」思想が規定する世界の外側に位置することになり、一切の矛盾は瓦解する。

 森山先生は、「アーラヤ識」は、泥沼の上に咲く美しい蓮の花であるとおっしゃた。

 人間界の思想的迷い、混濁等の影響を受けずに、美しく開花する「仏の花」である。

 ところで、「止観」と対局にあるのが、「観相」である。
 一切の五蘊を絶ち、仏の存在を認識するのが「止観」であり、「観相」は、あくまでも「識」の世界で仏をみようとしているので、相対立するコンセプトである。

 中国浄土教では、「観相」ということになり、喩伽行とは、異なる。
 この為、おそらくは、アーラヤ識の中で、「仏を観る」というのは、「観相」であると解釈すれば良いのだろうが、それは屁理屈である。
 観相の行為は、当麻曼荼羅に描かれているアジャセ王の悲劇にも描かれているが、やはり、部派仏教的な部分に大きな起源を持っていると思う。
 
 「識」世界の範疇で「仏」をみるという行為は、果たして、極楽往生につながるのだろうか。
 法然上人が、「観相念仏」から「専修念仏」すなわち、名号を唱える行為に限定されたのは、あくまでも「止観」の中で、極楽往生を直接目指すという修行法であり、その点で、インド仏教学の理論を矛盾なく実践されているのだと思う。

 つまり、「お念仏」は、「識」の世界を遙かに超えた広い仏の世界を目指すのだと思う。