観音参り2013/06/11 10:15

最近は、西国33カ所霊場参りをやっている。

おいずると言われるちゃんちゃんこみたいなものは、花山院が着用したのがはじめと言われ、背中に持仏等を背負う時に汗による穢れがつかない様に着用したのがはじめといわれる。

霊場巡りでは、おいずるに御朱印を頂くので、それ様のは、第1番札所西岸渡寺(熊野大社)で「南無阿弥陀仏」の名号が記されたものを購入しているけれど、ユニフォーム用としては、南無観世音菩薩と記されたおいずるを着用しなければならない。

観音参りの他の人たちは、ほとんどの人が白衣を着て、白のズック靴(巡礼用)、数珠を持ち、鈴を鳴らして、傘を被っているが、僕は、普段着なので、目立ってしかたがないのである。

通販で販売されているので、これを買おうか。国産品でしかもお寺で買うよりも200円安い。

優雅なインドの国々2011/03/17 23:56

 そういえば、1984年に就職試験を受けた音楽の友社の入社試験問題に、「ラモーの和声法について解説せよ。」というのがあって、色々と悪戦苦闘して回答したことを記憶している。記述試験は合格だったので、きっと、ある程度正しいことを書いたのだろう。(僕は、A新聞、I書店等の一流の出版社等を受けたが、どれも筆記試験は通るのに、面接試験で落ちてしまう。心理検査というのが大きな会社にはあって、それで頭がおかしい奴と思われるか、容貌が醜怪であるとか、つい本音を話してしまうとか、高校の時に某革新系の文学雑誌に小説を投稿していたり、アカであるとか思われたのかもしれない。まぁ、企業や資本家が諸悪の根源であるという思想を持っておれば、どこも合格しないだろう。)

 このところの震災とか原発事故とか色々な鬱陶しい問題が山積している中で、ドイツ音楽は聴く気にもなれず、フランスバロックをバックミュージックに流しながら原稿を書いている。

 この管弦楽組曲「優雅なインドの国々」も愛聴しているCDである。指揮者は、なんと、ヘレヴェッヘで、あのレクイエムとかクラーイ宗教音楽が得意な指揮者とは思えない楽しく優雅な演奏である。

 ラモーの音楽の面白さは、その動感と和声の変化が呼応している点であり、実に色彩の変化に富んでいる。

 「インド風」というのは、こういった動感のことを示しているのだろうか。

 そういえば、私が敬愛する佛教大学の安藤佳香先生の論文にも「インド風」について論じたものがあった様な気がするが、やはり、重心が落ち着いているよりも何か、今、動こうとする様なバランス、構図がインド的なのだとすれば、案外にラモーの音楽と、インド風の仏像との共通点があるのかも知れない。

パワーを対象に放射して初めてみえるモノ2011/02/28 22:58

 今日は、佛大四条センターで安藤先生の講義を受講した。

 今日も、法隆寺の壁画について、以前も同じ内容のお話を聞いたのだが、今日、再度、同じお話を聞いて、別な発見があった。それは、つまり、壁画の配置によって画風が異なるのは、何故かという点について、常日頃疑問に思っていた点で、ある仮説が閃いたから。

 それは、ここでは書かないが、それは、やはり表現上の意図というものがある。もし、法隆寺の金堂壁画が焼失せず、現在まで、残っていたら、仏教絵画史の研究は、かなり、今の様子とは異なっていただろうし、7世紀の仏教の世界観、宇宙観について解明が進んだと思う。

 僕が、安藤先生に惹かれるのは、「ものの見方」である。俳句でも写生とかそうゆうのがあるが、僕は、写生というのは、客観的な分析に基づくものであると思っていた。

 しかし、実際、仏教の根本的な思想を顧みれば、客観的な写生とか分析は、不可能である。つまり、無我の境で、客体の絶対的な分析と認識は不可能であるという点である。

 それは、仏画、仏像でも同じである。つまり、「見る」ということは、凄いパワーが伴うということである。つまり、仏像や仏画等の対象について、自らの意識のパワーを放射し、意識の中に取り込んで、自己の認識との一体化を図って、初めて、新たな分析と発見が可能になる。

