11.古風・後世風、世々ののけぢめ2009/12/31 10:05

11.古風・後世風、世々ののけぢめ

○さて又、歌には、古風・後世風、世々のけぢめあることなるが、古学のともがらは、古風をまづむねとよむべきことはいふに及ばず。
○又、後世風をも棄てずしてならひよむべし。後世風の中にも、さまざまよきあしきふりふりあるをよくえらびてならふべき也。
○又、伊勢・源氏その外も、物語書どもをもつねに見るべし。総てみづから歌をも詠み、物がたりぶみなどをも常に見て、いにしへ人の風雅のおもむきをしるは、歌まなびのためはいふに及ばず、古の道を明らめしる学問にもいみじくたすけとなるわざなりかし。

 さて、歌には、古い感じのもの、あるいは、後の世を思わせる様な感じのもの、時代によって作風が異なっているが、古典を学ぶ人達は、必ずしも、古風な歌をまず詠めとは言っておらぬのである。

 また、後世風の歌の価値をも認めて倣って詠むことも必要だ。こうした後の世の歌の中にも良いものもあれば、悪いものもあるので、それを良く取捨選択して学べば良い。

 また、伊勢物語、源氏物語等、物語類をも常々良くみておくことだ。総て、自分で歌を詠んでみたり、物語の文章等を常に見て(学んでおくことは)、古代の人の風雅の趣向を知ることは、歌を学ぶだけではなくて、古代研究の学問の為にも大変、役に立つことだ。

○上件ところどころ圏の内にかたかなをもてしるししたるは、いはゆる相じるしにて、その件々にいへることの、然る子細を、又奥に別にくはしく、論ひさとしたるを、そこはここと、たづねとめてしらしめん料のしるし也。

 以上の文章のところどころに圏の中に片仮名で印をつけた。それは、いわゆる合印であった、個々の子細、あるいは別にこころみた評論等、それらがどれに対応するかがわかる様にする為の印である。


*以上、『うひ山ぶみ』の総論編である。
ほぼ1年を費やして、ようやく総論の注釈が終わった。恐るべき怠慢さである。『うひ山ぶみ』の各論は、この倍の文章量である。
果たして、同じ様にブログに書く続けることが出来るのか、とにかく、1年の締めくくりとして、ここまで、終えて置きたかったので、こうして、大晦日に、こんな慌ただしいことをしている自分が情けなくなってくる。

10.すべて人はかならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也2009/12/31 09:46

○さて、上にいへるごとく、二典の次には、万葉集をよく学ぶべし。みづからも、古風の歌をまなびてよむべし。すべて人はかならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也。歌をよまでは、古の世のくはしき意(こころ)、風雅のおもむきはしりがたし。

 さて、これまで述べてきた様な古事記、日本書記の次には、万葉集をよく学ぶべきことだ。そうして、自分でも(万葉集の様な古代人の心を宿した)古風な歌を学びて詠んでみることだ。総て、人はかならず歌をよむべきもの(古今集の仮名序の様に)なる中にも、学問をする人間は、尚更、歌を詠まなくてはどうしようもない。歌を詠めなくて、どうして古き世の風雅の心を知ることが出来ようか。


○万葉の歌の中にても、やすらかに長高くのびらかなるすがたをならひてよむべし、又、長歌をもよむべし。

 万葉集の歌の中では、安らかにのびのびとした歌風を学んで詠んでみなさい。また、長歌を詠んでみなさい。

 現代の国文学の研究、古典の学修の中で、特に欠けているのは、こうした古代の作品の心を実践して自分でも和歌や物語を書くなどの創作活動を行うことである。折口信夫氏は、まさに、20世紀の研究者の中で、この宣長の教えを実践した数少ない人である。

 折口氏の長歌も素晴らしい。かの『死者の書』は、小説として構想されたものよりも、宣長の教えそのままに、長歌を詠む過程で、その叙情性と叙事性を結合せしめ、イメージが小説として、結実したのだと思う。

 現代では、万葉集の朗読、朗唱活動がこうした行いに結びついていると思われる。
 
 佛教大学の田中みどり先生や深沢彩子先生達の朗読活動は、私たちの万葉集、いにしへ心を蘇らせてくれると同時に、古代文学の研究に、新たなインスピレーションを与えてくれているのだと思う。

9.古書の注釈を作らんと早く心がくべし2009/11/09 20:54

 9.古書の注釈を作らんと早く心がくべし

①さて、又、五十音のとりさばき、かなづかひなど、必ずこころがくべきわざ也。

○さて、また、五十音の取扱いかた(区別)、仮名遣い(用法)等を必ず心がけるべき技術である。

 古文の学習でも必ず、歴史的仮名遣いを学ぶが、江戸時代においては、仮名遣いの用法の乱れについては、所謂、四つ仮名を含めて、大きな問題であった。それは、仮名文章が書かれた平安時代から近世に至るまでの日本語の発音の変遷によるところが大きい。

 元禄時代には、「ジ」、「ヂ」、「ズ」、「ヅ」が完全に同音化してしまった。こうした状況を踏まえて1695年には、、『蜆縮涼鼓集』(けんしゅくりょうこしゅう)という、四つ仮名の書き分けのみを専用に扱った書籍が出版された。

