トマソン? 「空」天井から見た世界。2007/12/08 14:50

FZ18で撮影、最大広角であれば、天井の全てが画角に入ってしまう。
 写真は、天王寺美術館の近くにある「空間天井」だ。
 本来、屋根がある部分は全て素通しになっており、空が見えている。
 これは、何の役にも立たない「トマソン物体」なのか、それとも、何か他の深い意味があるのだろうか。
 「空」は、スクリーンと一緒で、晴天には青空が、曇りの日には、鬱陶しい雲が、夜には、星天井に変化する。
 この空天井は、融通無碍に変化し続けるが、それでも、その内側と外側を区別し続ける。
 大乗仏教の「空」は、スクリーンの様なものだというが、境界があるスクリーンである。
 アナログの項目で書いた事があるが、やはり、この「空」は、次元の「境界膜(スクリーン)」であると、すれば、その先には何があるのだろうか。
 人間には、時間を認識する客観的な器官は存在していない。つまり、人間の「識覚」の限界を超える事、それは、時間の概念を抜け出す事である。
 「縁起」は、「論理」であり、「論理」は、時間のシーケンシャルな変化が前提で存在している。
 つまり、時間の概念を抜け出した時には、「縁起」は、消滅する。「これから来るもの」も、「いま、目の前に見えているもの」も、「過ぎ去ったもの」も関係なくなる。
 すなわち、「縁起」が消滅し、人は、「因果」からも解き放たれ、苦しみからの「解脱」も可能になり、「涅槃寂静」の境に至る事が可能になる。
 ところで、往生するという事は、すなわち、解脱し、仏となる事である。だれでも往生すれば、仏になれるが、実際に、この様な有情もの達(全てのものが仏性を有している)がいく事になる「浄土」から「人間世界」を見れば、凄いことになるだろう。
 観音菩薩は、この境界を乗り越えて、人間界の「音」を聞く事が出来る菩薩である。
 彼から見たこの世は、人間の「識」・「思考」が始まってから遙かな未来までが、連続して、並列的に存在している。解脱・往生する前の自分や両親、あるいは、遙かな先祖、はたまた、子孫達の姿まで見る事が出来る筈である。
 但し、菩薩自体は、アーラヤ識は別として、既に、因果による「我」を失っているので、自分自身や生前に縁(えにし)があった人達の存在には気がつかないだろう。
 その慈悲による救済の対象と映っても、それ以上の対象には成り得ないのである。

『3万年の死の教え チベット「死者の書」の世界』2007/12/07 00:02

『3万年の死の教え チベット「死者の書」の世界』(角川ソフィア文庫)

