版画です。 ― 2013/03/28 18:49

最近は、織田繁画伯のメゾチントの銅版画を集めています。
もうかなり集まってきました。
これはお気に入りの一枚です。
額が安いものしか買えませんでした。
もうかなり集まってきました。
これはお気に入りの一枚です。
額が安いものしか買えませんでした。
過去から現在に至る時間の経過が絵と経典とが同調して連続的に示されている点が画期的 ― 2009/12/08 23:16

今日は、お釈迦様が悟りを開かれた日なので、久しぶりに絵因果経等を開く。
この場面が一番、気に入っている。
悪魔を退けられて悟りを得られる場面である。(降魔成道)
この辺り、イエスの生涯にも似ていないことはない。
背景の区切りに奇妙な形をした山塊が描かれているのが実に面白い。例えば、源氏物語絵巻の関屋等の構図を比較してみれば良い。なにか、こちらの方が、時空を超越した色々な出来事が起こっている様な気がして、漫画をみる様な面白さがある。
この絵因果経は、上品蓮臺寺本で奈良時代に日本に伝えられた絵巻であり、日本の絵巻物の元祖ともいうべきものである。
厳密に言えば、物語絵巻等とは、本質的に異なったもので、釈迦の生涯を描いた場面の下に相当する経典が配置されており、日本の平安時代の絵巻ものが詞書と絵画部分が分離しているのに比べて、より、シーケンシャルなのである。
つまり、過去から現在に至る時間の経過が絵と経典とが同調して連続的に示されている点が画期的である。
佛教大学の仏教芸術コースでこの絵巻を取りあげようと思ったが、途中で断念してしまった。
そうして、今は、釈迦の悟りの世界から益々遠ざかろうとしており、なんの為に、佛教大学に通ったのか判らなくなっている。
この場面が一番、気に入っている。
悪魔を退けられて悟りを得られる場面である。(降魔成道)
この辺り、イエスの生涯にも似ていないことはない。
背景の区切りに奇妙な形をした山塊が描かれているのが実に面白い。例えば、源氏物語絵巻の関屋等の構図を比較してみれば良い。なにか、こちらの方が、時空を超越した色々な出来事が起こっている様な気がして、漫画をみる様な面白さがある。
この絵因果経は、上品蓮臺寺本で奈良時代に日本に伝えられた絵巻であり、日本の絵巻物の元祖ともいうべきものである。
厳密に言えば、物語絵巻等とは、本質的に異なったもので、釈迦の生涯を描いた場面の下に相当する経典が配置されており、日本の平安時代の絵巻ものが詞書と絵画部分が分離しているのに比べて、より、シーケンシャルなのである。
つまり、過去から現在に至る時間の経過が絵と経典とが同調して連続的に示されている点が画期的である。
佛教大学の仏教芸術コースでこの絵巻を取りあげようと思ったが、途中で断念してしまった。
そうして、今は、釈迦の悟りの世界から益々遠ざかろうとしており、なんの為に、佛教大学に通ったのか判らなくなっている。
戦国のゲルニカ(追記) ― 2009/03/25 22:16
以前、岩波文庫で「おあむのものがたり」というのを読んだ記憶がある。
戦国時代に生きる武士の妻の生活を描いた作品であるが、良くかけていると思う。実際、戦国時代の下級武士は、いくさ場とその後で、妻の共働きであった。
本物の兜首であっても、そうでなくても首を綺麗に整えて、上官に示さないとご褒美にありつけないので、必死なのである。
戦国女性、おあむの重要な日課は、夫が獲てきた首級の口をこじ開けてお歯黒を塗る仕事である。つまり、今川義元を思い出しても判る様に上級武士は、戦場に赴くときには、お歯黒を塗る等のオシャレをしているのである。
死後1日近く経って死後硬直が解けるのを待って、この作業を行うが、本当に大変な作業だったと思う。
ところで、
大阪城天守閣では、戦国時代のいくさ屏風の展示がされている。いずれも大抵が江戸時代以降に描かれたものである。特に有名かつ悲惨なのは、大阪夏の陣屏風である。例の松平さんが、司会をつとめた歴史番組で、「戦国のゲルニカ」と命名された作品であるが、実にむごたらしい悲惨な光景が描かれている。
不思議なのは、美しい装飾ともにこんなむごたらしい光景が描かれていることで、どの様な場で鑑賞したのだろうか。
戦国時代に生きる武士の妻の生活を描いた作品であるが、良くかけていると思う。実際、戦国時代の下級武士は、いくさ場とその後で、妻の共働きであった。
本物の兜首であっても、そうでなくても首を綺麗に整えて、上官に示さないとご褒美にありつけないので、必死なのである。
戦国女性、おあむの重要な日課は、夫が獲てきた首級の口をこじ開けてお歯黒を塗る仕事である。つまり、今川義元を思い出しても判る様に上級武士は、戦場に赴くときには、お歯黒を塗る等のオシャレをしているのである。
死後1日近く経って死後硬直が解けるのを待って、この作業を行うが、本当に大変な作業だったと思う。
ところで、
大阪城天守閣では、戦国時代のいくさ屏風の展示がされている。いずれも大抵が江戸時代以降に描かれたものである。特に有名かつ悲惨なのは、大阪夏の陣屏風である。例の松平さんが、司会をつとめた歴史番組で、「戦国のゲルニカ」と命名された作品であるが、実にむごたらしい悲惨な光景が描かれている。
不思議なのは、美しい装飾ともにこんなむごたらしい光景が描かれていることで、どの様な場で鑑賞したのだろうか。
岸田今日子さん、生涯最後のアニメ出演 ― 2008/10/26 17:18

先日、ブログに書いた折口信夫原作の『死者の書』の感想を1つ。
http://fry.asablo.jp/blog/2008/10/23/3841379
作品自体は、70分であるが、これだけの長さを人形アニメーションで再現するとなれば、並大抵のことではない。
精緻な人形細工、アニメーション技法、舞台・美術の効果もあり、予想していた以上に価値ある作品に仕上がっている。
何よりも強い印象を受けたのが岸田今日子さんのナレーションで、これがアニメーション生涯最後の出演だったという。
岸田さんの語り方は、幾分、声を落としているが、時空を越えて語りかける独特の質感が表現されていて良かった。