 ただ単に目を凝らしてみても駄目だし、数百、数千とみても、自己認識との一体化がされなければ、全く無意味である点である。

 例えば、グプタ朝唐草とか、蓮華文の生命力について、安藤先生は目で見て認識しているが、それが、何故、生命のエネルギーに結びつくか、客観的な説明は不可能で、自己認識の世界で、感じ取ったことなんだと思う。
 
 例えば、蓮華化生とかそういった図案との関連性を説明づけることで、形式的な照明は可能だが、何故、あのパワーが渦巻きを産み出すのかだとか、そういった説明は、実証不可能である。

 安藤先生が物を「見る」時、凄いパワーが照射される。私も先生にお逢いして、そのパワーに圧倒されるというか、感受性の高い人や霊力が強い人にとっては、少し危険な程である。

 しかし、優れたものを感じ取るという眼力と言うものは、本来そうであり、その様な人でなければ、仏教美術の神髄について、直接的に感得することは難しいのではないだろうか。

鳥獣戯画 技法新発見2011/02/15 23:55

鳥獣戯画 技法新発見
http://www.asahi.com/culture/update/0215/OSK201102150122.html

これは凄いニュースだと思う。
実際、和紙を剥ぎ取って2枚にするという方法は、結構、古筆切とか古典の写本等で使用されているが、鳥獣戯画もそうだったとは。

1枚の和紙に裏表で書かれていたものを2枚に剥いで絵巻物にするという方法。

佛大では、そこまでは、習わなかったな。

中島純司先生が、これは、構図的に少しおかしいと言っていた部分で、左右が反対のものがあった様な気がするが、これで謎が解けるかも。

鳥獣戯画というのは、簡単な様で、一番、日本の絵巻物の中で研究・解明が遅れていたのは、構図法に矛盾があったからなので、ただ、単に画面だけみていても駄目で、表装等についても検討しなければならず、「現物をみよ」というのは、本当だと思う。

やっぱり「人間性」やな2011/02/12 13:27

 やっぱり「人間性」やな。

 今月の佛大ワールドを読んでいる。佛大通信が家に届かなくなってからは、毎月引き落とされる寄付金だけがこの学校とのつながりだが、佛大ワールドだけは、ネットで読めるので毎月読んでいる。
http://www.bunet.jp/world/html/23_2/545_meigen/index.html

 別にこの佛大ワールドは、テーマを決めて編集されているのではないのだが、今月は、まさに、「人間性」という部分に焦点が当てられている様な感じがする。

 別にそのテーマを決めて投稿されたり、原稿を集めたりといったことではないのだろうが、この大学の先生方が興味を持たれている点が共通しているのであろう。

「私のこの一冊」その23 中島敦全集

 教育学部臨床心理学科の荒井真太郎先生の文章であるが、高校時代における中島敦の山月記との出逢い、「名人伝」における「道」の概念とその先にある領域に感心を持ったという。

 結局、一芸を極めると、最後に残るのは、弓とかそういったマテリアルではなくて、「人間性」という純化された存在である。

 この作品の「人間性」に光りを当てる時に、作品から更に、作家へと洞察の目が移ってくる。それは、クライアントの「病跡」を追跡・観察する臨床心理学への道とどこかでつながっている。

☆☆☆
 「愛を読むひと」が問う加害者と被害者の両義性

 これは、私が佛大通信社会学部でお世話になった松田智子先生の原稿である。「朗読者The Reader」という映画について文章を書かれている。

 舞台は、第2次世界大戦後のドイツで、主人公は、ナチスドイツの強制収容所での守衛(看守)をしていたハンナという女性と、ミヒャエルという15歳の青年である。

 街の通りで気分が悪くなったミヒャエルは、ハンナに救われる。そのことがきっかけで、ミヒャエルとハンナは仲良くなり、男女の関係になる。彼らの楽しみのひとときは、ミヒャエルがハンナに本の朗読をする時間である。

