佛大の通信教育の方がずっとマシである2010/10/24 17:24

 関大の国文学科を昭和61年に卒業するときに「終身校友会費」と「一般校友会費」というのがあって、前者を納入すれば、生涯校友会員の扱いを受けるというので、喜んで納入したことを覚えている。

 ところが、平成何年かに、「校友会制度が改革されたので、新たに終身会員の会費を納入する必要がある。」という通知が来た。会費とかそういったことに関係する場合には、校友全員の賛同を経て規格を改正するという条項も廃止されたので、たしか数万円の会費の納入を余儀なくされた。

 そうこうしている内に最近、再び「終身会費の10年の期間を過ぎたので、追加でお金を払って欲しい。」と振替用紙が導入されたケバケバしいSGK会報と見まがうような印刷物が送られてきた。

 まさに憤りを感じた。校友会とか寄付金とかで、この馬鹿大学に既に数万円も払い込んでいるのに更に金額が要求されるというのもおぞましい話だと思う。

 国文学科の同窓生は、大抵の人が、「関大は何もしてくれなかった。放置プレイの詐欺みたいなところだった。」という人が多い。また、僕の友達だからかもしれないが、教員以外は、ろくな所に就職しておらず、未だに苦労の連続。それなりにやっているには、中小企業の経営者の息子とかそういった人達。

 僕の弟も関大卒だが、校友会費はおろか寄付金等、一銭も払っていない。僕よりもずっとマシな人間だ。彼も大学が紹介してくれた企業に入社したが、1年も経たない内に出向に出され、それが、飯場の仕事の様なひどいものだったので、辞めて、今は、外資系の会社で働いている。

 佛大の中世文学のK先生も関大大学院で博士号をもらっているが、相談すると、「ああいうのって、1回払ってしまうと、何度でも催促がくるんだよ。だから、最初から払わないのならば、それで通さないといかんよ。」ということだった。

 佛大を数年前に退官されたN先生は、大阪府立図書館のH先生の弟子だったが、H先生が何故、T先生のイジメに逢って、辞職されたの、K先生が、先生方に全然構って貰えず、冷や飯を食わされているので、自分の在籍している大学に来てもらったといった話をされていた。やはり、ヨソからみても酷い学校だと思われていたみたい。

 こういった関西大学の体質は、平安文学のK先生が入られてから、大部改善された様だが、それ以前に在学されていた学部生、院生は、まことに気の毒だ。

 関大は、「放置プレー」原則の大学だったので、仕方がない。

 日本の高等教育自体がこんな感じだった。今、それらの人達が、社会の中核で指導的立場に立たれているが、やはり、そんなレベルの教育しか受けていないので、日本の国自体が、大きな退潮の局面を迎えざるを得なくなっている。

 僕らの時代は、やたら学生数が多かったので、までに、デマゴコス・烏合の衆の教育だった。僕の出た兵庫県K市立K小学校の教育理念が、「人間尊重」であり、額までかけられていたが、実際には、70%までの人間がついてこれる画一教育で、残り30%は放任といった状態。それは、中学、高校まで続いた。一方で、軍事教練まがいの体育教育や風紀指導は厳しかったので、息が詰まりそうだった。

 だから、関西大学に入ると、「空気が戻ったような自由感」を感じたが、それは、決して、良いものではなくて、新たな「放置プレー・学費ぼったくり」の始まりだったのだ。

 何も関西大学ばかりが悪いのではなくて、B、Cランクの近大や甲南とかそういった大学は、大体が文系は、放置プレーだった。大学は、学生の父兄を騙すか、納得ずくで大金を巻き上げるのが当然であった。

 それなのに、これらの「放置プレー」を満喫して、クラブ活動等に勤しんだ人達は、懐かしいので、馬鹿みたいに高い校友会費や寄付金を払っても平気というのも情けない話である。

 佛教大学の通信大学院に入るまでは、大学というのは、「放置プレイ」の場所で、学部生というのは、何にも構ってもらえないところだと思った。

 実際、関西大学では、授業で疑問に思ったこと等を先生に聞きに行こうにも研究室は立ち入り禁止だし、資料室も学部生は、無断に入ってはいけない場所なので、疑問等を解決する方法もない。卒業論文の研究指導も卒業までに2回、時間、教室を決めて実施されただけで、それ以外は、担当教員へのアクセスは禁止されていた。図書館の書庫利用も禁止されていたので、これだけは、H先生に懇願して、出入りを許してもらったが、教員や院生達から白い目でみられた。

 これだと、佛大の通信教育の方がずっとマシである。

 佛教大学通信教育の場合は、直接手紙を出そうと面談を申し込んだ場合には、予約制だが、大抵の先生は親切に教えてくれる。
 
 佛大の通信大学院に入学した時には、本当に全然違うと思った。素朴な疑問とかにも先生方は、懇切丁寧に教えてくれるし、放置プレイ等はもっての他といった感じ。学部生の場合も質問票等を提出する必要があるが、やはり、それなりに疑問に親切に答えてくれる。

 こうした大学だから、学生は、充実感を感じるし、卒業後も校友会費や寄付金を払う気持ちにもなれるのだと思う。

学報は、佛教大学の歴史そのもの2010/10/24 22:18

 佛教大学に関する印刷物とかアイテム等を収集するのも私の楽しみ。

 在学中に配布されたプリントとか冊子等も出来限り保管しており、スクーリングの資料もクリアファイルで分類している。

 残念なのは、引越の時に一部紛失してしまった。仏教辞典の左にある佛教大学報は、2001年から2009年分を完集していたのが、2008年のが見当たらない。

 全部綺麗に集めると、背表紙の佛大マークを綺麗に描けるということを知っている人はいるのだろうか。但し、不思議なのは、2006年から5年間で新しいマークが出来る筈だが、どうやら印刷屋さんが順番を間違えてしまったよう。

 バックナンバー等は、大学の事務室前に「ご自由にお持ち下さい。」等を念入りに見て回っている。

 特に2008年以前は、同窓会でも配布されなかったので、大体10月頃に新しいのが出るので、その頃合いに事務室等の冊子を置いてあるコーナー等にいって集めていた。

 その左が法輪で、これも本来は、第9号から第15号まで持っていたのだが、一部無くしてしまった。残念である。

 学報は、佛教大学の歴史そのもので、学部学科組織から教員の移動、大学院での発表内容等貴重なデータがまとめられている。その年に就任される先生方のお話等も掲載されていて楽しい。

 この他、実家においてきているが、洛友等の通信学友会の機関誌等も読んでいて楽しいし、自分の写真が映っている(大抵は、行事に参加している時の写真)ので、記念にもなる。

 ガイドブックのCDROM等も最近でも時折再生したりしてみている。

 後は、有料なものは駄目だが、学術論文集等も貰えたものは、大切に保存している。
 文学部基本図書目録は、今、読んでも参考になる。

 仏教文学概説のテキストは、黒田教授夫妻著に変わっているが、その前の高橋貞一先生のものも面白い。高橋先生は、講談社文庫の平家物語の校注をやられていて、それが非常に優れている。

 返す返すも学報の2008年が見つからないのが悔しくて、しょっちゅうアチラこちらを捜している。