3両編成運転2006/10/01 18:26

2両編成運転の様子 IXYDIGITAL70で撮影
今日も雨だったので保線作業に専念。
どうにか3両編成までは、なんとか走る様になったが、いささか不安定。
2両編成では、安定して走る。
こんな短いコースでこの有様では、少し大変だと思う。
ZJゲージで小さいので結構スケール感が出る点は評価。
この辺りで放っておいて、来週は木とか建物に着手です。

京都人の自己意識2006/10/09 18:48

IXYDIGITAL70で撮影 京都三条通りでは、明治30年代に作られた最も古い洋風建築であるが、店舗として活用されており、若者向けのファッションのメッカでもある。三条あかり景色の当日撮影。西洋近代建築の独特の雰囲気がライトアップとあいまって妖しさを醸し出している。
 
 「京都学」という言葉があるけれども、今、京都と言う地域は本当に面白い事になりそうだと思う。

 京都人、大阪人、神戸っこ、同じ関西弁を話していても、それぞれの文化的気質はかなり異なる。

 また、生育環境によっても「文化観」、「言葉観」は異なる。私は、「おおきに」と言う言葉がなかなか言えず、30歳を過ぎた頃にようやく口に出来る様になった。(ウチの家は商売人やないよって。)

 京都人の文化気質の特色として、「自己意識」が強い事が考えられる。「ヨソさんはどないに思うてはりますやろか。」と言う意識は、恐らくは、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和の時代の流れ中で、町衆のご近所とのつき合いの中で常に意識されて来た事だと思う。

 面白いのは、近代メディア文明が発達してからは、この様な意識が同じ京の町衆以外の「ヨソさん」にも向けられ始めた事である。

 21世紀の地域政策・公共政策の変化の中で、まちづくり、地域振興と言う事が焦点を浴びているが、同じ関西圏の中で、京都はまちづくりと言う点で最も先進的役割を果たしている。

 観光地と言う土地柄もあるが、これは、やはり、長年培われて来た住民意識が大きいと思う。

 10月7日(土)佛教大学四条センターで、この大学が力を入れている総合研究所主催による「京都の未来~発想の転換」と言う公開講演会が開催された。

 佛教大学は、浄土宗と言う宗教環境の中で、単一性、均質性を帯びた学術展開の傾向があると思われがちであるが、それがどっこい実は、非常に学際的な面白さがある。

 「ヨソさん」の大学では、文学部の中でも学科が違うだけで蛸壺的に、仕切られがちであるが佛大の総合研究所は、社会学、文学、教育学、浄土宗研究が、融合して1つのテーマを追求すると言うユニークな組織である。


 この総合研究所が主催した京都の未来発想の転換では、最初に社会学公共政策学科の関谷先生が、中京区のマンション建設ラッシュの中で、これまでの町衆主体のコミュニケーションから、新旧の垣根を越えた新しいコミュニケーションが新しい地域社会が作り出す可能性がある事、教育学の橋本先生は、学校教育の現場に京都弁を取り入れたら、生徒達との本音のコミュニケーションが実現し、新しい教育の可能性が実現しないか。近代文学の三谷先生は、川端康成の文学作品の中で、山紫水明と言う文化的風土の中で、常に新しい変化を模索しつづける京都人の気質を指摘、浄土宗僧侶の安達先生は、これまでの観光寺院から「本当の佛教とは何ぞや」と言う一般人の疑問を解決してくれる身近な修行道場をつくる事で新しい展開が出来ないかと言う、それぞれが非常に斬新なアイデアや発想に満ちた「京都観」が披露された。

 当日の四条センターには、ご年輩の方が多かったが、多くの人は京都市内から来場された為に、地域意識は、非常に強く、講演内容への反響も大きく、質疑応答を通じてライブコミュニケーションが実現していた。

 これまで四条センターの講演やセミナーには、何度と無く通っていたが、「本音」の質疑応答が出たケースは今回が初めてであった。

 私は、残念ながら京都に生まれ育った人間ではないので、例えば、橋本先生の京都弁と標準語による授業では、京都弁の方が本音のコミュニケーションが実現出来ると言う説明には、全て共感し得なかったが、地元の京都の人には、大きな同調を受けていた。

 京都と言う「内輪の文化」は、近郊の大阪や兵庫の人でも入って行けない面がある。だから、「京都の未来」を論じる場合には、「内輪」の論じ方と「ヨソ行き」の論じ方があると思う。