 ハンナは文盲であった。
 その後、ハンナの仕事上の功績からホワイトカラーに取り立てられるが、文盲なので不可能で、そのことを恥じてか、2人の関係は消滅する。

 その後、数年が経過し、ハンナは、ナチス戦犯で逮捕された。ミヒャエルは、弁護士の卵であったので、その裁判を傍聴する。ハンナは、文盲であることを隠すために終身刑という重罪を受け入れてしまう。

 ミヒャエルは、獄中にいるハンナに本を朗読したテープを送り続ける。獄中のハンナとミヒャエルの人間性は再びテープを媒介に結ばれていた。

 ところが、恩赦になってハンナが出獄して来た時、彼のイメージとは全く異なった老婆になっており、ミヒャエルは愛情を失う。

 ハンナは絶望の余り自ら命を絶つ。

 松田先生は、このミヒャエルとハンナとの関係について、たしかにハンナは、許し難い犯罪を犯したが、実は、ミヒャエルを助けて、その後の関係は、文盲という障害を乗り越えて、2人の人間性の絆は結ばれた。加害者と被害者との両義性と言うのは、実は、人間性の葛藤でもある。

 社会学では、この問題をヒューマニティという視点から扱うが、人間の「愛と苦悩」といった問題にまで、どこまで踏み込むことが出来るのだろうか。

 最後に月々の名言では、坪内捻典先生が何時も文章を書かれている。今回は、会津八一をいう歌人・書家を取り上げている。ひらがな書きの和歌には違和感を覚えるという先生、早稲田大学の演劇博物館に掲げられた学規を目にする。

 一 ふかくこの生を愛すべし
 一 かへりみて己を知るべし
 一 学芸を以て性を養うべし
 一 日々新面目あるべし

     秋艸道人(八一の雅号)
 
 この額がよいと先生は思われた。その理由は、あくまでも学生への要求だが、それは、教師と学生が同じく目指す、人間性への目標だからだろう。

 自己肯定が、第一で、同時に自己批判(分析)も必要である。そうした上で、学芸によって、性「人間性」を涵養し、常に新しいことに興味を持って挑戦する姿勢である。

 いかにも人間性を肯定され、教師、生徒の分け隔てなくて、気さくな捻典先生らしい文章だと思う。

 やはり、「人間性」というのは、否定的なものの見方からは、生まれてこないのだろう。

 そうした視点でみれば、あの松田先生の映画に出てきたハンナと言う女性の姿がオーバーラップしてくるのである。

☆☆☆

 今月の佛大ワールドは、稔典先生以外は、文学と関係無い人たちが文章を書いているので、あまり読む気持ちにはなれなかったが、実際に目にすると内容が濃厚で読むだけの価値があるものだったと思う。

「極楽往生」の話をしているが、母親と同様にスマナサーラ師もそんなものがないという2011/02/11 18:16

 今日、暇つぶしにこれを読んでしまったが、まぁ、面白かった。

 スマナサーラ師のお話よりも寂聴さんのお話の方が、面白かった。残りのゲストは、山折哲雄さん以外は、つまらない。

 この本、学研が出しているが、僕が、科学と学習を購読していた1970年代前半までは、まともな出版社であったが、今は、「とんでも本」のメッカである。

 宗教を否定する共産党系の清風堂さん等は、学研の本は、殆ど置いていない。

 しかし、1つの文化的トレンドとしてみれば面白い。日本文化というのは、グローバルに評価されているのは、アンダーグラウンドやアニメ、ゲーム等で、真面目な宗教や文学等は、世界の動きの中でマイナーな存在である。

 仏教に関しても、世界的な視点でみれば、日本仏教というのは、オウムの信者が語っていた様に「風景」、「観光名所」、「文化遺産」でしかない。

 今、世界の新興宗教のトレンドは、やはりカルトである。仏教系カルトもあるが、カルトと言わなくても、日本語文化圏以外で信仰されているのは、スマナサーラの「テーラワーダ」か、ダライラマのチベット密教である。

