アンガを単位とした如来の構成は、まさに一念三千2010/07/03 23:46

 今日は、佛教大学四条センターの講座、チベット絵画の技法を受講。

 先生は、小野田先生と場野先生、それと安藤先生のお弟子さんの院生の方が来られていた。

 如来とか菩薩の絵を描くのだが、多羅母を私は、選択した。これは、身体の線が、屈曲して書きにくそうだが、美しいと思った。

 仏画といってもただ、写していくのと違うところに奥深さがある。

 描かれようとする尊格のもつ、指の長さが輪郭線を引く場合の基本単位となる。

 この基本単位の比率の組み合わせによって、輪郭の基本線が決まって、全体の構図が成立する。

 非常に微細な小さな単位が偉大な如来や菩薩の描画に結びついていくところも面白さがある。

 また、比率が決まっていることで、誰でも「正しい」仏様が描ける仕組み。

 実際には、基本線と微妙な曲線や線の太い、細い等の調整が難しい。

 多羅母(観音様?)の場合は、身体が曲がっているが、その角度も対角線と線分の比率で決定されるので、「先生、分度器で測定するのですか。」と質問して、僕は失笑をかった。

 次回は、9月の講座なので、それまでに肉体の輪郭線までを所定の用紙に描いてこなければならず、それが宿題。

 最後に先生が翻訳された「チベット絵画の技法と素材」と、特製DVDを販売していただいた。価格は、合計で3千円。

 これから読むが、面白そうな内容である。

 但し、僕はひねくれているので、次の様な疑問点を持った。

・たしかにプロポーションを守ることで正統な尊格を伝承出来るというメリットはあるかもしれないが、仏画を描くという作業そのものが修行であると考えると、その基本単位の比率で構成するということ自体に意味があるのではないか。

 また、たまたま角川文庫ソフィアで、仏教の思想5「絶対の真理」(天台)を読んでいるが、マハーカーラ(摩訶止観)の中で、「一念三千」という言葉がある。

 一念とは、宇宙を構成する最小・微少単位で、原子・分子みたいなもので、これらが、必然的な因果によって組み合わされ、構成され、最後には、大宇宙を構成するという考え方。

 これを仏画に置き換えると、まず、画面の中心点が宇宙の始めであり、構図を決定する最小単位が(1念)、その組み合わせてで最後には、如来(宇宙)を表現出来るという点につながるのではないかと思う。

 また、同時に如来全体像が宇宙の存在そのものであると同時に、それぞれを構成しているアンガ(指の太さ)の個々の存在も全体の総意として機能しているという考え方である。つまり、本覚思想の全ての有情が仏性を持っているという考え方にも通じる。一即多、多即一である。

 チベット仏画を描くということは、まさに「一念三千」を体験する行為として、僕も、この修行にチャレンジすることにする。