 今回の講演では、「京都に生まれ育ったのが当然。」と言う恐るべき集団原理の中でのコミュニケーションが実現していたので、他の地域の人には入って行きづらい点もあったのではないだろうか。

 この「体感」の違いを分析する事が、京都と言う地域性を客観的に分析する手がかりになるのではと感じた。

木を植えて見ました。2006/10/09 19:10

IXYDIGITAL70で撮影 フラッシュを炊かないとブレるので困る。マクロモード使用

 3連休とは言え、1日目は京都に出かけていたので、実質は2連休。
急に明け方に冷え込む様になり、首の痛みの持病が出たので、普段の週末よりも低調な活動となってしまった。

 ロボットの工作もあったので、予想外に時間は少なかった。

 従ってZJゲージもレイアウトも木を植えた意外は大きな進展は見られず。
 今日も三両編成で走らせてみるが、走行不安定。走行中の車両を良く観察して見ると、ゴトゴト揺れる箇所がある。きっと「保線不良」の箇所があるのだろう。

 修正する気力もなく、今日はほったらかし。それとこの車両シリーズは、重心が高すぎるのと牽引車両の自重が軽過ぎるので、脱線したりするのだと思う。

 今回は木を植えてみたが、この木は、合計で3千円以上もかかる結構高いアイテム。完全な予算オーバーになってしまった。次いでに駅舎も撮影してみた。


 何かウエイトになるものを追加すれば、効果が期待出来ると思う。

 来週は、ウエイトの追加とトンネル出入り口の作成を課題にしようと思う。

「うちのうちのうちのはなし」2006/10/10 08:59

 「うちのうちのうちのはなし」と言う題名の児童詩がある。
 これは、10月7日に佛教大学四条センターで開催された「京都の未来」の講演の中で、教育学の橋本先生が示されたものである。
 標準語訳すれば、「私の家の内緒の話」と言う事になるそうだが、「私」→「うち」、「家」→「うち」、「内緒」→「うち」と平仮名でかけば、全て「うち」になってしまうのが関西弁の面白いところ。
 但し、書き言葉になってしまったら、文脈と語順で判断する以外に方法が無い。「うち」、「ウチ」、「家(ウチ」、「わたし(ウチ)」、「内(うち)」等の書き分け方法があるが、散文では良いが韻文では、ムードを壊してしまう。
 関西弁では、主にイントネーションで使い分けている。本来は、もっと微妙なだとおもうが、A=高、B=低としてみると、
「私」→「うち」=AB、「家」→「うち」=AB、「内緒」→「うち」=BAと言う事になる。
 これでは、「私」と「家」の区別がつかない事になるので、アクセントをつけて使い分ける。アクセント強音を(*)、弱音を{*}とすると
「私」→「うち」=(A)B、「家」→{AB}
と言う事になる。
 なんと言うややこしい事になるのやろか。
 学校教育で活かしにくいのは、標準語では、アクセントを無視しても書き分け出来る事が、関西弁では、難しいと言う点が影響しているのかとも思ったりする。

ドイツからの小包2006/10/16 21:44

ドイツと言えば○○○○○

 先週末からずっと落ち込んで何もする気がしなくなっていた。
①金曜日に虫歯の治療をしたが、その後の痛みが引かない事。
②風邪を引いた事
③仏教学のレポートがCと言う未だかつて経験した事がない低い評価であった事。
④③にもかかわらず日曜日には、紫野キャンパスまで最終試験を受験にいかねばならなかった事。

すごーく嫌な気持ちである。
外は、選挙カーが走り回っていて連呼で神経を逆なでにされるし....
本日、帰宅して見ると、ドイツから小包が届いていた。(これは、楽しみ)

メルクリンも登場2006/10/17 18:30

IXYDIGITAL70で撮影 2枚の写真を1枚に合成
 
 ドイツからの小包、それは、「メルクリンZゲージ 98056」。
 ZJゲージだが、レールの規格は、メルクリンミニクラブのZゲージと同サイズなので、「相互乗り入れ」が可能。
 国内でも販売されているが、インターネットオークションでドイツから出品されており、新品を一般市価の半値で入手出来た。
 早速、レイアウトを走行させてみる。
 車体が小さいだけあって安定していて、しかも、パワフルな走りが面白い。
 特に豆粒みたいな動輪が回転する有様に暫し見とれる。
 レイアウトも、トンネルの外壁工事が完了し、早速、トンネル通過試験も行う。