 テーラワーダが初期仏教・仏教の始原の姿を示しているというのは、少しおかしいと思うが、日本の既存仏教が、大乗に対する小乗と蔑んできた一方で、本来のブッダの教えとは、かなりかけ離れてしまっている点をみれば、この本を読んでみる価値がある。

 「仏教は宗教ではない。」という宮崎哲弥さんの考え方は、佛大の松田先生と共通しているが、実際のテーラワーダは、チベット系カルトと同様に瞑想があったりして、多分に儀式的である。結局、儀式性が強い集団活動となれば、政治結社から宗教結社、カルトしかないので、やはり、1つの宗教の一派ではないかと覚めた目でみてしまう。

 テーラワーダによれば、如来も菩薩も存在しない。当然、仏像とか仏教芸術等もない。
 じゃあ、あの阿弥陀如来をみて感じられるヒーリング・癒し効果はなんなんだろう。

 自己存在の意識的な否定というのが解脱につながるというが、そうした意識を失ってしまえば、解脱とかそういったことも意味をなさなくなってしまうのではないだろうか。
 テーラワーダの動きについて、浄土系の既存仏教の人が反論も書いているが、結局、どれが正しく、どれが駄目ということはない。

 母親に実家に帰る度に「極楽往生」の話をしているが、母親と同様にスマナサーラ師もそんなものがないという。「出来れば、僕は、阿弥陀如来の側には行きたくないですね。」と述べておられる。
 まぁ、合理的に突き詰めて自己存在を否定することで、色々な苦しみや不安が取り除けるのはよいと思うが、それはなかなか難しいと思う。


 私、個人の考えとしては、ブッダについては、人間ブッダとして、その生き方や価値観を客観的にみていくことが大事だと思うが、2千年以上も経過した人について客観的に評価することは難しいと思う。

林原美術館が危機か2011/02/07 10:36

林原美術館が危機か

岡山の名門企業(株)林原が会社更生法の適用を申請した。
これにより、同社グループのメセナ事業である林原美術館が危機的な状況になっていると思われる。
この美術館には、多くの名宝が収蔵されている。

特に、平家物語絵巻は、各社の平家物語本(例えば、『平家物語図鑑』(小学館)等にも壇ノ浦合戦の部分や一ノ谷合戦が引用されている程、貴重な資料であり、近世期の成立の資料とはいってもこれ以外に匹敵する図像資料は、存在していない。

この他にも岡山の池田家所縁の名宝、装束、文献等多々収蔵されており、これらの貴重な美術資料が資産整理等で各地に分散した場合には、目も当てられない様な状況が予想される。


☆☆☆
(株)林原(岡山市北区下石井1-2-3、設立昭和7年7月、資本金1億円、林原健社長)と関連会社の(株)林原生物化学研究所(同所、設立昭和45年9月、資本金5000万円、同代表、従業員255名)、(株)林原商事(同所、設立昭和37年4月、資本金1000万円、同代表、従業員100名)は2月2日、東京地裁に会社更生法の適用を申請した。
2月2日、東京で金融機関向けの債権者集会を開き、事業再生ADR手続(裁判外紛争解決手続)による再建を断念することを明らかにしていた。負債総額は林原が1277億円、林原生物化学研究所が636億800万円、林原商事が368億4600万円で3社の合計2281億5400万円(グループ間取引を含む)。岡山県内では過去最大の大型倒産となる。
 関係人説明会を2月5日(土)午後2時より岡山市立市民文化ホール(岡山市中区)で開催予定。(株)林原は、麦芽水飴製造業として創業。その後、酵素を利用した機能性糖質を主力とする食品原料メーカーとして研究開発型の独自路線を歩み、全国有数のバイオ関連企業に成長。主力のトレハロースなど機能性糖質の研究から用途を拡大し、菓子・製パン・化粧品業界から医薬品、健康食品等幅広い分野に需要を広げ、高額所得法人の常連として高収益を上げていた。また、林原生物化学研究所、林原商事、太陽殖産を中心にコアグループを形成。微生物・酵素・生命化学・感光色素・バイオ関連などの研究開発を進め、インターフェロンや人工甘味料、バイオ製品などを海外法人を含めたマネジメントグループを通じ供給していた。さらに、林原美術館などメセナ事業にも積極的に取り組んできた。しかし、研究開発費用が負担になる一方、本業の業績も伸び悩み、多額の借入金が経営を圧迫し借入に依存した無理な経営が続いていた。このため、関連子会社をM&Aにより相次いで売却するとともに、平成21年6月にはトレハロース専用工場を建設、本業に注力することで業績回復を目指し、平成22年10月期は年商約281億1300万円(林原単体)を計上していた。