 日本語の正確な文章を書く為には、まず、仮名遣い(五十音のとりさばき)を学修する必要があった。

 また、五十音のルーツを学ぶことは日本語の歴史を学ぶことでもある。本来、平仮名、片仮名は、漢字の音を示す、反切を説明するものであり、経典の音義研究に関わるものであった。平安時代中期の『孔雀経音義』や『金光明最勝王経音義』などがあり、「音義」とは、漢字の発音と意味を表した注釈書のことであり、仏教において梵字を漢字や仮名で書き表そうとしたことがその起源である。

「いろは」、「あめつちの歌」、「大為爾(たひに)の歌」等が五十音を学修する為の幼学教材となった。これらの内容については、中公新書の「日本語と辞書」(山田孝雄著)に詳しい。

 関大の国文科に進んでまず、学んだのが、この本であった。大学生といえども、「いろは歌」から始めるのが、国語・国文学を専修したものの宿命なのだ。

②語釈は緊要にあらず。

○語釈は、取りたてて直ぐに必要ではない。

③さて又、漢籍をもまじへよむべし。古書どもは、皆漢字・漢文を借りて記され、殊に孝徳天皇・天智天皇の御世のころよりしこなたは、万の事、かの国の制によられたるが多ければ、史どもをよむにも、かの国ぶみのやうをも大抵はしらでは、ゆきとどきがたき事多ければ也。

○さて、又、漢文で書かれた書物をもまじえて読んだ方が良いだろう。古い書物(仮名表記以前に書かれた資料)は、総て漢字・漢文を用いて記述されている。特に孝徳天皇や天智天皇の時代以降は、総ての物事が、中国の政治制度を模倣した事例が多いので、史書等を読む場合にも、漢文の読解力がなければ、どうにもならない訳である。

 私の場合は、関大生の時はサボっていて、殆ど漢籍を読む稽古をしなかった為に佛大の大学院(通信)にようやく入れてもらった後で、大変な苦労をした。同時に漢文が読解出来れば、国文学関連以外の仏典や西域(敦煌)文書、歴史書等の読解範囲が広がり、世界観が大きく変わったので、現役の大学生の時、もっと学んでおくべきだったと痛感した。

 漢文は受験用という暗いイメージがあるが、人文学の分野の研究者にとっては、必要不可欠なリテラシーである。

④但し、からぶみを見るには、殊にやまとたましひをよくかためおきて見ざれば、かのふみのことよきにまどはさるることぞ。此心得、肝要也。

○ただし、漢文を読む場合には、特に大和魂を堅持して見ないことには、漢文の姿形に惑わされてしまうので、この心得は、肝要なのだ。

やまとことばの表現は素朴で優しい。これに比べて、漢文は論理的で説得力があり、格好が良い。たしかに中国語は、論理的な言語に対して、日本語は、精神的な言葉である。スピリチュアルな面を決して忘れてはいけないのだと宣長は、ここで述べているのだと思う。

⑤さて、又、段々学問に入りたちて、事の大筋も大抵は合点のゆける程になりなば、いづれにあれ、古書の注釈を作らんと早く心がくべし。物の注釈をするは、すべてに大きに学問のためになること也。

○さて、又、段々と学問の世界に入っていて、その大筋について大体、納得・理解が出来る様になったならば、自分なりに古書の注釈を作ってみることである。物の注釈をすることは、総ての面で、学問の為になることなんだ。

 今、こうして、「うひ山ぶみ」について自分なりに注釈・考察を加えているが、必要なことだと思う。

 最近では、学部生はおろか、院生、ひいては、教員に至るまで、自分の専門分野の自分なりの注釈を続けている人があまりにも少ない。

 注釈の作業は、出版を目的にしていなければ、まったく利益(学位とか論文)につながらないので、嫌がってしないのである。

 従って、いつまでたっても注釈書1冊も出せない大学教授の先生さえも存在する。

 かつて近世文学の長友先生は、「注釈全集の1巻も出せないようでは、一人前の学者ではない。」ときっぱりと言われた。

 私の高校時代の恩師であるY先生に、私だけが見せていただいたが、古事記、源氏物語等の古典籍の注釈がビッシリと大学ノートに書き込まれておられた。

「ここの部分がいくら考えても判らないんだ。君は、どう思うかい。」等と尋ねられたこと等が記憶に残り、古典籍の世界にのめり込んでいく機会となった。

 先生は、私の出身校である県立高校の創立に尽力されたが、その合間に地道な研究を続けられておられた。毎朝5時におきて、源氏物語の注釈をコツコツと進めていくのが、何よりの楽しみであるとおっしゃられた。

 注釈を作るということは、自分が研究する古典作品の全体像を確立するということである。この作業を行わずに、いくら、国文学研究資料館の論文データベース等で先行研究をほじくり出して、他者を論って、問題提起を行っても、底の浅さは知れているのである。

 地道な作業を現代の大学教育・研究者の先生方は、忘れてしまわれておられる。

それがオタク(独習者)への道である。2009/09/27 22:47

8.心にまかせて力の及ばむかぎり(本居宣長著 うひ山ぶみ)

 だいぶ間が空いてしまったが続きを読み進んでいくことにする。

①凡て件の書ども、かならずしも次第を定めてよむにも及ばず。ただ便(たより)にまかせて、次第にかかはらず、これをもかれをも見るべし。

これまで紹介した凡ての書物は、必ずしも順番を定めて読まなくても良い。ただ、その折々の都合にまかせて、順番に拘るよりも色々とみる方が良い。

○これもまた、宣長らしい合理的な考え方だと思う。学問を特に独習する場合は、好奇心を持続しなければならないので、飽きては駄目である。また、時間の制約もあるので、順番に拘っていると結局、その本を読みかけのままで、独習が中断してしまうことの方が恐いのである。また、1つの本のみ拘ると、学問分野の「すぢ」すなわち体系、全体像が見えて来ないので、結局は、上達するのが遅くなるのである。