人形は当然、素晴らしい、特に郎女の表情はまるで生きているようだし、アニメーションでは、動きが表現されるが、舞いながら歩いていく様子や、機を織る様子等もリアルに表現されている。僅か十数秒のシーンが1週間以上もかけて撮影されたという。
寺院や奈良都大路等の建築物等も見事に再現されている。実際の1/6大きさで木組みが本当に再現されている。
遠景の山々や町並み等は、大和絵(実に巨大なもの)で描かれており、それが、夢幻の空間の広がりを醸し出す、独特の効果を生んでおり、これも人形アニメならではだと思う。
でも、何よりも驚かされたのは、小道具であり、例えば、郎女が機を織るシーンで数秒位しか出てこない機は、実際に、操作出来る。
この他、蓮糸、布地、敷物、筵も実際に織ったり、編んだりして作られている。
大仏殿のシーンでは、創建当時の大仏が復元されている。これは、信貴山縁起絵巻を参考に再現された大仏様であるし、広目天、多聞天等の脇持には、当時の色彩が復元されている。荘厳は、敦煌等の遺物等も参考にされており、正に仏教文化の集大成と言える。
多聞天が道鏡がモデルだと劇中台詞があったが、これは、時代的に20~30年位厳しいと思う。
川本喜八郎監督は、この作品は、「解脱」をテーマにしているという。時空・彼岸・此岸を越えた大津皇子の執念が、郎女の純粋な心に浄化されていく過程が後半の見せどころであるが、郎女も、皇子というか二上山の神への終着が、仏を感得し、曼荼羅を織り、描くことで浄化されていく場面がクライマックスとなっている。
特に姫君は、最初は二上山の不思議な光に見せられて、彼の地に趣き、そこで、大津御子の怨霊に出逢い、信仰の力で浄化し、皇子から姫に転移したとも言える強い終着が曼荼羅を織り上げることで、浄化・解脱されるということだが、それならば、曼荼羅に描かれている阿弥陀・浄土の世界と姫の心の関わりがどうであったのかという問題についても表現して欲しかった。
でも、それを顕わにすれば、仏教芸術作品となってしまって、広く一般の普遍的な理解が得られなかったということなのだろうか。
こうしたことを考え合わせると、古代への情念について多面的な見方を持っていた原作者折口信夫の描きたかった世界、そのものであるかともなれば、些か疑問点もない訳でもない。
最後のキャプションを見ると、実に多くの人達がこの作品の制作に携わっている。日本の人形アニメーションでは、部類の力作と言えようか。
それにしても、中将姫を演ずる宮沢りえちゃんの唱える「南無阿弥陀仏」の澄んだ声を聴くだけでも、清々しい気分にさせてくれる。
http://fry.asablo.jp/blog/2008/10/23/3841379
作品自体は、70分であるが、これだけの長さを人形アニメーションで再現するとなれば、並大抵のことではない。
精緻な人形細工、アニメーション技法、舞台・美術の効果もあり、予想していた以上に価値ある作品に仕上がっている。
何よりも強い印象を受けたのが岸田今日子さんのナレーションで、これがアニメーション生涯最後の出演だったという。
岸田さんの語り方は、幾分、声を落としているが、時空を越えて語りかける独特の質感が表現されていて良かった。
人形は当然、素晴らしい、特に郎女の表情はまるで生きているようだし、アニメーションでは、動きが表現されるが、舞いながら歩いていく様子や、機を織る様子等もリアルに表現されている。僅か十数秒のシーンが1週間以上もかけて撮影されたという。
寺院や奈良都大路等の建築物等も見事に再現されている。実際の1/6大きさで木組みが本当に再現されている。
遠景の山々や町並み等は、大和絵(実に巨大なもの)で描かれており、それが、夢幻の空間の広がりを醸し出す、独特の効果を生んでおり、これも人形アニメならではだと思う。
でも、何よりも驚かされたのは、小道具であり、例えば、郎女が機を織るシーンで数秒位しか出てこない機は、実際に、操作出来る。
この他、蓮糸、布地、敷物、筵も実際に織ったり、編んだりして作られている。
大仏殿のシーンでは、創建当時の大仏が復元されている。これは、信貴山縁起絵巻を参考に再現された大仏様であるし、広目天、多聞天等の脇持には、当時の色彩が復元されている。荘厳は、敦煌等の遺物等も参考にされており、正に仏教文化の集大成と言える。
多聞天が道鏡がモデルだと劇中台詞があったが、これは、時代的に20~30年位厳しいと思う。
川本喜八郎監督は、この作品は、「解脱」をテーマにしているという。時空・彼岸・此岸を越えた大津皇子の執念が、郎女の純粋な心に浄化されていく過程が後半の見せどころであるが、郎女も、皇子というか二上山の神への終着が、仏を感得し、曼荼羅を織り、描くことで浄化されていく場面がクライマックスとなっている。
特に姫君は、最初は二上山の不思議な光に見せられて、彼の地に趣き、そこで、大津御子の怨霊に出逢い、信仰の力で浄化し、皇子から姫に転移したとも言える強い終着が曼荼羅を織り上げることで、浄化・解脱されるということだが、それならば、曼荼羅に描かれている阿弥陀・浄土の世界と姫の心の関わりがどうであったのかという問題についても表現して欲しかった。
でも、それを顕わにすれば、仏教芸術作品となってしまって、広く一般の普遍的な理解が得られなかったということなのだろうか。
こうしたことを考え合わせると、古代への情念について多面的な見方を持っていた原作者折口信夫の描きたかった世界、そのものであるかともなれば、些か疑問点もない訳でもない。
最後のキャプションを見ると、実に多くの人達がこの作品の制作に携わっている。日本の人形アニメーションでは、部類の力作と言えようか。
それにしても、中将姫を演ずる宮沢りえちゃんの唱える「南無阿弥陀仏」の澄んだ声を聴くだけでも、清々しい気分にさせてくれる。
最後の晩餐 ― 2008/05/28 09:16
佛教大学に在籍しているのにキリスト教美術を扱うとはけしからんという事になるのだろうが、実はイコノロジーの研究は、キリスト教美術の方がずっと進んでいる。