なんか停滞中.....2006/10/23 20:43

風邪で体調が悪い状態がもう4ヶ月位続く。
風邪ではないかも知れない。
特に最近は、具合が悪く、先週の週末は殆ど何も出来ず。
 ZJゲージレイアウトは、メルクリン2等客車を購入して3両編成にて走らせて見るが、案外、脱線とかし易い。
車輪の径が小さいので、ZJゲージよりも線路面の凹凸に敏感なので、調整が大変。あまり線路をいじりすぎると真鍮で柔な材質の上に枕木が接着剤の影響で弱っているので線路自体が外れてしまい、こうなると大変な手間で1ブロックの線路を交換する羽目になる。
メルクリンの線路に交換しようかと思う。

日本仏教研究2006/10/23 20:50

 仏教学のレポートの評価が最悪だったので気が滅入るが、今度は、仏教文化と言うテキスト履修科目に挑む。

 レポート設題1は、「教学文献や仏教史史料を扱う上での問題点を述べよ。」でおもむろにレポート執筆を開始する。本当は、「テキストを熟読して...」とあるが、私は、その様な事を2002年から4年間の佛大通信生の生活で一度も守った事はない。

「テキストの要旨をまとめよ。」
と言う設題に対して、テキストの背を外してソート機能がついたスキャナーにかけて、OCRで読み込ませ、そのテキストファイルをWORDで読み込み、その要約機能を使用して3200字にして、章・段をつけて提出した事がある。(この学科はもう卒業済みなので時効かな。)
でも、結構、OCRの読み取りエラーとかあるので、結局は、テキストをチェックして提出原稿をまとめるので、手間は、普通に書くよりも余分にかかってしまった。

今回は、一応、この箇所を読んでとある指導文に従って一読してから書き始める。

「問題点」と言うには、自らが認識する訳であるが、この場合は、テキストに記述されている「問題点らしきもの」を抽出してまとめるしかない。
この作業は無駄であると思う。

文献等の生資料を実際に扱わねば、問題点など見えてくる筈もない。
真面目な学生で実際に教典とか写本とかの資料に当たって見て問題点をレポートする人がいるのだろうか。仕事の合間の学修では、不可能に近い。

手書きの写本を20年以上前に、在籍していた大学の図書館で借りだして数冊みたが、草仮名が非常に読みにくく、問題点にたどり着く以前の問題。

 仕方なく、国文学の時に読み込んだ池田亀鑑先生の古い書物から引用してテキスト批判を中心にまとめる。

 通信教育の場合は、実例に触れる機会が少ないので、この様な設題を出しても意義が薄いと思われるのだが、単位取得が優先。

仏教学辞典2006/10/25 00:05

こんな本です。結構重いが、活字は大きくて読みやすい。

ここ2週間程、酒を断っていたら、給料日前に幾分の余裕が出来たので、そのお金で仏教学辞典(法蔵館)を購入した。価格は、6千円弱。他にも仏教学に関する辞典は、岩波書店のがあるが、書店には、CD-ROM版のみしかないので、携帯用が欲しかった私は、岩波書店版よりも価格が安いと言う事もあり、これを購う事を決定した。

「世界宗教としての仏教は、東洋文化の根底であり、その精華である。」と言う序文から読み進み内容を眺めてみると、「おうおう、書いてあるは。」

佛大の仏教学概論編纂委員会編の仏教学概論のテキストには、索引や頭注が附しておらず、語句から内容を引き出す事が非常に不便だが、これは、簡単に引く事が出来る。

但し、縁起とか空とかの識とかの説明は、テキストの記述と幾分違ったりする。一番面白いのは、「天」の項目で、天人の五衰の事が記されている。これは色々な説話にも登場するが、無色天の住人である天人も永遠ではないと言う事が良く判る。

体臭とか脇の下の汗とか、「自分の位置を楽しまなくなる。」とかある様だが、なんだか自分の境遇そのものの様な感じがして、私は、なる程、「衰」なんだと言う感じたりする。

