絵画を学ぶということは、「タタター」であること2010/06/25 21:47

 天台密教の学習を進めているが、一番、くせ物なのが、「絶対的真理」という奴である。

 これは、本覚思想でもそうだが、「絶対的」というのは、私たちが、西洋の学問理論の「絶対」とは全然違うものなのである。

 「機械的な普遍の法則を根底にした」西洋思想、数学、哲学の洗礼を私たちは受けているので、仏教思想を理解するのは、大変、難しい。

 佛教大学の仏教芸術コースのスクーリング授業で、○○冬彦さんという先生が急病でこれなくなって、なんと、小野田先生が眠い目をこすりながら現れた。

 可愛そうに先生は、その年は、1年間の自宅研修か何かで大学に出てくる義務はなかったのだが、眠い目をこすりこすり現れた。

 なにやら不思議なお香の香りを漂わせながら、たしか、「タタター」という言葉を発せられたと思う。

 僕は、ハッとした。タタターというのは、特別な意味がある言葉である。

 その後で、先生は、唯識のお話をされたが、密教の唯識、特にチベット密教の唯識は、特別な意味がある。

 「唯識の中の絶対」を見いだすのが密教の修行なんだと思う。その絶対は、「個人個人の中の絶対」でそれぞれが異なっている。

 この世の中で、生きている人、生物の全てが、「絶対の心理・宇宙」を心の中に秘めており、それが仏の道に結びつく。

 チベット密教では、タンカという絵を描いたり、砂曼荼羅を作ったりする。

 それが、「個人個人の中の絶対・真理の具現化」の作業・修行なのである。

 何故、砂曼荼羅を作るか、それは、それぞれの宇宙の表現である。だから修行者が潅頂に臨んだ時、それは、宇宙と仏と一体化するが、それはあくまでも個々の「識」の世界であり普遍性はない。

 だから、曼荼羅を描く修行が完成すると砂曼荼羅は、壊される。

 絵を描くという行為もこれに近いものがあり、仏の世界を描いている時、人の心は、個々の世界の絶対的宇宙にある。

 個々の絶対的宇宙で感得した仏の姿を描いたり、刻んだりする訳である。

 天台法華玄義に、、「空観」というのがあるが、「絶を論ずるは、有門に約して証すなり。この絶をも亦絶するは、空門に約して絶を明かすなり。」とある。

 つまり、絶対的真理というのは、「空」であるという。

 ここで「空」は、普遍性も固有性も持たず、自在に変化する「空」である。大乗仏教以前の仏教では、「空」を「無」と見なしたが、天台密教では、「空」を絶対的真理の中での「無限の有」とみる。

 「タタター」とは、この無限の有を見極める境地であり、それは、如来の境地でもある。

 絵を描く、絵画を学ぶということは、「タタター」であることを小野田先生は僕たちに直感的に伝えようとされたのである。

 天台密教をようやく学ぶ段階に入って、小野田先生の言われたことが少しだけ判った様な気分になれた。

 また、最近の西洋数学や理論物理学では、それぞれの局面における真理の証明は別として、宇宙の全てを包含する普遍の真理の証明は不可能であるという方向性に向かっている。

 つまり、仏教の真理観に西洋科学がようやく近づきつつある。