②又、いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず。

また、どんな書物を読む場合も初心者の間は、凡ての文章を翻訳(理解)して読む必要もない。

○いわゆる現代の高校生でも古文が嫌になるのは、逐語訳を先生が宿題にして、更に、それを暗記して試験に臨むという繰り返しでまったく嫌になってしまうのである。私が高校生の時に教わった先生は、授業でほとんど言ってよい程、逐語訳、現代語訳をされなかった。語句の説明、大意の説明、文物、風物の説明、文学史的な解題、簡単な文法の説明等はされたが、所謂、生徒を順番にあてて、逐語訳をさせるといった授業方法をとらなかったので、非常に授業は楽しかったし、今でも古文を読み続けているのも、初心者の間のこうした心がけによるものと思う。

③まづ大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと読みては、又、さきに読みたる書へ立ちかへりつつ、幾遍もよむうちには、始めに聞こえざりし事もそろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也。

まず、頁をペラペラと簡単にめくって斜め読みして、他の本にうつって、色々眺めた後で、また、元の本に戻るといったことを何回も繰りかえしているといままで、判らなかったことも判る様になる。

○佛教大学の通信教育もBカリキュラムの時は、必要なテキストを全部段ボールに詰めて送られて来た。(Cカリキュラムになってテキストは自弁となり、履修に必要なものを買い揃えるといったスタイルに改悪されてしまった。)
 最初は、段ボール箱に詰められて送られて来た書物にウンザリするが、それを本棚に並べる作業をしている内に、ペラペラと眺めたり、漫然と本棚から1つ1つ書物を抜き出して、「何か面白いことが書かれていないかな。」と思ってみている内に、その学問分野の特色が徐々に掴めていく。必要な書物を買い揃えるだけの場合は、こうした楽しみ、「書林の俯瞰」と言った楽しみがないので、理解の範囲が狭くなってしまうことになるだろう。


④さて、件の書どもを数遍よむ間には、其外のよむべき書どものことも学びやうの法なども、段々に自分の料簡の出来るものなれば、其末の事は一々さとし教ふるに及ばず。心にまかせて力の及ぶかぎり、古きをも後の書をも広くも見るべく、又、簡約にしてさのみ広くはわたらずしても有りぬべし。

 さて、これらの書物を数遍読んでいく内にこれ以外に読んだ方が良いといった書物や学習方法に事前に身についていくものなので、その後のこと(学習方法)等を1つ1つ諭し教える必要はない。自分の学習意欲にまかせて、力の及ぶかぎり、古今の書物を幅広くみたり、それ程、幅広くみなくても、きっと(得るものは、)あるだろう。

○独学の面白さは、自分の興味にまかせて広く知識を求めることにあって、くどくどと教師に指導される必要がない点である。それを私は、佛大の通信大学院に入ってから、本当に思い知らされた。通学の大学では、教授が、参考文献目録とか基礎文献目録等を提示して、「これを順番に読んでいきなさい。」と学生に指示するが、この様なことは、親切心で行われていても、結局は、興味を削ぐことになる。

面白いと思った分野、書物については、その書物の中で、取りあげた文献や資料、あるいは事物、場所等は、実際にゲットしてみたり、訪れてみて写真を撮ったりしている内に知識は深まっていく。

それがオタクへの道である。

興味と拘りを常に持ち続けること、自分に興味がないことは、出来るだけ避けて、時間と労力を興味分野に集中化し、深化を図ることが真髄なのだと思う。

 
宣長は、実に面白いことを言っている思う。

7.よく見ではかなはぬ書ども2009/09/09 23:12

よく見ではかなはぬ書ども

①然れども、書紀より後の次々の御代御代の事もしらでは有るべからず。

 日本書紀に記されている時代は、巻三十に書かれている高天原広野姫天皇
(持統天皇)の時代までであり、その後の国史を必ず学ばなければならないのである。

②其書どもは、続日本紀、次に日本後記、つぎに続日本後記、次に文徳実録、次に三代実録也。書紀よりこれまでを合わせて六国史といふ。みな朝廷の正史なり。つぎつぎに必ずよむべし。

 これらの本は、朝廷の正史(六国史)なので必ず順を追って読まなければらない。

 私は恥ずかしいことに修士論文には、三代実録を引用し、京都大学図書館蔵の影印等まで遡ったが、それ以外の史料は、活字までしかみていない。

 又、件の史どもの中に、御世御世の宣命にはふるき意詞ののこりたれば、殊に心をつけて見るべし。次に延喜式・姓氏録・和名抄・貞観儀式・出雲国風土記・釈日本紀・令・西宮記・北山抄。されは、己が古事記伝など、おほかたこれら古学(いにしへまなび)の輩のよく見ではかなはぬ書ども也。

 宣命等は、これらの史書が編纂された時代よりも遙かに古い時代の意詞が残っているので、特に留意しなければならない。

 現代でも延喜式や風土記等は必ず引かれるところである。また、古い言葉を知る為には、和名抄(源順著)を引かねばならない。
 正式な名称は、和名類聚抄であり、平安中期、承平年間に勤子内親王の求めに応じて源順が編纂した。源順は、宮廷の為に多くの教育書を編纂しており、国語史には必ず登場する存在。