小磯画伯のアトリエの書棚にも中世のイコン等の図像集があり、創作活動の参考にしていたと考えられる。
先日の小磯画伯の聖書挿絵展でも、構図を詳細に検討していくと実に面白いことが浮かび上がってくる。
最後の晩餐のラフスケッチ(展覧会なので、筆写、撮影が不可能なので、完成画を加工してみた)では、テーブルの平行四辺形がまず先に描かれて、次に左上と右上の扉が描かれた。
テーブルの両方の扉の位置は、画用紙の左下角の2本の延長線で結ばれ、右側の線は、キリスト像を透過している。左側の線は、ユダとみられる像を透過している。
更にテーブルの四辺形の右辺と左辺にも恐らく最後の晩餐で重要な人物、ペテロ等が描かれているとみられる。
つまり、真実と虚偽、聖と俗の2つの人間の生き方を示す構図になっているとかそういう説明になるのだと思う。
画伯は、この線を決定した後で、デティールの作画にとりかかったようだ。
聖と俗のテーマは、源氏物語絵巻では、鈴虫巻1では、画面の左端に俗体、中央に尼、右は、鈴虫が棲む前栽を表し、鈴虫の棲んだ声が聖なる存在と象徴され、左の俗から聖への構図構成になっている。
聖書も源氏物語もいずれも画家の着想による構図であると思う。
源氏物語絵巻の構図を研究していると、こうした面にまず目がいってしまうようになった。
悪いのか、良いのか。
小磯画伯のアトリエの書棚にも中世のイコン等の図像集があり、創作活動の参考にしていたと考えられる。
先日の小磯画伯の聖書挿絵展でも、構図を詳細に検討していくと実に面白いことが浮かび上がってくる。
最後の晩餐のラフスケッチ(展覧会なので、筆写、撮影が不可能なので、完成画を加工してみた)では、テーブルの平行四辺形がまず先に描かれて、次に左上と右上の扉が描かれた。
テーブルの両方の扉の位置は、画用紙の左下角の2本の延長線で結ばれ、右側の線は、キリスト像を透過している。左側の線は、ユダとみられる像を透過している。
更にテーブルの四辺形の右辺と左辺にも恐らく最後の晩餐で重要な人物、ペテロ等が描かれているとみられる。
つまり、真実と虚偽、聖と俗の2つの人間の生き方を示す構図になっているとかそういう説明になるのだと思う。
画伯は、この線を決定した後で、デティールの作画にとりかかったようだ。
聖と俗のテーマは、源氏物語絵巻では、鈴虫巻1では、画面の左端に俗体、中央に尼、右は、鈴虫が棲む前栽を表し、鈴虫の棲んだ声が聖なる存在と象徴され、左の俗から聖への構図構成になっている。
聖書も源氏物語もいずれも画家の着想による構図であると思う。
源氏物語絵巻の構図を研究していると、こうした面にまず目がいってしまうようになった。
悪いのか、良いのか。
テアトロ・ムンディ 小磯画伯の描く聖書の世界 ― 2008/05/22 22:58
仕事の取材先の付近に神戸市立小磯記念美術館があるので、昼休みに「小磯良平 聖書のさしえ展」を見学した。
この展覧会は圧巻であった。
日本聖書協会の依頼を受けて、旧約聖書から新約聖書の名場面の大部分を絵画化しており、おそらく国内外を問わず、これだけの規模の宗教作品を完成させた画家は存在しないだろう。
挿絵と言っても75点(下絵含む)を1970年の1年間に全て完成させるというのは至難の技であろう。
今回展示されている挿絵は、笠間日動美術館所蔵で、今回は、トレーシングペーパーに書かれた下絵も含まれている。
エデンの園のギリシャ風の牧歌に始まり、バベルの塔等の旧約聖書の世界から、キリストの誕生、洗礼、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、受難、復活、聖霊降誕、ステファノの殉教、サウロの回心に至るまでの人間史のドラマを辿る事出来る。
今回の展示で最も凄いと思ったのは、各作品の下絵(トレーシングペーパーによる)が含まれている点で、これをみる事で、小磯画伯の創作過程を読み解く事が出来る。
何故、小磯がトレーシングペーパーによるデッサンを残しているのか、生前の様子等を知っている家族に聞いたところ、画伯は非常に慎重な性格であり、簡単な挿絵でも構図の検討をしつこい程重ねていたという。
そうして、創作が次の段階に進んで「前の方が良かったのではないか。(実際に今回の展示でもいくつかある。)」と感じた時に、前の段階に戻れる為に、重要な構図や輪郭線が決定したら、必ず、トレースして記録を保存していたという。
こうした資料を読み解く事が、この画家を今後研究する為の最も重要な史料に成り得る可能性があると言う点である。
小磯良平は、そのデッサン力は、日本の洋画家の中では最も優れている。この聖書の挿絵も無駄な線は殆ど見られず、一気に走り書きした様な生きた線描で描かれている。
しかし、下絵を見れば、それは、霊木化現仏の様に、テクストから感得された聖人のイメージが複雑な線の混沌から徐々に整理されて、やがて美しく無駄の無い1本の線に集約されていくのである。
つまり、小磯は、ミケランジェロが岩石からピエタを彫り起こす様にデッサンを凝縮・結晶させていくのである。
最も、面白かったのは、十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かうキリスト像で、十字架(デッサンb)は、鉛筆で28.4x38㎝の小さな紙にトレースされているが、最初の画面は、十字架を背負って坂道を登っていくキリストとそれを虐め、蔑む兵士や民衆の姿のみが描かれている。
ところが十字架(デッサンa)同じく鉛筆で38x28.4㎝では、室内から見た風景として、家の壁や室内、窓が描かれている。
これは何を意味するのだろうか。それは、視点を直接から間接に転換した事であり、第3者的な視点に転換している。
室内から窓の外のイエスを覗く人々の姿と我々の姿が共通像として投影されることで、人間の悲劇的な宿命を描いたテアトロ・ムンディ(地球劇場)の場面として構図が表現される事になっていく。
更に、水彩と水墨によるスケッチでは、窓枠の描写の解像度が上がって、その窓枠があたかも十字架を象徴させる様にクッキリと描かれている。
