源氏物語大成2016/02/22 20:29

源氏物語評釈(玉上琢也著)は、実家から、リュックで何回も往復して輸送完了で、次は、源氏物語大成(校異編)全6冊。本当は、索引編と研究編があるのだが、もとから所有していない。索引編は、自分で、デジタルデータ化した本文を検索できるCD-ROMを制作したので必要なし。校異編も出来れば、デジタル化して、全ての系統の本文を復元出力出来ればと思っている。

ひな壇の階層的な構造にある種のHierarchie2011/03/03 09:11

 叔母がなくなってちょうど1年。

 幼い時から、おひな様が大好きで近所のあらゆる家を巡り歩いていた。小豆島に預けられていた時も祖父に連れられて、名家、旧家のおひな様を拝見して歩いた。

 どうゆう訳か。源氏物語と言えば、おひな様のイメージを持ってしまう。そこに描かれているのは、純然たる階層社会であり、そういった点に幼い時から違和感を持っていた。

 あのひな壇の階層的な構造にある種のHierarchieを感じていたのかも。そういえば、黒沢監督の映画「夢」も壮大な実物大のおひな様が登場するのがあった。

 ひな祭りの日、あれは、いつ頃の昔であったか、叔母が少女時代に作ったという源氏物語絵巻を見せてくれた。「Fちゃん(母親)と一緒につくったのよ。」ということだが、妙に、光源氏の顔がイヤラシイマセタ感じのする青年に描かれている。おひな様の様な人形の体型でなくて、西洋画風のプロポーションで描かれているので余計に猥雑になってしまう。

 装束は、やはり、おひな様を参考にしたという。女君達の冠にそれが現れている。斎宮の冠なんて、あんなだったかしらなんて、かんがえながら小一時間も見入っていた。

 「T君は、こういったものが好きなんだね。」と妙に呆れられてしまった。しかし、あんな宝塚風のおひな様、最近の婦人雑誌の劇画に出てくる様な感じ。案外、叔母達は、先を行っていたのかもしれない。

 ○雛の日は古絵巻みて叔母偲ぶ

鳥獣戯画 技法新発見2011/02/15 23:55

鳥獣戯画 技法新発見
http://www.asahi.com/culture/update/0215/OSK201102150122.html

これは凄いニュースだと思う。
実際、和紙を剥ぎ取って2枚にするという方法は、結構、古筆切とか古典の写本等で使用されているが、鳥獣戯画もそうだったとは。

1枚の和紙に裏表で書かれていたものを2枚に剥いで絵巻物にするという方法。

佛大では、そこまでは、習わなかったな。

中島純司先生が、これは、構図的に少しおかしいと言っていた部分で、左右が反対のものがあった様な気がするが、これで謎が解けるかも。

鳥獣戯画というのは、簡単な様で、一番、日本の絵巻物の中で研究・解明が遅れていたのは、構図法に矛盾があったからなので、ただ、単に画面だけみていても駄目で、表装等についても検討しなければならず、「現物をみよ」というのは、本当だと思う。

衝動的に応募2011/02/01 00:17

2011年童子エッセー賞というのがあって、大分前から気になっていたのだが、原稿を書く時間がないというのか何を書くか考えている内に面倒くさくなって、ほったらかし。

原稿を書き始めたのが、今日の11時15分、12時まで(つまり1月31日)が締め切りだったので、超泥縄で原稿を書き始めて、25分で書き上げて、メールでようやく送信。

テーマは、俳句と源氏物語という内容、何も書くことが浮かばなくなると、源氏物語が出てくる。そういえば、佛大の卒論も源氏物語の絵画化の手法なので、何時も、心のどこかに源氏物語のことが残っているのかも。

大学の時は、表現論に関心を持っていたが、表現論をいかにやっても何故、その様な表現が生まれたかといったことは、判らない。

今回の原稿で、やはり、場面表現法が生まれる背景には、和歌があるということや、物語の和歌は、一般和歌とは違った特色があること等を頭に浮かべながら、原稿を執筆した。

殆ど、校正もしていないし、怖いな-。

俳句的に表現されている和歌の特色2011/01/03 09:57

 お正月なので、百人一首の和歌の中で、上の句のみで、俳句になりそうなのを選ってみた。すると、次の24句となった。

 全体の2割強が上の句だけで、季語を備え、単独で意味をなすことが出来る。この様な和歌の上の句の特色として、「に」、「は」、「ば」という接続助詞を伴うことで、これで、下の句につながっていくので、俳句として考えると少し違和感がありそう。