 関大国文学科に入学した時にまず、神堀忍先生に山田孝雄著の『日本語と辞書』を参考にして、実際に図書館で、色葉字類抄までの古辞書を必ず実見する様にに命じられたことを記憶している。

 辞書や書誌等の研究基礎文献は、最も重要なものであるが、神堀先生は、これらの文献が疎かにされがちであることを歎かれ、あの特徴のある声で憤られたことを想い出す。
 最後に神堀先生のお声を聞いたのは、ジュンク堂書店(堂島)で数年前であったが、凄く、怒られて店員をしかりつけられておられた。あまり、辞書や書誌に詳しく無い店員が生意気な口を聞いたのであろう。それにしても最近までお元気であった。

③然れども、初学のほどには、件の書どもをすみやかに読みわたすこともたやすからざれば、巻数多き大部の書共はしばらく後へまはして、短き書どもより先づ見んも宜しかるべし。其内に
延喜式の中の祝詞の巻、又神名帳などは、早くみではかなはぬ物也。

 しかしながら、初心者の内は、これらの本を直ぐに読破することは至難の業なので、巻数が多いのは後回しにして、短き文献を先に見ていくのもお薦めである。

 この辺りも宣長らしい合理的精神に溢れている。さりげなく短く書かれている自著(古事記伝)を薦めているのである。
 これも恥ずかしい話だが、岩波文庫の古事記伝が高価なので手が出ないので、家の近くの図書館で『宣長全集第9巻』を借りて来て読んでいる。

 写真の『古事記伝』松阪市の所蔵であり、本居宣長の記念館にも展示されており、私も実物を拝見したことがある。

 『古事記伝』で和名抄を引いている事例としては、第九之巻に「「童女」とは、袁登賣と読むべし。書紀に少女幼女幼婦(ヲトメヲ)、萬葉六に、漁童女(アマヲトメ)など見え、和名抄に小女和名乎登米、童女同上ともあれば、童なるをも袁登賣と云なり」等の引き方をしている。

 つまり、六国史等の基本文献を読んでいくに当たって、どの様に語義を調べ訓んでいくのか、その方法論をも古事記伝は教えているのであり、初学者の学習書としての役割が古事記伝にあることを述べているのだと思う。

6.道をしるべき学び2009/08/30 21:53

①さて、かの二典の内につきても、道をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし。

 古事記、日本書紀の内、道を知ろうとすれば、特に古事記を優先して欲しい。

 古事記や日本書紀を文学書や歴史書としてみる学びのあり方は、特に戦後から20世紀中まで続いた研究姿勢であった。単なる研究資料としての位置づけとしての取り組みは、歴史文献学としては、何らかの成果は挙がっただろうか。 結局、問題となったのは、文学の面では、記紀歌謡と万葉集との関連、これらの作品が現代の我々に何を伝えようとしていたかと言った研究よりも、訓解や、注釈が中心であり、古註を和洗い直して、(現代的)な理解、解釈との齟齬に大部分の研究労力が費やされたのであった。これは、戦前の国粋主義的な考え方への反省でもあったが、不毛の時代が長く続いたといって良いだろう。

 ようやく、21世紀に入って、古事記や日本書紀、そして、万葉集がどの様な「意」(心)で書かれ、我々に何を伝えようとしているかを真剣に考える思潮が今、ここに蘇生したのだと思う。
 「意」をしること、これすなはち「道」である。


②書記をよむには、大きに心得あり。文のままに解しては、いたく古(いにしへ)の意(こころ)にたがふこと有りて、かならず漢意(からごころ)に落ち入るべし。

 日本書記を読むには、大いにその心得が必要なのである。漢文のまま理解しようとすれば、古代の人たちが私たちに伝えようとして「意」と異なった理解に陥ってしまうのである。

 現代の日本書記の研究の立場、中国語の文法や表記、発音等の立場から分析を試みようとする研究者と、「意」の理解を重んじようとする立場とに大きく分かれ、深く対立している。
 それは、古代日本語学等にまで、範囲を広げて対立に及んでいる。
 まったく、宣長の時代とは変わっていない。日本書紀が、日本に渡来した大陸系の人たちが記述したのか、漢文法を学んだ日本人の創作なのかといった点の研究がコンピュータ解析を含めて行われている。
 こうした研究法は、主に、「分巻論」の研究で用いられているが、私は、源氏物語の研究にも応用を試みた。
 しかし、何も得られなかった。そこには、物語に書かれた「意」を理解しようとする観点が欠けていた為である。

④次に古語拾遺、やや後の物にはあれども、二典のたすけとなる事ども多し。早くよむべし。

 佛教大学の卒業研究のガイドブックで、国文学の欄で、U先生が平安文学を担当されて執筆されているが、平安文学の範囲で『古語拾遺』は、平安時代に入るが、内容的には、上代文学と書かれているが、それは、宣長も同様のことを述べている訳である。齋部広也成が大同2年(807年)に編纂した書物であり、平安遷都直後の作品である。
 齋部氏は、天太玉命の子孫とされ、彼の祖神は、天照大神の岩戸隠れの時に、中心的な役割を果たされているという。
 齋部氏の独自の神世から伝わる伝承に加えて、古事記、日本書紀が編纂された時にどの様な「意」が重んじられたかを知ることができる比較的近い時代の資料でもある。
 ところが、津田左右吉が『古語拾遺の研究』で、その史料価値はほとんど見いだせないと述べているのである。
 現代では、むしろ、近い時代の独自資料として再評価されており、それは、宣長の考え方に通じるものがある。