聖書の時代にこんな窓枠があった筈はないが、この絵には、この窓枠が敢えて描かれているのは、人類に共通する「原罪」を象徴させる為である。
こうして、スケッチから完成された挿絵までを辿る事で、最初にこの画家がイメージした直接的視点の写実的画像が、構図の概念化の過程を経て、完成されていく過程を観察することが出来る。
「最後の晩餐」(水彩・水墨)も非常に印象的であった。
これにもトレーシングペーパーによるデッサンが存在する。
画面は、ダビンチの最後の晩餐とは対照的な構図であり、テーブルの対角線と画用紙の右上端角の延長線が重なり、その線上にキリストが描かれている。
ところがスケッチには、キリストの姿はぼやけた霊体の様な姿だし、聖人達も同様、しかし、テーブルの示す並行四辺形の形状だけは、明確に認める事が出来る。
つまり、小磯画伯は、最後の場面のテクストを絵画化する際にその象徴として「対角線」、「四角のテーブル」をイメージし、その後で、キリストや弟子達の姿を混沌から写実へと彫りだしていったのである。
こちらの構図法は、まさに十字架のキリストとは逆にやり方である。
つまり、小磯画伯は、一つの構図を聖書や物語のテクストから構想するのに、2通りの方法を採っているという事である。
そして、それには、「構図上の写実と抽象の関係」が最も重要であり、そのコントラストが、結果的に大きな概念世界の表出に収斂されていく訳である。
私は、現在、源氏物語の絵画化の手法を構図を中心に研究しているが、聖書のテキストを小磯なりにテクスト化し、それを下絵デッサンを経て水彩と水墨による挿絵として仕上げる過程を辿る事は、研究を考える上で大いに参考となった。
論文では、第3章までは、具体的な場面の選択と構図の分析、テクストとの関係について論じているが、第4章では、「写実から抽象へ(構図の問題点)」という章を構想している。こうしたやり方は普遍的なものなのだろうか、源氏物語の構図法を考える際に参考にして行きたいと思う。
この展覧会は圧巻であった。
日本聖書協会の依頼を受けて、旧約聖書から新約聖書の名場面の大部分を絵画化しており、おそらく国内外を問わず、これだけの規模の宗教作品を完成させた画家は存在しないだろう。
挿絵と言っても75点(下絵含む)を1970年の1年間に全て完成させるというのは至難の技であろう。
今回展示されている挿絵は、笠間日動美術館所蔵で、今回は、トレーシングペーパーに書かれた下絵も含まれている。
エデンの園のギリシャ風の牧歌に始まり、バベルの塔等の旧約聖書の世界から、キリストの誕生、洗礼、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、受難、復活、聖霊降誕、ステファノの殉教、サウロの回心に至るまでの人間史のドラマを辿る事出来る。
今回の展示で最も凄いと思ったのは、各作品の下絵(トレーシングペーパーによる)が含まれている点で、これをみる事で、小磯画伯の創作過程を読み解く事が出来る。
何故、小磯がトレーシングペーパーによるデッサンを残しているのか、生前の様子等を知っている家族に聞いたところ、画伯は非常に慎重な性格であり、簡単な挿絵でも構図の検討をしつこい程重ねていたという。
そうして、創作が次の段階に進んで「前の方が良かったのではないか。(実際に今回の展示でもいくつかある。)」と感じた時に、前の段階に戻れる為に、重要な構図や輪郭線が決定したら、必ず、トレースして記録を保存していたという。
こうした資料を読み解く事が、この画家を今後研究する為の最も重要な史料に成り得る可能性があると言う点である。
小磯良平は、そのデッサン力は、日本の洋画家の中では最も優れている。この聖書の挿絵も無駄な線は殆ど見られず、一気に走り書きした様な生きた線描で描かれている。
しかし、下絵を見れば、それは、霊木化現仏の様に、テクストから感得された聖人のイメージが複雑な線の混沌から徐々に整理されて、やがて美しく無駄の無い1本の線に集約されていくのである。
つまり、小磯は、ミケランジェロが岩石からピエタを彫り起こす様にデッサンを凝縮・結晶させていくのである。
最も、面白かったのは、十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かうキリスト像で、十字架(デッサンb)は、鉛筆で28.4x38㎝の小さな紙にトレースされているが、最初の画面は、十字架を背負って坂道を登っていくキリストとそれを虐め、蔑む兵士や民衆の姿のみが描かれている。
ところが十字架(デッサンa)同じく鉛筆で38x28.4㎝では、室内から見た風景として、家の壁や室内、窓が描かれている。
これは何を意味するのだろうか。それは、視点を直接から間接に転換した事であり、第3者的な視点に転換している。
室内から窓の外のイエスを覗く人々の姿と我々の姿が共通像として投影されることで、人間の悲劇的な宿命を描いたテアトロ・ムンディ(地球劇場)の場面として構図が表現される事になっていく。
更に、水彩と水墨によるスケッチでは、窓枠の描写の解像度が上がって、その窓枠があたかも十字架を象徴させる様にクッキリと描かれている。
聖書の時代にこんな窓枠があった筈はないが、この絵には、この窓枠が敢えて描かれているのは、人類に共通する「原罪」を象徴させる為である。
こうして、スケッチから完成された挿絵までを辿る事で、最初にこの画家がイメージした直接的視点の写実的画像が、構図の概念化の過程を経て、完成されていく過程を観察することが出来る。
「最後の晩餐」(水彩・水墨)も非常に印象的であった。
これにもトレーシングペーパーによるデッサンが存在する。
画面は、ダビンチの最後の晩餐とは対照的な構図であり、テーブルの対角線と画用紙の右上端角の延長線が重なり、その線上にキリストが描かれている。
ところがスケッチには、キリストの姿はぼやけた霊体の様な姿だし、聖人達も同様、しかし、テーブルの示す並行四辺形の形状だけは、明確に認める事が出来る。