 また、⑤は、竜田川=紅葉ということで、秋の句ととったが、果たして、是非はどうだろうか。

 この様に上の句が俳句的に表現されている和歌の特色としては、上の句で、情景・状況を表現して、下の句で自分の心境や境遇を詠むという方法。すなわち、「場景の中の自分」を読んでいるという、「場面表現的」な和歌が多い。

 例えば、源氏物語の出てくる和歌の大部分が、上の句だけで、場景・状況を表現している作品の割合が、詳しく調べてはいないが、通常の和歌集に比べて多い。つまり、「場面表現」の一部として、和歌が大きな役割を果たしているのだと思われる。

 この様な和歌の表現形式が何時の時代から活発になったのか等、調べてみるとかなり面白いと思う。

 俳句的にみれば、⑨などは、素晴らしくて、現代俳句にもそのままつながる表現だと思う。

①あきのたに かりほのいおの とまあらみ
②おくやまに もみじふみわけ なくしかの(よ)
③はなのいろは うつりにけりな いたずら(に)
④きみがため はるののにいでて わかなつむ
⑤ちはやぶる かみよもきかず たつたがわ
⑥いまこむと いひしばかりの ながつきの
⑦ふくからに あきのくさきの しをるれば
⑧つきみれば ちぢにものこそ かなしけれ
⑨やまざとは ふゆのさびしさ まさりける
⑩こころあてに おらばやおらむ はつしもの
⑪あさぼらけ ありあけのつき(と) みるまで(に)
⑫ひさかたの ひかりのどけき はるのひ(に)
⑬なつのよは まだよひながら あけぬるを
⑭しらつゆに かぜのふきしく あきのの(は)
⑮やえむぐら しげれるやどの さびしき(に)
⑯いにしへの ならのみやこの やえざくら
⑰もろともに あはれとおもへ やまざくら
⑱はるのよの ゆめばかりなる たまくら(に)
⑲たかさごの おのえのさくら さきにけり
⑳あわじしま かよふちどりの なくこえ(に)
21ほととぎす なきつるかたを ながむれ(ば)
22なげけとて つきやはものを おもはする
23みよしのの やまのあきかぜ さよふけて
24かぜそよぐ ならのおがわの ゆうぐれ(は)

『国語・国文学図書総目録』2010/12/25 16:38

 1冊でも研究書を著していたら、先生扱いでいろいろな本の宣伝が出版社から送られてくるが、『国語・国文学図書総目録』は、毎年刊行されているが、国内で、現役で出版されている研究資料や研究所の全てが網羅されているので、研究者必携の書だと思う。

 これが無料サービスで送られてくるなんてありがたいことだと思う。

 源氏物語の項目を捜したが、新しい写本の注釈やDVD等で目を曳いたものがあるが、高価で手が出ない。それ以外には、片桐先生と関大の山本先生との共著の伊勢物語の研究書等が唯一、成果と言えるものかもしれない。

 この総目録、年々薄くなっていく様な気がする。それだけ、国文離れが続いているようだ。僕も、この目録を精一杯活用して、色々な研究を続けられたら思うが、もうそれも諦めている。

 1千万位の研究資金があれば、この総目録に1個か2個位載せる様な研究成果が挙げられるのに、年末ジャンボが当たらない限りは無理だな。

昨晩の夢の中で、こんな研究構想を思いついた2010/12/05 10:18

 昨晩の夢の中で、こんな研究構想を思いついたので、早速、メモしたものをこのブログで紹介してみる。
 支離滅裂であるが、僕が考えているのは、こんな風。

 私の年齢は、既に50歳を過ぎて、老齢期に入っている。源氏物語等の平安朝では、皇族や貴族でも50歳と言えば、天寿をまっとうしたと言える年齢である。源氏物語の若菜下や幻巻等を読んでいても、その様な記述に行き当たる。

 そうした中で、後、数ヶ月で、私の身辺の経済的な命運も尽きかけている状況なので、これまで研究して来たことをまとめてみようかと思っている。

 ①修士論文「光源氏の言葉」の改訂

  修士論文「光源氏の言葉」は、その研究手法として、統計的な分析手法を用いようとしたが、これは、本来、これは、別の研究ジャンルに属するので、「統計的解析で把握出来る源氏物語の構造」という論文に分けようとと思う。そうして、場面中における発話表現を光源氏と他の登場人物とで、幾つかの要素を設定して、それらを分析、比較する作業を中心に、場面における「光源氏の言葉」と発話表現について考察した論文に書き改めようと思う。