 ところで1773年(安永2年)に奈佐勝皋という人物が『擬齋』という書物を書いており、津田と同様に否定的な言葉をしるしている。『うひ山ぶみ』で、この奈佐の『擬齋』に対して、反対の立場を表明しているのである。

⑤次に万葉集。これは歌の集なれども、道をしるに、甚だ緊要の書なり。殊によく学ぶべし。その子細は下に委しく(くわしく)いふべし。まづ道をしるべき学びは、大抵上件の書ども也。

 「意」を知るには、「歌」の理解も当然必要で、「道」を知ることにつながってくるのである。万葉集にも古い時代の歌が含まれているが、やはり、古事記の神代巻の歌謡の方が、より「意」を伝えているのではないだろうか。

 また、近世に編纂された琉球國の『おもろそうし』にも古態を思わせる歌謡がいくつか収載されている。それは、「歌」の意味もあるが、「かみよのことば」がどの様に用いられていたかの手がかりを得ることができるのである。

5.道の学問2009/08/21 21:22

5.道の学問

ここでいう「道」とは中国の道教の「道」ではない。しかし、果たして、「神道」の「道」だろうか、それも違うだろう。宣長の思想が「神道」の思想そのものではない。「神道」の思想によりながらも、独自の方向性を提唱しており、それがユニークなのである。

こうした思想を「古道」という。

①さて、その主としてよるべきすぢは、何れぞといへば、道の学問なり。

さて、その中心としてよるべきすぢ(分野)がなんであるかと言えば、道の学問である。
 いよいよ、本題に入って来たが、宣長の教えを古道(ふることのみち)とする考え方は、宣長自身が提唱したものであることが判る。

②そもそも此道は、天照大神の道にして、天皇の天下をしろしめす道、四海万国にゆきわたるまことの道なるが、ひとり皇国に伝はれるを、其道はいかなるさまの道ぞといふに、此道は、古事記・書記の二典に記されたる、神代・上代のもろもろの事跡のうへに備はりたり。此二典の上代の巻々をくりかへしくりかへしよくよみ見るべし。

 ここでは、中心となるテキストとしては、古事記・日本書記の特に神代、上代巻を中心に繰り返し、精読することであると述べている。「道」であっても、その寄る辺とすべきは、テキスト(文献)なのであり、これは、どんな人文学でも、テキスト(本文)が基本であると述べている。

 宣長の時代には、古事記や日本書紀が初学者にも容易に入手出来る様になっていたことが判る。

③又、初学の輩は、宣長が著したる神代正語を数十遍よみて、その古語のやうを口なれ知り、又、直日のみたま・玉矛百首・玉くしげ・葛花などやうの物を入学のはじめより、かの二典と相まじへて読むべし。

 しかし、テキストだけでは、なかなか馴染み難いことであるから、宣長の著した注釈書は、二典に比べて判りやすく書かれているので、なんどもなんども繰りかえして読むことで、古代の言葉遣いになれることが出来る。

 恥ずかしながら、宣長の書物としては、直日のみたま、玉くしげは読んだが、それ以外の書物については、読んでいないで、ここでどうのこうのと述べる資格は私にはない。

 古典の学習者では、現代の高校生や大学生でもそうだが、現代語訳を中心を読んでしまいがちである。ところが、原典を何度も何度も繰りかえして読んでいれば、自ずからその言葉遣いになれて意味も、頭からではなくて心から理解出来る様になる。

 これが、「道」であるというのだろうか。

 宣長の注釈書は、江戸時代の学習者が上代語に馴染みやすい様に記されているので、学習・理解の助けになるのである。

④然せば、二典の事跡に道の具備はれることも、道の大むねも、大抵に合点ゆくべし。
 
 この様な学習過程を経て、「道」の理解につながっていくのである。

⑤又、件の書どもを早くよまば、やまとたましひよく堅固まりて、漢意におちいらぬ衛にもよかるべき也。道を学ばんと志すともがらは、第一に漢意・儒意を清く濯ぎ去りて、やまと魂をかたくする事を要とすべし。

 大和魂を「言葉」として理解するのではなくて、「魂」・「心意」として理解する為に、この様な精読の学習を重ねるのである。

 そうして、漢意(からごころ、仏典やそういったもの全てが漢文で書かれているが、単に漢文が書かれている文献という意味ではなくて、本来は日本にはなかった価値観が固有文化として定着してしまっていることに目覚めるべきであると言いたいのだろう。)、儒意(幼い時から儒学によって固められた偏見)の全てを取り去ることで、ようやく日本人本来の心である「大和魂」が見えてくるという。

 確かに古事記は、漢文的な表現もみられるが、その表現したい意図は、神代・上代の日本人が持っていたとされる純粋な心を感じ取ることが出来る。しかし、日本書記はどうだろうか。文法、表記を含めて中国文化の影響を強く受けている事実は否めない。
 この辺りの宣長の考え方に限界を感じるのである。
 
 この講談社文庫の注釈者白石良夫氏は、「宣長は戦略的に漢意(からごろころ)という言葉を使ったのである。」とされている。つまり、自説の独自性・存在価値を示す為には、従来・既存の学問とは、対立的な姿勢を鮮明を示す必要があった為であるとされている。私もその通りである思う。