つまり、小磯画伯は、最後の場面のテクストを絵画化する際にその象徴として「対角線」、「四角のテーブル」をイメージし、その後で、キリストや弟子達の姿を混沌から写実へと彫りだしていったのである。
こちらの構図法は、まさに十字架のキリストとは逆にやり方である。
つまり、小磯画伯は、一つの構図を聖書や物語のテクストから構想するのに、2通りの方法を採っているという事である。
そして、それには、「構図上の写実と抽象の関係」が最も重要であり、そのコントラストが、結果的に大きな概念世界の表出に収斂されていく訳である。
私は、現在、源氏物語の絵画化の手法を構図を中心に研究しているが、聖書のテキストを小磯なりにテクスト化し、それを下絵デッサンを経て水彩と水墨による挿絵として仕上げる過程を辿る事は、研究を考える上で大いに参考となった。
論文では、第3章までは、具体的な場面の選択と構図の分析、テクストとの関係について論じているが、第4章では、「写実から抽象へ(構図の問題点)」という章を構想している。こうしたやり方は普遍的なものなのだろうか、源氏物語の構図法を考える際に参考にして行きたいと思う。
朽ち果ててしまった私の骸が見上げた天井には... ― 2008/04/09 21:57
「ああ、身体中が痛む。関節も何もかも、私の身体は朽ち果ててしまったのだろうか....埋葬されてから何世紀たっただろうか。10世紀頃までは、私の身体は棺に覆われていて何も見えなかったが、それから200年絶ち、盗人どもが、何もかも奪い去っていった時、私は、無惨な骸を晒しながら、どこからか隙間から入る光線を通して、薄暗い天井を眺めていた。狭い墓室は、私が生前命じていた通りしつらえられていた。天井には、金色の星宿が輝き、日輪・月輪が銀色の鈍い光を放つ。腐臭の混じった淀んだ空気の底から見上げれば、侍女達の姿が半ば崩れ果てて無惨な姿を見せている。生前には、あんなに美しく華やいだ声で歌を歌っていたのに....」
このブログで書いた様に高松塚の石室・壁画の復元展示は、本来の石室平面が地上よりも数十㎝高く設置されているので、石棺の底の位置から石室内を眺める事が出来る。
これは、折口信夫が「死者の書」で書いていた埋葬者の視線の位置だ。
この神聖な石室は僅かで棺を置けば殆どスペースはない。非常に限られた空間は、埋葬者の為の世界である。空を見上げれば、大宇宙が見え、四方には守護神がおり、生前の暮らしが描かれている。
高松塚古墳は、後世の人間の為の鑑賞物として製作されたものであり、死者の為の神聖な領域だと思う。
それをあの様にバラバラにして、死者を冒涜する様な事をして恐ろしい死の穢れに満ちた災いがきっと起こることだろう。
このブログで書いた様に高松塚の石室・壁画の復元展示は、本来の石室平面が地上よりも数十㎝高く設置されているので、石棺の底の位置から石室内を眺める事が出来る。
これは、折口信夫が「死者の書」で書いていた埋葬者の視線の位置だ。
この神聖な石室は僅かで棺を置けば殆どスペースはない。非常に限られた空間は、埋葬者の為の世界である。空を見上げれば、大宇宙が見え、四方には守護神がおり、生前の暮らしが描かれている。
高松塚古墳は、後世の人間の為の鑑賞物として製作されたものであり、死者の為の神聖な領域だと思う。
それをあの様にバラバラにして、死者を冒涜する様な事をして恐ろしい死の穢れに満ちた災いがきっと起こることだろう。
火星画像処理技術を壁画の復元画像処理に応用 ― 2008/04/07 00:32
関西大学スプリングフェスタ2008でお披露目された高松塚古墳壁画の精密復元展示を見学したが、単なる印刷というよりも凹凸まで復元され、更に、漆喰の立体的な構造と塗料の壁面への付着と剥落までもが忠実に複製されているので、驚いた。
そこでかねがね試してみたいと思っていた。火星撮影処理に仕様しているREGISTAX4.0という画像処理ソフトを画像の復元処理への応用実験を試みてみた。
複製壁画をCANONのIXYDIGITAL70で撮影して、AVIファイル50コマ分を抽出する。
REGISITAX4.0でマルチポイント指定で、アラインメントとスタック処理を行う。
ローカルコントラスト法で精度は、90%を指定。
スタック画像を処理したのが、下段で、上段は同じカメラで撮影したスティール写真である。
そうすると消えていた線や塗装が浮かび上がってくる。特に線描の部分に効果があるのは、白虎の画像で明らかである。
女子像では、髪の毛の生え際や消えていた眉毛、着物の襟に微細な模様があることも判明した。
この原理は、左端の写真と図にある様に凹凸のある壁画の場合は、表面の塗料が剥がれ落ちてしまっていても、凹面の内部に塗料が残存している。ビデオカメラで角度を徐々に変えて撮影すると、残存している塗料の色調や線が画像の表面に浮かび上がってくる仕組み。
但し、広範囲を撮影するとその画像の撮影視差の影響で周辺はボケてしまう。
本来は、顕微鏡レベルのビデオ撮影で同様の処理を行い、複数の画像を合成すれば、驚く程、鮮やかな復元画像を得る事が出来る筈だ。
更に、実際の画像撮影を行って復元処理の実験をしてみたい。
比較の意味で元々のビデオ画像も編集してあるがアップしているので見て欲しい。
http://jp.youtube.com/watch?v=zDSENJSYD48
そこでかねがね試してみたいと思っていた。火星撮影処理に仕様しているREGISTAX4.0という画像処理ソフトを画像の復元処理への応用実験を試みてみた。
複製壁画をCANONのIXYDIGITAL70で撮影して、AVIファイル50コマ分を抽出する。
REGISITAX4.0でマルチポイント指定で、アラインメントとスタック処理を行う。
ローカルコントラスト法で精度は、90%を指定。
スタック画像を処理したのが、下段で、上段は同じカメラで撮影したスティール写真である。
そうすると消えていた線や塗装が浮かび上がってくる。特に線描の部分に効果があるのは、白虎の画像で明らかである。
女子像では、髪の毛の生え際や消えていた眉毛、着物の襟に微細な模様があることも判明した。