 この世に「死者の書」と呼ばれる書物はいくつかあるが、エジプトのオシリス神にちなむもの、折口信夫の「死者の書」の様に古代の貴人の御霊を象徴的に蘇らせて過去の世界に読者を誘おうとするもの等様々である。
 この「3万年の死の教え」は、チベットの死者の書を扱ったもので、日常的にチベットの仏教で信仰されている如来蔵思想に基づく「バルド・トドゥル」と言う経典に書かれている内容を最初は、1.老僧と弟子の小僧、死者、家族の関係を通して、体験的に描き、2.ユングの心理世界に通じる人類共通の深い心理と瞑想の経験、そして、3.カルマ・リンバの発見の記述で構成されている。
 最初の体験記では、ある家の長男が臨終を迎え、老僧のチベット経典に基づく臨終儀式・作法の解説が中心となっている。
 チベットでは、「死」は、終局を意味せず、1.生命存在のバルド、2.死のバルド、3.心の本性のバルド、4.再生のバルドで構成された世界を移動する事に過ぎない。解脱出来ない魂は、1→4の過程を繰り返し続ける。
1.死の第一段階は、呼吸の停止だが、身体の内部では気脈は保たれている。
2.やがて気脈は、頭頂部と臍部からの2つの気脈がぶつかり、バースト状態となる。ここで、生前、ヨーガの訓練をしておれば、パニックに陥いる事なしに、次の段階に進む事が出来る。死後も常に心を冷静に保っておかなければならない。「バルド・トドゥル」はこの為に教えなのだ。
3.透明な光に導かれる様に意識は、死者の身体から分離していく。
4.この段階に至っても、死者は聴覚だけは生きており、老僧の言葉を聞くことが出来る。
5.1~2の過程を経ていよいよ3の心のバルドへと移っていく。
6.あらゆる意思の根源の光が現れる。同時に様々な邪念も生まれる。大日如来や阿弥陀如来等の光と一体化出来れば、解脱への道をたどれるが、それが出来なければ、4.の再生バルトへと移行する。ところが、これらの正しい光、死者にとっては、グリーンや白色の極めて強烈な光なので、恐怖感に先に捕らわれる。だから、正しい光を見極める為にも生前から修行が必要なのだ。
5.再生バルドでは、再び生命バルドに転生する為に幾つかの試練がある。そこで死者は、六道の内、何に生まれ変わるのかが決定される。日本の閻魔の様なヤーマ神が支配する世界だ。
 こうして見ると、日本人の場合は、臨終後、三途の川を渡り、いきなり、2~4を飛ばして、5の再生バルドに入ってしまうが、チベットの場合は、それまでの過程の方が重要なのだ。
 死者の多くが、心の本性のバルドであらゆる生命の根源である「原光」と融和・合体出来ないで終わってしまう。この融和を行う為には、人は、生前から瞑想を行い清らかな光を見分ける力が必要である。
 その根底には、先ほど述べた如来蔵の考え方がある。大乗仏教の中心思想である中観や唯識思想が統合された考え方である。
 人の意識の最も深いところにあるアーラヤ識は、バルドの境界を越えても存在し続ける。また、それは、心のバルドの「原光」に導かれようとする方向に仕向ける働きを持つ。それがあらゆる生命体が持っている仏性であり、菩提心に結びつく。
 この本の「3万年の死の教え」という副題は、こうした、「心のバルド」が死を越えた人間の存在の深い根底にあり、それを瞑想を続ける事で「光」として会得出来ると言う考え方が、チベット以外のオーストラリアの現住民族等にも見られ、それを象徴する絵画も描かれている事を指摘する。
 人間の思考は、「言葉」によって行われる。人類が言葉を会得してからおよそ3万年以上が経過していると考えられる。言葉が生まれてから人類の最も深い思考は、死と再生と自らの意思との関わりへの探求であったと考えられる。それが、この本の著者が訴えたい事なのだと私は考える。
 実は、この「死者の書」は、NHKの特集番組として映像化されている。しかし、映像化されたTVを見るよりも、この本の方が雑念なく、老僧と少年の静かな対話を通じて、チベット仏教の深い世界に入っていける。
 ところで、如来蔵の思想に一番近いと考えられるのが、手塚治虫の『ブッダ』の最初の覚りの場面であり、この場面では、ブッダは、あらゆるこの世の生命が一つの大きな光から生まれて来ている事を知る事になっている。手塚のブッダの覚りは、チベット仏教に近いのだろうか。
 この本は値段は安いが、チベットの仏教絵画の基礎的なものは、如来、菩薩、曼荼羅と殆どが収められており、その精神的背景を知る事が出来る点でお勧めだと思う。特に佛教大学の仏教芸術コースでは、仏教絵画の実習の授業を選択でとる事が出来る。私は、選択しなかったが、チベット仏教の観音菩薩の仏画を描く事が出来る。観音菩薩は、再生バルドに入って既に絶望的な状態となっている死者を、慈悲の心でポア(救済)して下さる有り難い存在である事もこの書物には描かれている。