 こうした宣長の「戦略」に反感を持ったのが、あの上田秋成だと思う。秋成の姿勢は、古典の解釈、研究からあらたな「道」を見いだすというのではなくて、ただ、正しく素直に記紀万葉の意味を読み取って、感じれれば良いという考え方なのだろう。

 そうして、宣長が注釈書や研究書を数多く著したのとは対照的に、中国や日本の古典に題材を求めたオリジナルの作品を創作することで存在価値を主張しているのだと私は思う。


 図は鈴屋の間取図である。家ばかり探しているとこうしたものに目がいってしまう。医院であったこともあり、結構、敷地一杯に無駄なく作られているし、それでも坪庭が配置してあり、きっと心が安まる家であったのだろう。

 詳しく間取り図を辿っていくと、なんと、「佛壇」があるではないか。漢意を廃したと言いながらも、「佛壇」が設えてある。
 学問的には、大和魂を主張しながらも、生活文化にまでは浸透させることが出来なかったのだろうか。

4.志を高く大きにたてて2009/08/17 23:23

志を高く大きにたてて

①さて、まづ上の件のごとくなれば、まなびのしなも、しひてはいひがたく、学びやうの法も、かならず云々してよろしとは定めがたく、又、定めざれども実はくるしからぬことなれば、ただ心にまかすべきわざなれども、さやうにばかりいひては、初心の輩は取りつきどころなくして、おのづから倦みおこたるはしともなることなれば、やむことをえず、今宣長がかくもあるべからんと思ひとれるところを、一わたりいふべき也。然れども、その教へかたも、又人の心々なれば、吾はかやうにてよかるべき歟と思へども、さてはわろしと思ふ心も有るべきなれば、しひていふにはあらず。
 
 さて、こんな風にこれまで述べてきたようであるのでどういった学問が良いとか悪いとか強いていうことは難しく、また、学習・研究方法もこれが必ず良いと定めることも難しい、又、定めなくても実は問題なく、ただ研究・学習者の意思にまかすべきことだけれども、そんな風にばかりいっては、初心者は、取りつきどころがなくなってしまい、自分から嫌になって怠けるきっかけにもなりかねないので、仕方がなく、今、宣長がこうあるべきだと思っているところを一通りのべた訳である。しかしながら、その教え方もまた、人の心であるので、私は、これがこんな風で良いと思っていても、(他の人)からみれば、悪いと思う心もきっとあるだろうから、強制することは出来ないである。


②ただ、己が教へによらんと思はん人のためにいふのみ也。

 だから、私(宣長)の教えに拠ろうと思っている人のみに話しているのである。これまでの宣長が述べて来たことを踏まえて、この書物では、特に宣長の考え方(教え)に賛同するものを対象にしようとしている。つまり、一般論とあくまでも宣長のポリシーを明確に分けて述べようとしている。

③そは、まづかのしなじなある学びのすぢすぢ、いづれもいづれも、やむことなきすぢどもにて、明らめしらではかなはざることなれば、いづれをものこさず学ばまほしきわざなれども、1人の生涯の力を以ては、ことごとくは其奧までは究めがたきわざなれば、其中に主としてよるところを定めて、かならずその奧をきはめつくさんと、はじめより志を高く大きにたててつとめ学ぶべき也。然して、其余のしなじなをも、力の及ばんかぎり学び明らむべし。

 それは、それぞれの学問分野や研究方法、どれをとっても、否定することは出来ないものなので、明らかにしないではいられないことなので、全てを残さずに学んでしまいたいのだけれども、1人の生涯の力では、全てをその奥義まで究めることは、到底出来ないので、その中で、最も重要で中心となるところを定めて、必ずその奥義を究め尽くそうと、最初から志を高く(目標を高くもって)努力して学ぶことだ。そうして、最も重要な事柄に加えてその残りの部分についても力及ぶ限り、学習・研究し、明らかにしなければならない。

 どの様な学問分野もそうであるが、まず、どの部分が最も重要か見極めることが大事である。しかし、あまりにも目標を低く設定してしまうと成果が得られない。自分の能力の限界等を踏まえて研究分野・範囲・目標を定めるべきだと述べている。宣長の晩年の文章なので、この様な記述が出てくるのだと思う。特に古事記、日本書紀の膨大な量の中から、何が重要なのかと言う点を見いだすこと自体が非常に難しい。

 源氏物語の研究もそうで、あの膨大な作品を読み通すだけで、大変な労力である。この為、私は、最新の情報処理技術を応用して、これらの問題について対処しようとした。具体的には、コンピュータデータベース(語彙と文章)の作成、分析等を行った。それによって見えてきたものがあるが、全体を貫く様な「心」というか、そういったものを未だ見いだせず、この調査がどの様な「意味」を持っていたのか、未だにまとめることが出来ない。一方、「光源氏の言葉」以来、表現論の研究を中心に行ってきたが、それは、文体、会話文の表現、場面、情景描写を中心としたものであり、それを絵画論にまで発展させたものの、宣長の様な「高い志」がないので、結果に結びつかないでいる。

 「志」と簡単に一言で言っても、それは、人それぞれであり、必ずしも学問の対象の本質につながる訳でもないと思う。しかし、その「志」を、学習・研究の日常生活のポリシーとして、貫き通すことによって、その人にとっては、「一貫性」、「意味」がある成果をいつの日にかまとめることが出来るのではないだろうか。