この原理は、左端の写真と図にある様に凹凸のある壁画の場合は、表面の塗料が剥がれ落ちてしまっていても、凹面の内部に塗料が残存している。ビデオカメラで角度を徐々に変えて撮影すると、残存している塗料の色調や線が画像の表面に浮かび上がってくる仕組み。
但し、広範囲を撮影するとその画像の撮影視差の影響で周辺はボケてしまう。
本来は、顕微鏡レベルのビデオ撮影で同様の処理を行い、複数の画像を合成すれば、驚く程、鮮やかな復元画像を得る事が出来る筈だ。
更に、実際の画像撮影を行って復元処理の実験をしてみたい。
比較の意味で元々のビデオ画像も編集してあるがアップしているので見て欲しい。
http://jp.youtube.com/watch?v=zDSENJSYD48
北野天神絵巻成立論(未来記との関係において) ― 2008/03/30 22:44

北野天神絵巻成立論仮説(六道めぐり絵→日蔵上人→未来記→宝誌和尚観音化現のつながり)
祟り・怨霊と言えば、北野天神絵巻であるが、第1~4巻が菅公伝、第5~8巻が怨霊譚、第7~8巻が日蔵六道絵巻、第9巻は白描で下絵で終わっている。
この絵巻の成立を考える上で、最大の問題点は、何よりも不思議なのは、道真の怨霊とそれ程関係の無いように見える日蔵上人の六道巡りの巻が最後に置かれている点である。
ここでは、あくまでも私説としてこれまで誰も考えた事がない仮説を述べてみよう。
前回取りあげた『中世日本の予言書』(小峯和明著岩波新書)が大きなヒントになる。
さて、冒頭に書いた日蔵上人については平安中期の伝説的な僧で、三善清行の弟と伝えられている。941年に金峰山で修行中に息絶える。あの世で日本太政威徳天となった菅原道真公と出逢い、家来の邪神らにより、醍醐天皇が死んで地獄に落ちたと伝えられ、冥界で醍醐天皇に会った後、13日後に蘇生したという逸話が残されている。
http://denki.art.coocan.jp/pukiwiki/?%C6%FC%C2%A2%BE%E5%BF%CD
この絵巻が描かれたのが、13世紀前半である事に注目したい。
先に挙げた未来記が成立していた時代とほぼ同時代に当たるからだ。
異界にいる貴人の怨霊と出あい怨霊達の話を聞いて、歴史の裏の真相を知り、未来が語られるというパターンは、この北野縁起絵巻にも当て嵌まり、この絵巻が完成していたら、それは、怨霊史観に基づく「未来記絵巻」として完成していたのではないか。
「未来記絵巻」が描かれる事で、怨霊達の供養と未来の安寧を願い、利益を得たいという意思・目的からこの絵巻が創作されたともとれる。
日蔵上人の逸話は、恐らく、こうした未来記のベースとなった幾つかの説話の中で1つであったのだと思う。
中世の説話は、共通の話形を持った説話が複数存在することが大きな特色であるが、日蔵上人に似た人物として、小峯氏の『中世日本の予言書』にも取りあげられている宝誌和尚という人物に源流を求める事が出来るのではないだろうか。
宝誌和尚(418-514)は、中国六朝時代の梁の国に実在した人物で箴言・予言僧として知られた人物である。
この中で、特筆すべきは、「水陸会」と呼ばれる仏事が存在する事である。これは、日本でも行われている盂蘭盆会の施餓鬼供養にもつながっているらしいが、梁の武帝の夢に神僧が影向し、六道救済の為の「水陸大斉」を行う事を要請したが、誰もその法を知らず、一人、宝誌和尚のみがその方法を知っていたので、彼の指図で始められたと伝えられている。
現在、新知恩院に残っている六道絵は、実は、水陸大斉の模様を描いたのだとの説もある。
宝誌和尚は、また、観音が化現したという説話も伝えられており、その像としては、西往寺にある宝誌和尚木像が有名である。
実に不気味であり、怪奇漫画のモデルになった程。和尚の顔が割れて、観音の顔が洗われているが、これは、これらの説話がもとになっている。
観音信仰と共に宝誌和尚の六道めぐりの説話は、13世紀には、各地で流布していたと見られる。
こうした説話・話形が日蔵上人の六道めぐりと醍醐天皇の怨霊譚として絵巻物に描かれる様になったと見られる。
怨霊鎮めの祈祷として、この未来記が描かれる際に、宝誌和尚の説話は大きな役割を果たしたと考えられる。
天神は雷神として、恐ろしい祟りをなすが、一方で、農耕に恵みの雨をもたらす。また、観音菩薩も化現仏として、現世利益と未来の安寧への祈りが込められている。
未来記を絵巻に描くことは、怨霊・怨霊史観のマイナス面のみならず、そういった現世の人々の為を思って描かれたのである。
祟り・怨霊と言えば、北野天神絵巻であるが、第1~4巻が菅公伝、第5~8巻が怨霊譚、第7~8巻が日蔵六道絵巻、第9巻は白描で下絵で終わっている。
この絵巻の成立を考える上で、最大の問題点は、何よりも不思議なのは、道真の怨霊とそれ程関係の無いように見える日蔵上人の六道巡りの巻が最後に置かれている点である。
ここでは、あくまでも私説としてこれまで誰も考えた事がない仮説を述べてみよう。
前回取りあげた『中世日本の予言書』(小峯和明著岩波新書)が大きなヒントになる。
さて、冒頭に書いた日蔵上人については平安中期の伝説的な僧で、三善清行の弟と伝えられている。941年に金峰山で修行中に息絶える。あの世で日本太政威徳天となった菅原道真公と出逢い、家来の邪神らにより、醍醐天皇が死んで地獄に落ちたと伝えられ、冥界で醍醐天皇に会った後、13日後に蘇生したという逸話が残されている。
http://denki.art.coocan.jp/pukiwiki/?%C6%FC%C2%A2%BE%E5%BF%CD
この絵巻が描かれたのが、13世紀前半である事に注目したい。
先に挙げた未来記が成立していた時代とほぼ同時代に当たるからだ。
異界にいる貴人の怨霊と出あい怨霊達の話を聞いて、歴史の裏の真相を知り、未来が語られるというパターンは、この北野縁起絵巻にも当て嵌まり、この絵巻が完成していたら、それは、怨霊史観に基づく「未来記絵巻」として完成していたのではないか。