後醍醐天皇2011/02/03 23:37

 後醍醐天皇の建武の新政は、日本史上数すくない「奇跡」である。

 例えば、13世紀も終わり近づいた時に起こった「元寇」で神風が吹いたこと、これは、仏教芸術史でも習ったが、国家の危機存亡なので、降三世夜叉明王に祈祷を行う。その結果、奇跡の神風が吹いたということになっているが、最近の海底考古学の発掘調査でもたしかに大暴風が吹いたことは確認されているが、当時の船乗り達も、この天候異変に気づかない筈もなく、危険を避けて停泊や上陸が出来なかった。つまり、それだけ、海岸の防衛戦が強固であったということで、これは、奇跡というよりも戦略的勝利ということになるだろう。

 一方、それから五十年後の後醍醐帝の挙兵は、西国だけで、二十万騎、全国合計で四十~五十万騎兵の北条氏、幕府軍に尊氏が加勢したといっても、僅か十五万騎で勝利したのは奇跡である。

 後醍醐帝は、勿論、それだけの兵を有してはいなかったが、この帝王の「文化的求心力」によって、多くの武士が帝側に加勢することになり、幕府軍に打ち勝った。

 つまり、プロパガンダの勝利である。更に、そのメディアとしては、皇子を各地に派遣したことが大きい。つまり、人間がプロパガンダの宣伝媒体の役割を果たした。

 しかし、この奇跡も長続きはせず、3年で終わった。つまり、どこかの国の内閣と同じで、マニフェストの不履行と宣伝以外の実際の求心力にかけたのである。

 また、地方行政について具体的なビジョンを示さなかったのが、支持の低下要因である。

 同様の「革命」が行ったのが、明治維新であるが、これは、本質的に異なる。1人の帝王の求心力というよりも、藩閥の実質的戦略の勝利である。つまり、戦力・兵力が幕府軍に優ったことや、建武新政の失敗の轍を活かして、地方行政について、廃藩置県で、分断を阻止して、集権化に成功したから長期政権の維持に成功した。

 権力支配のメディア力と言えば、やはり、ナチスドイツであろう。当時考えられるあらゆるメディアを活かして、「文化的求心力」で人心を掌握したのである。しかし、ソビエト侵攻で敗北した。これは、単なる兵站作戦の失敗とか気象条件の認識の欠如とかいろいろ言われるが、対ソビエト戦では、ナチスは、メディア戦争に敗れて、「文化的求心力」を失ったのである。

その良い例が、ショスターコビッチの交響曲第7番「レニングラード」である。この初演の楽譜がマイクロフィルムに収められて、ナチスの手を逃れて世界各国に送られて、アメリカで、トスカニーニによって初演された。それ以外にもソビエトは、ラジオ放送を駆使して、人民に戦争の貫徹と勝利を呼びかけたのである。

 こうしたソビエトのメディア攻勢にナチスドイツは敗れたのである。

 ナチスドイツは、優れた技術力を持っており、テレビ放送は、連合国陣営に先駆けて実用化に成功していたのにかかわらず、実際のメディア戦争に役立てられることはなかった。

 テレビ放送のメディア力を戦略に徹底的に活かしたのは、アメリカである。

 今、エジプトのムバラク政権が崩壊に瀕しているが、これは、中東地域の非王政国を中心にした「インターネット革命」という新たなメディア革命が、独裁政権の崩壊に導いたのである。