 写真は、宣長が研究生活を送った家。常に清浄な光と空気の流れがある。シンプルな設計の中に、「志」を活かすことが出来る様に工夫されている。

 「志」とは、「日常生活」そのものでもある。知識の混沌とした部分を清明に変えるという宣長の「志」の「生活実践の場」でもある訳だ。

 それが、次に述べる「道」という考え方につながっていく。

3.「怠りてつとめざれば功はなし」2009/08/16 01:07

3.「怠りてつとめざれば功はなし」

 最も、「うひ山ぶみ」では、多くの人々に引用されて来た章段である。

①詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学ぶやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。

結局、学問は、どんな学び方でも良いから長い年月を絶え間なく、努力を続けることが最も重要である。(係り結びの用法が不適当な宣長らしからぬ文章だと思う。)

 まぁ、当然のことである。長続きしようと思えば、自分に合ったやり方でしか、残っていかない。大学院で博士課程をおえても、スーパーのレジ打ち等の仕事に追われて、もう、学問も何もかも離れてしまっている人もいる。

 大学在学中は、院を含めても精々10年位なのだが、その後、研究職につけないことも多く、その場合、諦めてしまって、すっかり怠惰になり、日常の暮らしに追われてしまうのが人の常であると思う。
 

②いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば、功はなし。

 先生が薦める様な学習方法でも、怠けて努力しなかったら全然効果はない。
 僕の場合は、不謹慎だと思うが、テキストを寝転んで読んだり、電車の中で読んだり、気楽に出来る方法を選ぶことにしていたので、佛大通信のテキスト履修もなんとか続いたのだと思う。

③又、人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才・不才は生まれつきたることなれば、力に及びがたし。

 人間の才能の有り無しで成果は大きく違ってくるが、これは、生まれつきなので、仕方がない。


④されど、大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有る物也。

 しかしながら、才能が無い人でも、サボらず、努力をつづければ、それなりの成果を挙げることが出来る。

 モーツアルトとサリエリの関係の様だ。実際には、凡才であったサリエリの方が、努力家であった様で、長生き出来たので、宮廷楽長にまでなることが出来た。モーツアルトは、30歳そこそこで、病死した後、貧民墓地に投げ込まれた。(映画で白い消毒用石灰をかけられている有様が目に浮かぶ。今でも鳥インフルエンザで殺処分された鶏の死骸には、石灰がかけられており、有効な消毒手段であったようだ。)

 サリエリの様な才能がない人は、努力しても仕方がないと思う。
 むしろ、才が発揮出来る分野にうつった方が、人生は幸せになれる筈だと私は思うが、そうでない人もいるようだ。

⑤又、晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外、功をなすことあり。

 佛大で最高齢で通信大学院で博士号を取得した方が、06年の3月に表彰を受けた。私もどうゆう訳か表彰されたので、側で、眺めていたが、晩年になると、つとめはげむこと自体が、生き甲斐になってくるので、功などどうでもよくなり、努力を続けるので、無欲による大きな成果だと思う。

 功、功と言っている輩ほど、功をなさぬものだと思う。

⑥又、暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも功をなすもの也。

 これも、通信生の為にある様な言葉だと思う。時間がないと時間を効率的に使う方法を習得することになる。

 時間の大切さを知って、無駄を省く取捨選択の作業が必要になり、その選択の作業の中で、現在、学習している事項の中で、何が一番重要なのかを常に考え続けることになり、短時間だとかえって集中出来るので、質の高い学習・研究が出来ることになり、成果につながるのだと思う。

 宣長自体の古典の研究も医者の副業として、晩年の学問として修得されたものであり、又、賀茂真淵とのたった1回のスクーリングと往復書簡による通信教育で行われたのである。

 そういえば、学習会の時にも似たようなことをおっしゃられている先生がおられた様な気がする。

 写真は、本来の鈴屋が建っていた跡。

2.「みづから思ひよれる方」2009/08/14 23:15

2.「みづから思ひよれる方」

 「うひ山ぶみ」第2段は、前の「すぢ」についての続きであるが、この「すぢ」と学ぶ物の志向方向のベクトルである「思ひよれる方」の関係について、宣長は述べている。

 簡単に言えば、「志望」、「志願」であるが、佛教大学通信教育部は、無試験で入学出来るが、一応、申込書に「みづから思ひよれる方」についての100字程度の作文を書かせられるし、3回生になれば、論文テーマの調査票にもこの「思ひよれる方」について書く必要がある。

 特に3年次編入の通信生がいきなり、「論文テーマ」といっても、「思ひよれる方が定まっていないので、困惑するし、論文草稿許可が下りてからテーマを変えるというケースも出てくるのである。

 「すぢ」から「思ひよれる方」を見いだすのが、研究・学習の第1歩なのである。

①大かた件のしなじな有りて、おのおの好むすぢによりてまなぶに、又、おのおのその学びやうの法も、教ふる師の心々、まなぶ人の心々にてさまざまあり。

 大体、学習を志すものは、前回示した様なテーマ(学問分野)を「思ひよれる方」(志望・志向)によって、選択して学ぶが、人それぞれの心(考え方、ポリシー)が、パーソナリティによって異なっているので、指導を受ける教師の考え方もパーソナリティによって様々なので、その研究、学習の方法は、多種多様になってしまう。