マイアナログ 序章(続き)2007/10/03 23:05

棒みたいのが人間のつまり、下手な絵で申し訳ない。時空の境界を越えられない人間は、はかない存在である。
 前回は、仏教思想の説一切有部と中観派とデジタル・アナログに結びつけると言う強引で滅茶苦茶な事をやってしまった。
 人は、アナログの演奏を「暖かい、人間味がある。柔らかい音色」と表現する。
 アナログの魅力ってそういう事だろうか。
 私は、ただ単に柔らかく、人間味がある風の音は、デジタルでも出せると思う。
 むしろアナログの魅力とは、「無限の境界線への志向」の魅力だと思う。
 人は、実際には無限に‭広がる音を捉えて聞きたいのだが、実際には、遠く離れるにつれて雑音にまみれて消えていく。
 たしかに、マーラーの交響曲第9番のアダージョ楽章の様に、どこで消えてゼロになるかは判らないと言う面がアナログにはある。
 デジタルの場合は、その点、データの有・無なので明白である。
 つまり、信号の点滅の様にあるところに行けば消えてしまうのである。
 前回の書き込みで、私は、大乗、中観思想がアナログだといった。また、その根底には、人間の時間の絶対認識能力の欠如と言う要素があるとも述べた。
 つまり、「人は四次元の世界を体験する事は出来ないのである。」
 また、三次元の空間は、実は、時間の壁と言うか膜によって閉ざされた卵の様なものと考えてよいだろう。
 四次元の世界から見れば、私たち人間は、薄い殻の覆われた卵の様なトポロジー(閉ざされた)的な物体にしがみついている様に見えるだろう。(図参照)
 私達が永遠に続く、「果て」だと思っていたものは、実は、卵の殻・球体を覆う膜であった訳である。
 閉じた三次元空間を覆う膜、それが宇宙の果てであり、次元の境界である。ハッブルの膨張宇宙論は、まさにこの様な認識に基づいている。
 「空」とは「無」でもなく、「有」でも無い世界である。
 存在している様で存在しない世界。すなわち、四次元空間が認識出来ない私たちは、卵の殻の様な薄い膜に無限の時間が転変する諸行無常の事象がスクリーンに投影される映画の様に見ている。
 しかし、更に私たちよりも上の存在、つまり、如来、修行成就者から見れば、既にこの境界を越えているので、単なる虚像しか認識出来ない人間世界がまことに閉じ込められた窮屈で、哀れな存在にみえる事だろう。
 音楽も実は、4次元空間におって始めて実体的に認識出来る訳で、3次元の私たちが聞いている「音楽」は、虚象に過ぎない。それにもかかわらず、私たちは、その虚象に精神世界の存在を認め、時には、人生の価値観まで左右されている。
 アナログは、そういった次元の境界への夢幻の憧れと執着を志向しているのだと思う。
 最初に仏教の教えは、現象論に過ぎないと書いた。オーディオも結局は、私たちの唯識的な現象を示しているのに過ぎないと思う。
 アナログオーディオは、「苦悩」でもある。
 「虚象への執着」それは何時までも割り切れず、結論が出ない。
 オーディオマニアである限りは、永遠の煩悩に悩まされ続けて、決して、涅槃の域には達する事が出来ない宿命を持っているのだろう。

マイアナログ 序章(仏教とデジタル・アナログ)2007/09/17 10:09

 このコーナーでは、マイアナログと題して、私の独断と偏見によるアナログライフ・価値観について、順々に書いていきたいと思っている。
 アナログ・デジタル的な認識は、そもそも何が期限なのだろうか。
 私は、インド思想・数学に期限があると考えている。仏教もインドの数学的な思想の影響を受けた思想であり、結局、ブッダは、「一切の現象は、論理的な因果関係で成り立っている。五蘊から生じる現象の苦しみから解脱するには、迷信にとらわれず、現象について、論理的な観点から分析・把握し、その原因を究明し、止滅せよ。」と説いたに過ぎないと考えている。
 例えば、初期の仏教である説一切有部の現象論は、佛教大学の仏教学概論には、次の様に記述されている。
 「三世(過去・現在・未来)においてダルマが存在する事が、諸行無常を現している。例えば、机の上におかれたコップは、1分前、1時間目、いや昨日からまったく変化せずに存在していると常識的には考えられる。しかし、実際には、それらは、私達の感覚の中で、瞬間的に消滅するダルマの不断の連続に過ぎない。それらのダルマの一々は、時間的持続性を持たないから、次の瞬間には、全てが消滅する。」
 この記述はいささか判りにくいが、簡単に言えば、「私たち人間は、時間の経過を絶対的・連続的に認識する事は出来ない。結局、瞬間的に分断された認識の連続で現象を把握しているに過ぎない。」と言う事になる。
 「ダルマの一々は時間の連続性を持たない」ので、私たちは、それそれのダルマの「残像」によって、連続していると錯覚を起こしているのに過ぎない。それらの「残像」は、やがて消え去ってしまう。これが、「諸行無常」と言う事である。
 説一切有部の現象論は、実は、現代のコンピュータサイエンス、デジタルカルチャー、映像、音楽文明の原理となっている事に私は気づかされてハッと息を飲んだ。
 つまり、今、使用しているパソコンのクロックは、毎秒1GBで作動している。これは、毎秒1000000000回に分断された時間で動いているのだが、私たちには、全く連続した動きに見える。ディスプレーは、毎秒60回で点滅を繰りかえしている。これも殆どちらつきを感じさせない。8ミリ映写機は、毎秒16コマである。この辺りになると明暗がちらつきとなって現れる。16ビットPCMデジタル録音は、毎秒4万4千回、1ビットでは、数10万回に音信号を分断して記録再生しているが、音は滑らかに連続して聞こえる。
 この様に説一切有部の思想は、五蘊において、こうした時間認識・感覚器の欠陥によってもたらせる現象を科学的に説明している。
 一方、中観派は、この様な非連続性に基づく現状認識を否定した。つまり、「時間を含めて連続的に現象は存在しているが、覚りを得た如来や菩薩はともかく、一般の人間は、時間について絶対的な認識を持ちえないので、連続した空間や世界そのものを認識する事は出来ない。認識・存在出来ないのであるから、それらは、すなわち空(虚性)であると考えざるを得ない。」と論じた。
 