「未来記絵巻」が描かれる事で、怨霊達の供養と未来の安寧を願い、利益を得たいという意思・目的からこの絵巻が創作されたともとれる。
日蔵上人の逸話は、恐らく、こうした未来記のベースとなった幾つかの説話の中で1つであったのだと思う。
中世の説話は、共通の話形を持った説話が複数存在することが大きな特色であるが、日蔵上人に似た人物として、小峯氏の『中世日本の予言書』にも取りあげられている宝誌和尚という人物に源流を求める事が出来るのではないだろうか。
宝誌和尚(418-514)は、中国六朝時代の梁の国に実在した人物で箴言・予言僧として知られた人物である。
この中で、特筆すべきは、「水陸会」と呼ばれる仏事が存在する事である。これは、日本でも行われている盂蘭盆会の施餓鬼供養にもつながっているらしいが、梁の武帝の夢に神僧が影向し、六道救済の為の「水陸大斉」を行う事を要請したが、誰もその法を知らず、一人、宝誌和尚のみがその方法を知っていたので、彼の指図で始められたと伝えられている。
現在、新知恩院に残っている六道絵は、実は、水陸大斉の模様を描いたのだとの説もある。
宝誌和尚は、また、観音が化現したという説話も伝えられており、その像としては、西往寺にある宝誌和尚木像が有名である。
実に不気味であり、怪奇漫画のモデルになった程。和尚の顔が割れて、観音の顔が洗われているが、これは、これらの説話がもとになっている。
観音信仰と共に宝誌和尚の六道めぐりの説話は、13世紀には、各地で流布していたと見られる。
こうした説話・話形が日蔵上人の六道めぐりと醍醐天皇の怨霊譚として絵巻物に描かれる様になったと見られる。
怨霊鎮めの祈祷として、この未来記が描かれる際に、宝誌和尚の説話は大きな役割を果たしたと考えられる。
天神は雷神として、恐ろしい祟りをなすが、一方で、農耕に恵みの雨をもたらす。また、観音菩薩も化現仏として、現世利益と未来の安寧への祈りが込められている。
未来記を絵巻に描くことは、怨霊・怨霊史観のマイナス面のみならず、そういった現世の人々の為を思って描かれたのである。
屏風絵三昧 ― 2007/12/07 23:12
今日は、天王寺美術館で開催されている「BIOMBO/屏風 日本の美」を見る機会を得た。
入場者は少なく、ゆっくりと作品を鑑賞する事が出来た。
11世紀平安末期から17~18世紀までの約700年間の屏風絵の歴史を見る事が出来た。
平安末期の屏風絵は、なかなか保存状態が良いものは少ないが、国宝山水屏風は、源氏物語絵巻の画中画として描かれている山水画の姿をそのまま見る事が出来る貴重な作品である。この時代の山水画、近景には、人物が描かれていても、背景の山水と調和し、決して、表面に突出した描かれ方をしない。
日本における山水画の歴史は水墨画に始まるといっている人もいるが、平安時代には、山水の描かれ方、日本独自の技法が出来ていた事が判る。
中世に入って、十界図屏風等の宗教的な主題による作品や、日月山水図屏風等の作品が展示されていたが、これらは、宗教儀式にも使用されたと見られ、独特の世界観を大きな画面で示している。平安時代の山水の描かれ方に比べて山の稜線の形等、雄大で見事に象徴化された精神的な風景を表現している。
その後、室町時代に入って狩野派の四季花鳥図があるが、これらは、写真や印刷物で見れば、つまらないが実物を見ると、鳥の羽毛や、花弁等、実物と見まがう程精緻に描かれている。
桃山時代に入ると、洛中洛外図、風俗絵、豊国祭礼図、関ヶ原合戦図、阿国歌舞伎図屏風、京大阪屏風、住吉大社図屏風等の景観図の展示が多くなる。
これらは、屏風の大画面を活かして仮想の近世都市空間を再現している。雄大な地形等の構図を示すスケール感のある描写と、町人や祭礼、寺社の内部等の細密描写が同居している。
本来は、スケールが異なり、表示する事が出来ないディテールと景観図の同居を可能にしているのが、金色の雲である。この雲のおかげで、全体と細部の調和が見事に採れている。
特に住吉大社図の白砂青松の表現は実に瑞々しく美しい。こうした屏風があれば広々とした気分に浸れるだろうと思った。
現代で一番似ているのは、ジオラマである。屏風は角度が変えられる為に立体的に絵を見せる事が出来る。この事もリアリティにつながっていると思う。
次に目にとまったのは、私が現在研究している源氏物語図屏風である。橋姫、若菜下、柏木等の様々な巻を描いた図を金泥と金雲を配して配置し、屏風として仕上げている。これも金雲のおかげで、源氏物語全体を俯瞰しつつも、全体を1双の屏風絵として仕上げている。
こうして見ていくと、時代を経るに従って屏風絵の表現の方向性が変化していく。これは、屏風が使用される生活スタイルが年代を経るに従って変化して来た為と考えられる。
平安期には、寝殿造りの家屋で部屋の仕切として用いられる様になった。この為、屏風絵は、あくまでも装飾品としての色彩が強い。中世以降は、寺院内部に配置され、密閉された空間でも屏風が配置される様になる。作品内容も宗教的主題や、あるいは、山水画を扱っていても、何か超現実的な描画手法が感じられる。
近世以降は、書院造りの屋敷や城郭の広間等、外界から閉ざされた空間で飾られる様になる。権力を誇示する為の豪華さや装飾品としての役割に加えて、自然や都市景観というものを外界から隔てた存在として、バーチャルに体験するメディアツールとしての役割も担う様になり、ディテール描写の精度も上がっていく。
この他、世界史の教科書にも登場したレパントの海戦等の西洋画、南蛮屏風等もあり、これはこれで、近世文化の一つの側面を伝えており、興味が持たれた。
ひとしきり屏風を鑑賞した後は、一階の常設展を鑑賞する事にする。
常設展では、特集展示「中国の彫刻 山口コレクションを中心に」であり、多くの石窟招来像が展示されていた。ケースにも入れられず、これらの仏達をつぶさに鑑賞出来る事は有り難い事だった。
特に中国の魏晋南北朝時代から唐時代にかけての仏像彫刻が中心であった。
特に量的には、北魏、東魏、西魏時代の如来像(頭部)、釈迦、阿弥陀三尊像、観音菩薩像が多かった。