 つまり、教授・教師の研究指導についても、人それぞれ考え方によって異なるし、学生の考え方や興味を持つ方向も異なっているのに、研究指導を行わなければ、ならない難しさをここでは指摘しているのである。


②かくて学問に心ざして入りそむる人、はじめよりみづから思ひよれるすぢありて、その学びやうもみづからはからふも有るを、又さやうにとり分きてそれを思ひよれるすぢもなく、まなびやうもみづから思ひよれるかたなきは、物しり人につきて、「いづれのすぢに入りてかやからん。又、うひ学びの輩のまなびやうは、いづれの書よりまづ見るべきぞ」など問ひ求む、これつねの事なるが、まことに然あるべきことにて、その学びのしなを正し、まなびやうの法をも正して、ゆくさきよこさまなるあしき方に落ちざるやう。又、其業のはやく成るべきやう、すべて功(いさを)多かるべきやうを、はじめより、よくしたためて入いらもほしわざ也。

 最初から、研究テーマや方向性、興味の対象が決まっている人は、自己能力で、その研究、学習方法も見いだして、進むことが出来るが、一方で、そんな研究テーマや方向性、興味が最初から決まっていない人は、物知り人(教師やそのすぢに詳しい人)の教えを受けて、
 「どの様な分野、方法を選んだら宜しいでしょうか。又、その入門書は、どんなものがお薦めですか。」等を質問して求めることは、世の中の常である。

 これは、本当にもっともなことであり、その学習や研究に取り組み態度や学習や研究方法そのものを矯正して、間違った方向に陥らないように方向修正を行い、又、研究や学習を進めて大きな成果を早い段階で得ることが出来る様な効率的な研究、学習方法を知っておきたいものである。

 結局、多くの学生がテーマを見いだすことに苦労するが、その様な人は、良い教師について、その研究テーマ、研究方針、研究方法を早い段階で身につけることの大切さをここでは、述べている。

③同じく精力を用ひながらも、そのすぢそのまなぶやうによりて得失あるべきこと也。
 研究方法次第で、同じ労力、時間を消費しても、成果に大きな差が出てくるのである。

④然はあれども、まづかの学びのしなじなは、他よりしひてそれをとはいひがたし。大抵みずから思ひよれる方にまかすべき也。

 しかし、そうであっても、研究や学習方法は他人から強制されるものではなくて、大抵は、「思ひよれる方」に従って自発的に進めなければならないのである。

 私の経験では、興味や学習方法は、結局は、教えられた通りやるものではなくて、早く、「思ひよれるすぢ」を見いだして、自律的に進めていかなければ、学問や研究そのものへの興味さえも失ってしまうものである。

⑤いかに初心なればとても、学問にもこころざすほどのものは、むげに小児の心のやうにはあらねば、ほどほどにみづから思ひよれるすぢは必ずあるものなり。

 学問を志す者はもう子供ではないのだから、それぞれにおいて、自らの志望、志向は必ず見つかるものである。

⑥又、面々好むかたと好まぬ方ども有り、又、生まれつき得たる事と得ぬ事ども有る物なるを、好まぬ事得ぬ事をしては、同じやうにつとめても、功を得ることすくなし。

 生まれながらに人は好き嫌いがあり、更に才能がある分野と無い分野があるので、嫌いなこと、不得手な事を、その分野が好きな人、才能がある人と一緒に努力しても成果を得ることは非常に少ないのである。

 まさに私もその様な勝手な人間だと思う。しかし、現代社会は、その様な勝手を許さない。学歴や資格を得る為に履修単位が必要だから、渋々、嫌いでも不得手でも、その講義を受けたり、卒論に取り組んだりしている学生達がいかに多いことか。

⑦又、いづれのしなにもせよ、学びやうの次第も、一わたりの理によりて「云々してよろし」とさして教へんは、やすきことなれども、そのさして教へたるごとくにして、果たしてよきものならんや、又思ひの他にさては、あしき物ならんや、実にはしりがたきことなれば、これもしひて定めがたきわざにして、実はただ其人の心まかせにしてよき也。

 又、どの様な学問分野にしても、研究方法について「1つの理想」のみが絶対であるとして教える。機械的に教えることは簡単であるが、そんな指導方法を採って本当に良いものだろうか。教師にとっては、それが理想的な方法にとっても学生や生徒にとっては、非常にやりにくく、悪い結果を生む事になるかもしれないのである。だから、研究指導は、実際には、本人の意思を尊重して行われるべきなのである。

 なにか、現代の佛大の修論中間発表会とか、大学での現場をみながら、宣長が文章を書いている様な気がする。
 博士課程の学生ですら、「こいつ、「思ひよれる方」か何か、本当にあるのか。」と思うような程度の低い研究発表が全体の8割方を占めており、国文近世文学のN先生の毒舌がそういった学生を叩きのめしていった。 

 こんな風に、覇気や自主性の無い学生が多いことから、論文テーマを提出させて、先行研究がどうのこうのしている内に、自分の姿を失ってしまうのである。

 やがて、大学自体に興味を無くしてしまって、中途退学につながっていく。私も関大の時は、その様な弊害の中で受動的な学習態度であったので、ほとんど何も得るものはなかった。

 佛教大学の通信大学院に入って、研究テーマから日常的な学習態度、研究方法まで、自分で開拓、開発する面白さ、楽しさを得たから今の自分があるのだと思っている。

 写真は宣長の旧宅の書斎に上がる階段。