 この様に、古代仏教思想では、2000年も前から、既に、現代のメディア文明の「虚性」と言う科学的な本質を示している。
 結局のところ、説一切有部、中観大乗思想も物体・現象に拘る事の無為性を説いているのだが、それらは、現在人の生活を支配している様々な感覚的本性に関わっているのである。
 例えば、身近な例で音楽について考えていると、その本質は、「空」であると言えるだろう。
 すなわち、実在するものではないので、本来は、そのまま、連続的な存在として記録する事が出来ない宿命を持っている。
 アナログ録音でさえも、実は、完全に連続的な存在の記録であるとは言えない。
 必ず、「時間指標」がその記録には必要となる。テープの走行時間、レコードの回転数等がそうであり、人間の絶対的時間感覚の欠如をこうした時間系を人工的に付加する事で補っている。
 また、現象の変化を記録する為に連続的変化を記録し、更に可塑性を持たない物質・媒体を使用する。これは、ポリエステルフィルムや磁気等で、時間指標と共に記録されている。
 一方、デジタル録音の場合は、連続した時間系を持たない変わりに、現象の「瞬断・単位」を数学的に決めておき、その単位で分断されたデータを数値で記録していく。この結果、瞬断・単位が正確に再現されれば、正確に記録された変化の現象再現が可能になってくる。
 しかし、このデジタルデータにも大きな欠点がある。すなわち瞬断・単位よりも小さいデータや範囲外のデータは全く記録されないと言う点である。
 先ほどの説一切有部のコップの説明では、瞬間的な消滅の時間単位よりも速く物体が動いた場合や、その範囲外であれば、誤認識や全く認識されない所謂、「錯覚」が生じる事になる。
 デジタル録音も同様であり、実は、音楽を記録する上で、錯覚や欠落が生じている可能性もあるのだと思う。

誤解された仏教2006/11/18 21:25

電車の中でカバーをつけずに読んでいたので痛んでいる。
今日は、本当は、平曲の公演が佛教大学アジア宗教文化センターであって、関山名誉教授が解説されると言う事で上京したかったが、天気も悪く、日もささずのクラーイ朝だったので、ブルーな気持ちになって一日中家に閉じこもって本を読んでいた。

『誤解された仏教』(秋月龍珉著 講談社学術文庫)を電車の車内で読んでいたが、後半になって判らない箇所が出てきて読み終わらないで難儀していたのを一応最後まで読み通しというか、頁をめくり終わった。

たしかに、梵我一如論や現在の「葬式仏教」の教義ともいえる輪廻転生を釈迦は認めていない言う考え方にはうなずけるが、更にもう1歩踏み込んで欲しかった。


その点、今夏、佛教大学のスクーリング「ブッダの教え」を担当された松田 和信先生の講義では、果たして仏教とは、宗教なのか思想なのか、釈迦は宗教者になる事を目指されたのか、それとも、もっと現実的な方法を覚り、人を導かれたのかと言う点を考えさせられた。

「誤解された仏教」では、たしかにこれ以外に「なるほど!」と考えさせられたところでは、

・釈迦の覚りとは、「縁起の理法を悟った」と、説明している仏教学概論の教科書や先生方から「正法」を学ぶ事は出来ない。例え、所謂、学識者よりも、毎日の修行の中で、例え、「ノミのキンタマ・・・・」程度でも本当の覚りを得た師以外から学ぶ事は意味がない。
と言う点も、首肯すべき点はあると思う。私も岩波文庫の『仏陀の言葉』等を読み進み、幾つかの仏陀の生涯について記した概説書を読む限りでは、釈迦の覚りは、理によるものではなくて、直感による覚りであったと考える。釈迦は、梵天勧請が本当にあったかどうかは知らないが、恐らく、周囲の者達から教えを請われる中で、「ことば」で説法する段階で、「五蘊」、「四諦」や「縁起」等の語彙を考えられたのだと思う。そうして、恐らく、「ことば」から始まったのだと考える。だから、仏大のレポートでも「ことば」を重視して書いた。「理屈」は、ことばの結びつき・相互関係を表したもので、それ自体は、意味が無いと考える。しかし、前に書いた通りレポートの評価は最低であった。