 この歴史的事実・奇跡は、既にテレビが世界のメディアの主役の座から追われたことを意味している。

 ムバラク政権が、国内のテレビ放送局を軍にいち早く掌握させて「メディア支配権」を確保しようとしたが、その効果もなく、「インターネット革命」、つまり、メディア戦争の敗者となった。

 この様に古今東西を問わず、メディアというのは、歴史的奇跡を産み出すが、その後の政権維持について、そのメディア世界の理想を実現すべく、実質的なシステムを構築し得るか否かが、革命政権の長期化の条件になるようだ。

 日本は、今年7月か地デジに変わる。しかし、地デジというのは、こうしたテレビ→ネットというメディアの主流の変化の中で、時代遅れとなっており、地デジに拘るよりも他の国の様にネットワークテレビ、メディアが中心にならない限り、この国のグローバルな「文化的求心力」は、更に低くなり、一層の凋落を招くのではと危惧している。

ニヤ遺跡 画像更新2011/02/02 21:49

 先日の安藤先生の四条センターでの講演で、ニヤ遺跡のことをやっていたので、大分前にGoogleEarthで訪問したところに行ってみた。

 前回は、仏塔がある地点の解像度が低くて遺跡が確認出来なかったが、今回の映像では、仏塔らしきものの起伏とか細部が確認出来る。凄いことだと思う。
 こんな荒涼としたところにあんなに綺麗な仏像壁画があり、しかもそれは、みたこともない様な姿、表現があるので、ニヤ遺跡は、なんど話を聞いても飽きない。


 死ぬまでに、一度でも良いからキジル石窟や敦煌等を訪問してみたが、自分には、無理だろう。
 でも、宇津保物語の俊蔭の様に、魔法の国にいった様なお話を聞いて帰ってくるだけでも面白い。
 安藤先生には、今一度、現地を訪問していただいて、更に新しい図像等を発見して、また、報告していただければ、私にとって、こんなに嬉しいことはない。

 次回は、アジャンタ-のお話らしい。また、時間があれば、受講したいと思う。


シルクロードの仏教絵画2011/01/31 23:43

 今日は、佛教大学四条センターで開催された講座、「仏教絵画を読み解く」の内、「シルクロードの仏教絵画」を受講した。

 安藤先生にお目にかかるのは久しぶりであった。この前の時間に、「源氏物語の色」という講座があり、その為に、田中みどり先生が来られていて、ちょうど、僕が四条センターに到着した時、綺麗な着物をお召しになられた田中先生がいらっしゃった。

 田中先生と談笑している内に、安藤佳香先生が見えられた。久しぶりに拝見したが、やはり、お綺麗であった。それよりも、安藤先生らしいと思ったのは、田中先生の見事な帯の文様にしきりにみられて褒められていた点で、さすが、文様フェチの安藤先生だと思った。

 講義の内容は、以前、拝聴した内容とかなりダブっていたが、貴重なニヤ遺跡やダンダンウィリク遺跡、キジル等の壁画については、印刷物になっていないものが多く、先生が現地で撮影されて来た写真をみる以外になく、それは、講演のスライド以外には不可能なので、同じ資料を何度みても、それは、それなり意義があることだと思った。

 尊像を両手で支える人物についても以前の講演でみた資料が中心であったが、兜跋毘沙門天の足元を支える地天女と二鬼更に、その下に文様があり、これがグプタ朝唐草である点に大変興味が持てた。

 そのルーツが、シルクロードのダンダンウィリク遺跡の出土壁画みることが出来る点、更に、尊像を下から支える人物自体が、グプタ朝唐草によって産み出された生命力というかエネルギーを表している部分が凄いと思う。

 そういった点で安藤先生の仏像や仏教絵画の解釈は、文様のエネルギーと言った部分で根元がつながっており、単なる解釈を超えた一貫性と説得力があるのが面白いと思った。

 3回シリーズ、続けて行けると良いが、平日の昼間なので、時間が許せばということになるだろう。