パワーを対象に放射して初めてみえるモノ2011/02/28 22:58

 今日は、佛大四条センターで安藤先生の講義を受講した。

 今日も、法隆寺の壁画について、以前も同じ内容のお話を聞いたのだが、今日、再度、同じお話を聞いて、別な発見があった。それは、つまり、壁画の配置によって画風が異なるのは、何故かという点について、常日頃疑問に思っていた点で、ある仮説が閃いたから。

 それは、ここでは書かないが、それは、やはり表現上の意図というものがある。もし、法隆寺の金堂壁画が焼失せず、現在まで、残っていたら、仏教絵画史の研究は、かなり、今の様子とは異なっていただろうし、7世紀の仏教の世界観、宇宙観について解明が進んだと思う。

 僕が、安藤先生に惹かれるのは、「ものの見方」である。俳句でも写生とかそうゆうのがあるが、僕は、写生というのは、客観的な分析に基づくものであると思っていた。

 しかし、実際、仏教の根本的な思想を顧みれば、客観的な写生とか分析は、不可能である。つまり、無我の境で、客体の絶対的な分析と認識は不可能であるという点である。

 それは、仏画、仏像でも同じである。つまり、「見る」ということは、凄いパワーが伴うということである。つまり、仏像や仏画等の対象について、自らの意識のパワーを放射し、意識の中に取り込んで、自己の認識との一体化を図って、初めて、新たな分析と発見が可能になる。

 ただ単に目を凝らしてみても駄目だし、数百、数千とみても、自己認識との一体化がされなければ、全く無意味である点である。

 例えば、グプタ朝唐草とか、蓮華文の生命力について、安藤先生は目で見て認識しているが、それが、何故、生命のエネルギーに結びつくか、客観的な説明は不可能で、自己認識の世界で、感じ取ったことなんだと思う。
 
 例えば、蓮華化生とかそういった図案との関連性を説明づけることで、形式的な照明は可能だが、何故、あのパワーが渦巻きを産み出すのかだとか、そういった説明は、実証不可能である。

 安藤先生が物を「見る」時、凄いパワーが照射される。私も先生にお逢いして、そのパワーに圧倒されるというか、感受性の高い人や霊力が強い人にとっては、少し危険な程である。

 しかし、優れたものを感じ取るという眼力と言うものは、本来そうであり、その様な人でなければ、仏教美術の神髄について、直接的に感得することは難しいのではないだろうか。

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