まぁ、こういって点では関心したが、後半は、やはり大乗、特に禅の立場から空論や唯識論について説明されているが、これは、難しくて理解出来なかった。また、最後の方で、「日本人の霊性」が民俗としての自覚は、中世以降になると書かれているが、日本の思想史の中に出てくる文献、例えば『霊異記』等を見ても、少なくとも奈良末期から平安時代初期には、民衆レベルでも「霊性」については自覚しているととれる説話を見いだす事が出来るので、これは誤りと思う。

結局、最初の数章は非常に面白いが、それ以降は、あまり、読んでも意味がないと思う。

問題:仏性について説明せよ。2006/10/25 12:43

先日の仏教学の最終試験の問題である「仏性について説明せよ。」の回答が正しかったか否か、仏教学辞典で参照してみた。

「仏性」とは、「仏とはなんぞや」と言う事と思う。仏教には大乗と小乗の大きく2種類あるが、最大の違いは、仏性についての観点である。

仏陀が生きていた時代には、仏陀が「ほとけ」そのものであった。しかし、仏陀が入滅するとそうはいかなくなる。そうして、仏陀の教えそのものを「ほとけの教え」→「ほとけ」→「仏性」と見る様になる。


「仏性」には、大きく分けて3種類あるとの観点も生まれた。①先天的に備わっている。②後天的に得る(つまり修行によって)

更に、③②についても元々先天的に備わっていた「仏性」を修行によって開花させると言う観点も出てきた。

これらの考え方が更に発展して、「一切衆生有仏性」と言う考え方が見られる。一切の生き物は仏になり得る本来の性質を持っていると言う事になる。

大乗以前の場合は、仏や菩薩以外の成仏についての考えが見られなかったので仏性論は殆ど問題とされなかったが、大乗仏教は、「仏性論」こそが根本となる。


つまり、「一切衆生有仏性」から、あらゆる者が菩提心を持てば、菩薩行の果てには仏陀になり得ると言う考えから、多くの如来(仏)や菩薩が誕生する事となった。

また、菩薩行は、自覚覚他と言う事であまたの衆生を覚りに導く事で、自ら成仏出来ると言う誓願に基づいて行われる。

佛教大学の宗派である浄土宗では、阿弥陀仏の本願力によって往生を遂げる事が出来るので、難しい修行等をしなくても、お念仏をする事で、在家、僧籍にもかかわらず往生出来ると言う理屈になる。

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私は、「仏性」等、信じていない。
善人は善人であり、悪人は悪人である。

芥川の「蜘蛛の糸」と言う短編で盗賊が虫けらの命を救ったから、お釈迦様が救いの糸を垂らす。しかし、盗賊は後に縋るものを振り払った為にお釈迦様は、糸を断ち切ってしまわれた。

これを「仏性論」の観点から見れば、この「糸」が仏性となる。盗賊の自分だけ助かろうとする行為を自我(エゴイズム)ととるか、死苦から逃れようとする執着と採るかは、ここでは述べない事にする。

ここで重要なのは、十万億土も離れた衆生を成仏に導く筈の「一切衆生有仏性」が、一つの執着に打ち消されてしまった事実である。つまり、仏性は、絶対安定したものではないと言う事をこの短編は示唆している。

ゴータマ・シタルダ(釈迦)は、アートマン(自我)を否定したが、自我とは、個々の存在の性質で過去・現世・来世を通じて変化しないものと言う事で、これは、ある意味「仏性」と包含関係となる。

彼の人(釈迦)は、バラモン教の恐怖的性格の大きな要素であった(輪廻)さえも否定されただろう。しかし、彼の死後、バラモン等の土着の宗教に本来の仏教が染まっていく事が避けられない中で、輪廻や地獄等の思想が取り込まれていく中で、「自我」に変わるものが必要になってくる。

そこで「仏性」論が浮上してくる。もともと「仏性」がある者が何度も転生を繰り返しながら、菩薩行を積み、最後には、「仏性」を蓮の花のように開花させて、如来となり、一切衆生を救う事が出来ると言う位置づけ。

当然、過去・現世・来世の三世を通じた「縁起」・「因縁」にも「仏性」が関わってくる事になる。「仏性」は、すなわち、万物に備わる「因」と言う事になる。一般衆生が「仏」になる事は、縁起に因って導かれた因果という事になる。

龍樹『中論』によれば、「釈迦は、縁起については、戯論であると断じている。」と説明している。

「仏性」・「蜘蛛の糸」=戯論と言う事になる。

そうなれば、「仏性」もすなわち「空性」と言う事になり、この世に仏等存在しない事になってしまう。

解脱による往生を説いた本来の「ブッダの教え」と矛盾すると結論づけられる。

答案にこの様な事を書いた私は不合格になるだろうか。