肉体が衰えるに従って身体からの分泌物が増え始める。若い頃の腋臭とは違う様だ。内臓の働きが悪くなり、身体の老廃物が増えてくるのだろうか。

仏教学辞典を今まで所有していなかった自分の愚かさを恥じている次第である。

問題:仏性について説明せよ。2006/10/25 12:43

先日の仏教学の最終試験の問題である「仏性について説明せよ。」の回答が正しかったか否か、仏教学辞典で参照してみた。

「仏性」とは、「仏とはなんぞや」と言う事と思う。仏教には大乗と小乗の大きく2種類あるが、最大の違いは、仏性についての観点である。

仏陀が生きていた時代には、仏陀が「ほとけ」そのものであった。しかし、仏陀が入滅するとそうはいかなくなる。そうして、仏陀の教えそのものを「ほとけの教え」→「ほとけ」→「仏性」と見る様になる。


「仏性」には、大きく分けて3種類あるとの観点も生まれた。①先天的に備わっている。②後天的に得る(つまり修行によって)

更に、③②についても元々先天的に備わっていた「仏性」を修行によって開花させると言う観点も出てきた。

これらの考え方が更に発展して、「一切衆生有仏性」と言う考え方が見られる。一切の生き物は仏になり得る本来の性質を持っていると言う事になる。

大乗以前の場合は、仏や菩薩以外の成仏についての考えが見られなかったので仏性論は殆ど問題とされなかったが、大乗仏教は、「仏性論」こそが根本となる。


つまり、「一切衆生有仏性」から、あらゆる者が菩提心を持てば、菩薩行の果てには仏陀になり得ると言う考えから、多くの如来(仏)や菩薩が誕生する事となった。

また、菩薩行は、自覚覚他と言う事であまたの衆生を覚りに導く事で、自ら成仏出来ると言う誓願に基づいて行われる。

佛教大学の宗派である浄土宗では、阿弥陀仏の本願力によって往生を遂げる事が出来るので、難しい修行等をしなくても、お念仏をする事で、在家、僧籍にもかかわらず往生出来ると言う理屈になる。

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私は、「仏性」等、信じていない。
善人は善人であり、悪人は悪人である。

芥川の「蜘蛛の糸」と言う短編で盗賊が虫けらの命を救ったから、お釈迦様が救いの糸を垂らす。しかし、盗賊は後に縋るものを振り払った為にお釈迦様は、糸を断ち切ってしまわれた。

これを「仏性論」の観点から見れば、この「糸」が仏性となる。盗賊の自分だけ助かろうとする行為を自我(エゴイズム)ととるか、死苦から逃れようとする執着と採るかは、ここでは述べない事にする。

ここで重要なのは、十万億土も離れた衆生を成仏に導く筈の「一切衆生有仏性」が、一つの執着に打ち消されてしまった事実である。つまり、仏性は、絶対安定したものではないと言う事をこの短編は示唆している。

ゴータマ・シタルダ(釈迦)は、アートマン(自我)を否定したが、自我とは、個々の存在の性質で過去・現世・来世を通じて変化しないものと言う事で、これは、ある意味「仏性」と包含関係となる。

彼の人(釈迦)は、バラモン教の恐怖的性格の大きな要素であった(輪廻)さえも否定されただろう。しかし、彼の死後、バラモン等の土着の宗教に本来の仏教が染まっていく事が避けられない中で、輪廻や地獄等の思想が取り込まれていく中で、「自我」に変わるものが必要になってくる。

そこで「仏性」論が浮上してくる。もともと「仏性」がある者が何度も転生を繰り返しながら、菩薩行を積み、最後には、「仏性」を蓮の花のように開花させて、如来となり、一切衆生を救う事が出来ると言う位置づけ。

当然、過去・現世・来世の三世を通じた「縁起」・「因縁」にも「仏性」が関わってくる事になる。「仏性」は、すなわち、万物に備わる「因」と言う事になる。一般衆生が「仏」になる事は、縁起に因って導かれた因果という事になる。

龍樹『中論』によれば、「釈迦は、縁起については、戯論であると断じている。」と説明している。

「仏性」・「蜘蛛の糸」=戯論と言う事になる。

そうなれば、「仏性」もすなわち「空性」と言う事になり、この世に仏等存在しない事になってしまう。

解脱による往生を説いた本来の「ブッダの教え」と矛盾すると結論づけられる。

答案にこの様な事を書いた私は不合格になるだろうか。