 ②新論文「源氏物語の構造研究の新展開 
             ユニットとしての場面展開の特性について」

 ①を踏まえて、新論文を考えたのが、このテーマである。この論文の基礎研究として、以前、学位論文として制作した「源氏物語の絵画化の手法」の内容を更に発展させて、この論文のもう1本の柱とする計画である。

 これまで、拙論「光源氏の言葉」において、源氏物語の発話表現と場面の構造を分析し、この物語のストーリーは、幾つかの場面の組合せによって、展開していくことについての検証を試みた。

 その場面を成立させている要素として、視覚的表現があり、それに関連して、発話表現等の付随的な要素が配置されている。

 一方、場面表現の視覚性に注目されば、物語絵巻という絵画化メディアにおいて、映像と音読(音声・発話表現)の密接な関わりについても注目されるに至った。

 絵巻物は、画像(映像化)されたストーリーユニットの組合せで、享受者に物語の進行を理解させる機能を持っている。ある意味、源氏物語の構想の時点で、そういった視覚化されたストーリーユニットの組合せで構想された可能性もあり得るということ。つまり、その絵巻物の画面・場面の組合せによっては、違った物語の展開を原作者は、楽しんでおり、その中で、最も効果的な組合せを選択しているのではないかとも考えられるのである。

 つまり、作者、紫式部は平安朝における偉大なゲーム作家でありえたのかも知れないということ。

 こうした研究は、現在のゲームメディアや、今後、考えられるこれまで誰もが考えもつかなかった新ジャンルの創造につながると考えている。

 それは、ようやくIPAD等のメディアツールが登場したことで可能になる。
  
 現代のメディア技術の発展による最大の恩恵は、その「可変性」にある。

 つまり、これまでのメディア享受の形態は、その映像や音声、テキストデータ処理技術の発達によって、自由にストーリーユニットの組合せを楽しむことが出来る様になる訳。

 現代のフィクションの作家は、新時代が到来した中で、新らたな作業を課せられる様になるだろう。

 作家は、予め登場人物や場面設定等のデザインを行い、プラットフォーム的なストーリー環境を読者・享受者に提供(既存型のメディア)し、その後、ストーリーユニットの組合せの選択は、享受者に委ねられて、作品自体で自在な変幻と遂げていく。こんな風にペーパーメディアでは、あり得ない様な、作品を作り上げることが可能となっている。

 20世紀の終わり頃から発生、発展を続け、現在、その先鞭・皓歯となっているのが、いくつかロールプレイゲームである。つまり、これは、享受者(ゲーマー)の意志で、場面の組合せを選択肢、更に画面の展開と共にヒロインの性質や能力も連動して変化していくシステムを楽しめる様になっている。

 現在、小説と言えば、ペーパーメディアが中心であり、読者は、固定化されたストーリーを享受する他はないが、IPAD等の電子メディアでは、一応、基本となる場面、映像、文章の組合せが準備されており、定型的な楽しみ方も出来るし、あるいは、読者の趣味による選択、あるいは、偶然性(シャッフリング)によって、毎回、違った作品展開を楽しくことが出来る様になるのではないだろうか。

 つまり、1つの作品でありながら、1つとして同じものはない作品を作ることが出来る様になる。

 そうした中で、一番重要になってくるのが、源氏物語の研究で取りあげた様な精緻な場面設計と効果的な表現である。まさに、これは、現代の仮想空間技術と融合してくる。享受者は、別に文章を読む必要はないのである。ゴーグルを被り、アパターとして、映像空間に浸透していく、そうして、様々な体験を行う。その行為が、作品享受として成立する様になるし、仮想空間のオンライン化を図れば、複数の参加者で、この作品を楽しむことが出来る。


 僕が住宅に興味を持っているのは、まさに現代人の生活空間・人生の舞台としての「家」なのである。

 源氏物語絵巻や、物語本文にも精緻な家屋構造の描写が登場する。

 こうしてみると、源氏物語って凄いと思う。遙か10世紀の時空・年月を遡って、現代のニューメディアの世界を予見していたかのようだ。

源氏物語は、どの系統の本で読んでも、文庫本で読んでも、谷崎や与謝野、寂聴の現代語訳で読んでも、その文学価値はいささかも失われるものではない2010/11/15 16:11

 佛大でお世話になった上野先生の記事が佛大ワールドに載った。
http://www.bunet.jp/world/html/22_11/542_ouryou/index.html

