通る度にカメラを向けている2010/12/09 21:07

 今日は、仕事で京都丸太町の近畿農政局へ。

 途中、平安女学院の建物があった。ここは、通る度にカメラを向けているが飽きない。

 今日も、スケッチブックを抱えたおばさん達に遭遇。

 仕事自体は、大変だが、あちらこちらに出かけることが出来るのは、楽しい。

「造る自分」2010/12/09 23:00

『坪内稔典の俳句の授業』(黎明書房)を京都烏丸のじゅんく堂で買った。電車の中で、読んでいたが、第3章の「現代俳句の世界」が面白いというか納得。

飯田蛇笏や飯田龍太、森澄雄、金子兜太等々お歴々の登場、非定型とか前衛俳句等もでてくる。

つまり、大正期から昭和時代に至るまでの近現代俳句史の世界である。

季語や定型の破壊は,何故、行われたのか、そして、その限界とは、そういった問題について、稔典先生なりの考え方で書かれている。

ここで印象的なのは、稔典先生の場合は、子規の写生の忠実な蹈襲者としての辻桃子先生等に比べて、「写生」ということについて一歩、下がって客観的にみている点である。

つまり、俳句づくりは、「写生」そのものではなくて、あくまでも「写生」は、創作の手法の1つであること、金子の初期の前衛俳句は、何故、その様な表現を生んだのか。或いは、同時代の社会派の俳句とは。

そういった問題点に触れており、興味深い。

しかし、何故、金子兜太が、その後、伝統的な俳句に戻り、現代の俳句界も、部外者からみれば、後退・退化とも言える、定型表現の世界に戻ってしまったのかということである。

これについても結論は書かれていない。但し、ヒントになるものはある。
それが、「造る自分」ということで、社会という中で、自分を絶対的存在として、切り離して考えるのか、それとも、融合して存在として考えるのかという点である。

現代の俳句という文芸は、江戸時代の昔に帰ったというか、句会の中での連衆文芸としての集団性をみせる社会的遊戯の1種となっている。つまり、こうした中では、表現理解の共有、つまり表現の普遍性ということが1つの前提条件になってしまうのである。

「造る自分」を社会と切り離した場合には、「同人誌」というメディア媒体を通じて読者、俳句仲間との交流があるが、今の同人というのは、あくまでも句会での直接交流が中心で、同人誌は、あくまでも、「機関誌」としての役割になっているのである。

そうなると、表現は、不定形とか前衛とかそういったものは成り立たなくなっている。

ひらったくいえば、「変わり者」は、排除されるのである。

こうした流れ、現代のクラシック音楽の流れと類似している。つまり、古典派、ロマン派、後期ロマン、ネオロマン、現代、前衛という流れは、実に俳諧・俳句の歴史に非常に類似している。

特に20世紀に入るとクラシック音楽は、王侯貴族の遊戯的側面から離れて、社会と切り離された純粋な自己表現の場となり、普遍性よりも、絶対的表現価値を求める動きに変化していった。

その行き着くところが、1950年~1960年代のジョン・ケージやシュトックハウゼン、あるいは、リゲティとかいった連中で、彼らの音楽は、完全に孤立しており、超俗的であった。しかし、結局は、廃れていったのである。

クラシック音楽の場合は、再び聴衆との交流、社会と融合した自己表現の世界に戻った要因は、音楽メディアの発達であった。つまり、新たな音楽商業主義、メディア融合により、独立的な個性の表現よりも、一般に理解しやすい表現、普遍性が求められる様になっていった。

こうした、調整、あるいはリズムさえも破壊の限りを尽くし、最後には、ジョンケージの様に「音の実在」さえも捨て去り、時間の経過のみが音楽とする「禅」の様な世界から、誰もが理解出来る調性、リズム、歌、和音等の音楽に回帰してしまったのである。

結局、こうした流れの中で、「俳句」、「音楽」も本来の芸術ではなくて、大衆文芸・芸術、第2芸術といった見方もあるが、それは、社会性と芸術・文芸の連携を肯定するか否定するかの立場に違いに他ならない。

 松ぼっくりジョンケージを気取りたる

☆☆☆
今日の俳句、何かエロイイメージが浮かんだので、俳句らしきものを造ってみた。(またまた夢の世界である。)

氷層の緑青蹴散らす冬氷河
ヒーターで色香増したる網タイツ
バニー嬢ワイン注ぐ手寒さ知る
瑠璃色の爪暖炉求めて動くなり
天道虫お日様捜す冬の朝
黄金の隈取りの雲霜降らす
鬼ごっこ鵯(ひよ)の加勢で負けにけり