 河内本とかテキスト論と玉鬘論が併記されているが、あまり、こなれていないので、難しい内容になっている。所謂、並びの巻で玉鬘巻の位置づけは重要だが、それと直接的にテキスト論と結びつけるのは、無理である。(自分のコンピュータによる本文解析をやって相関性を見つけることは出来なかった。)

 河内本のテキストデータを持っているが、全巻ではないので、本文の性格を客観的に分析出来ていない。上野先生は、別本系統の本文と類似点が見つかったとしているが、それも単純に論ずることは出来ない。

 大島本(青表紙)も河内本も所詮は、混合本文である。一方、別本については、古い系統の本文もあるが、何せ、青表紙と河内本以外を別本として、池田亀鑑先生が暫定分類してしまったので、そういうことになる。

 本気で、テキスト論をするには、戦前から続いているこれらの本文分類をコンピュータを導入した悉皆調査で、再分類を行って、その傾向を明らかにした上で分類しなければならない。

 源氏物語の内容的な成立論とテキスト論を同じ次元で考える段階には、未だ、源氏物語の研究は至っておらず、誰も、その段階に達している研究者等いないのどうしようもない。

 源氏物語は、どの系統の本で読んでも、文庫本で読んでも、谷崎や与謝野、寂聴の現代語訳で読んでも、その文学価値はいささかも失われるものではない。僕の様な素人は、その程度、源氏物語を楽しんで、精々、絵巻物でも眺める程度で良いと思っている。

あの源氏物語千年紀の勢いはどこへ。2010/09/29 19:59

京都eラーニング塾から久しぶりにメールが届いた。
新規開講講座のご案内だが、以前に比べて、かなり
縮小した感じがある。

あの源氏物語千年紀の勢いはどこへ。
http://info.pref.kyoto.lg.jp/el/general/index.aspx

古典とか地域文化の本質は、地味なものであり、派手な魅力はない。
地域振興プロジェクトとか京都文化博物館とか風俗博物館等々、
もともと古典の地味な部分になんとか現代風の派手な要素を付け加えて、盛り上げようとするが、長続きしない。

三条あかり景色は、別格として、全国で、あかりプロジェクトが流行し、果ては川西市までもが、そういった点灯のイベントをやっているが、どこでも、そこでも、点灯では、やがて飽きられてしまう。

飽きられずに、盛り上がりを続けられるのはなんなのか。
今朝のテレビでは、B級グルメの全国大会の様子が報道されていたが、料理関係は、くいもんという本質に訴求するもので、なんの飾りもないので、良い。

インタビューで、八戸のB級グルメ、煎餅うどんだったかそうゆうのをやっていたが、八戸での地域おこしのイベントとして、音楽祭とか映画祭とかいろいろとお金がかけてやっているが、全然、知名度が上がらず、このB級グルメが一番、全国的に知られていたのをアンケート調査でしって驚愕したとかそういった内容が報道されていた。

本質を誤魔化してのPRとか地域おこしは駄目だと思う。
京都など、もともと、本質的に充実したホンモノの町だとそうではないと思うが、それでも似せものプロジェクトが大杉だと思う。

日本には残っていない物語、歌物語等の断片2010/08/22 08:55

 中国に在住している親戚情報によると、なんと11世紀後半の中国宋時代の王墓の発掘調査の結果、大量の日本の絵巻物や法華経等の日本由来の宝物が発掘されたという。

 メールで送られて来た写真をみると、たしかに源氏物語の一部が絵画化されているが、その描写は、国宝源氏物語絵巻に比べて稚拙であるが、保存状態が非常に良かったのに金泥とか絵の具の色彩がそのまま残っている。

 これ以外には仏教説話の絵巻、日本には残っていない物語、歌物語等の断片もあるようだ。

 当時は、中国との正式な国交は断絶していたが、貴族や平氏等の私的貿易がされていたので、その時に、もたらされたものとみられる。

 日本の古典の宝物は、歴史上、京の都が被った最大の戦災である応仁の乱で、絵巻物、古典籍のかなりの部分が焼失したとみられ、それ以前に中国にもたらされたものなので、調査してみると様々な発見があるだろう。

 僕は、学者ではないが、すごい発見だと思う。きっと、日本のエライ国文学者や美術史研究家が現地調査にいくことになるだろう。

 但し、現時点で、中国政府は、この発見事実報道を公式には、日本政府には、知らせていない。あの朝鮮王朝儀軌を巡る騒動の影響による政治的配慮とみられる。