西暦400年から500年代の中国は、インドからチベットを経て仏教が伝来し、最初の隆盛期を迎えた時代で、多くの大乗仏典の翻訳が行われた。
当時の庶民には、現世利益の面で、観音信仰が活発であった為に、全長数メートル以上の他の菩薩や如来像に比べて遙かに巨大な石像が造られたものと思われる。
一方、如来像は、三尊像が多く、大きさは、光背を含めて高さは、40~60センチ、幅は、20~30センチ、奥行きは、15センチ程度の小型なものが多かった。
蓮台の下の台座や、厨子の回りには、蓮華化生や釈迦の前世の説話等を描いた線刻画が刻まれているが、例えば、中世文学の黒田彰先生の著書『孝子伝の研究』に収載されているような図像も見られ、北魏から西魏の表現様式の共通性が確かめられた。
また、多くのこれらの如来像は、どの仏様か尊格を見極める事が難しく解説にも具体的な如来名が書かれていなかった。
非常に暗い照明の部屋に仏様達だけが、光を当てられている立っている。
こうした如来や菩薩の姿を殆ど誰もいない展示室でじっくり眺めていると何やら心の安らぎが感じられる。
ゆっくりと歩んでいくと、ある三尊像の前で足が止まった。非常に穏やかな柔和な表情の仏様である。何か女性的なものが感じられる。蓮台の下の台座、あるいは光背の部分には文字が刻まれている。
ゆっくりと文字を追っていくと、ある学僧が、母親の供養の為に阿弥陀三尊像を造らせた事が書かれていた。裏には、仏説阿弥陀経が刻まれていた。
1500年の時空を隔てて、仏像が私に語りかけ始めたようだった。
入場者は少なく、ゆっくりと作品を鑑賞する事が出来た。
11世紀平安末期から17~18世紀までの約700年間の屏風絵の歴史を見る事が出来た。
平安末期の屏風絵は、なかなか保存状態が良いものは少ないが、国宝山水屏風は、源氏物語絵巻の画中画として描かれている山水画の姿をそのまま見る事が出来る貴重な作品である。この時代の山水画、近景には、人物が描かれていても、背景の山水と調和し、決して、表面に突出した描かれ方をしない。
日本における山水画の歴史は水墨画に始まるといっている人もいるが、平安時代には、山水の描かれ方、日本独自の技法が出来ていた事が判る。
中世に入って、十界図屏風等の宗教的な主題による作品や、日月山水図屏風等の作品が展示されていたが、これらは、宗教儀式にも使用されたと見られ、独特の世界観を大きな画面で示している。平安時代の山水の描かれ方に比べて山の稜線の形等、雄大で見事に象徴化された精神的な風景を表現している。
その後、室町時代に入って狩野派の四季花鳥図があるが、これらは、写真や印刷物で見れば、つまらないが実物を見ると、鳥の羽毛や、花弁等、実物と見まがう程精緻に描かれている。
桃山時代に入ると、洛中洛外図、風俗絵、豊国祭礼図、関ヶ原合戦図、阿国歌舞伎図屏風、京大阪屏風、住吉大社図屏風等の景観図の展示が多くなる。
これらは、屏風の大画面を活かして仮想の近世都市空間を再現している。雄大な地形等の構図を示すスケール感のある描写と、町人や祭礼、寺社の内部等の細密描写が同居している。
本来は、スケールが異なり、表示する事が出来ないディテールと景観図の同居を可能にしているのが、金色の雲である。この雲のおかげで、全体と細部の調和が見事に採れている。
特に住吉大社図の白砂青松の表現は実に瑞々しく美しい。こうした屏風があれば広々とした気分に浸れるだろうと思った。
現代で一番似ているのは、ジオラマである。屏風は角度が変えられる為に立体的に絵を見せる事が出来る。この事もリアリティにつながっていると思う。
次に目にとまったのは、私が現在研究している源氏物語図屏風である。橋姫、若菜下、柏木等の様々な巻を描いた図を金泥と金雲を配して配置し、屏風として仕上げている。これも金雲のおかげで、源氏物語全体を俯瞰しつつも、全体を1双の屏風絵として仕上げている。
こうして見ていくと、時代を経るに従って屏風絵の表現の方向性が変化していく。これは、屏風が使用される生活スタイルが年代を経るに従って変化して来た為と考えられる。
平安期には、寝殿造りの家屋で部屋の仕切として用いられる様になった。この為、屏風絵は、あくまでも装飾品としての色彩が強い。中世以降は、寺院内部に配置され、密閉された空間でも屏風が配置される様になる。作品内容も宗教的主題や、あるいは、山水画を扱っていても、何か超現実的な描画手法が感じられる。
近世以降は、書院造りの屋敷や城郭の広間等、外界から閉ざされた空間で飾られる様になる。権力を誇示する為の豪華さや装飾品としての役割に加えて、自然や都市景観というものを外界から隔てた存在として、バーチャルに体験するメディアツールとしての役割も担う様になり、ディテール描写の精度も上がっていく。
この他、世界史の教科書にも登場したレパントの海戦等の西洋画、南蛮屏風等もあり、これはこれで、近世文化の一つの側面を伝えており、興味が持たれた。
ひとしきり屏風を鑑賞した後は、一階の常設展を鑑賞する事にする。
常設展では、特集展示「中国の彫刻 山口コレクションを中心に」であり、多くの石窟招来像が展示されていた。ケースにも入れられず、これらの仏達をつぶさに鑑賞出来る事は有り難い事だった。
特に中国の魏晋南北朝時代から唐時代にかけての仏像彫刻が中心であった。
特に量的には、北魏、東魏、西魏時代の如来像(頭部)、釈迦、阿弥陀三尊像、観音菩薩像が多かった。
西暦400年から500年代の中国は、インドからチベットを経て仏教が伝来し、最初の隆盛期を迎えた時代で、多くの大乗仏典の翻訳が行われた。
当時の庶民には、現世利益の面で、観音信仰が活発であった為に、全長数メートル以上の他の菩薩や如来像に比べて遙かに巨大な石像が造られたものと思われる。
一方、如来像は、三尊像が多く、大きさは、光背を含めて高さは、40~60センチ、幅は、20~30センチ、奥行きは、15センチ程度の小型なものが多かった。
蓮台の下の台座や、厨子の回りには、蓮華化生や釈迦の前世の説話等を描いた線刻画が刻まれているが、例えば、中世文学の黒田彰先生の著書『孝子伝の研究』に収載されているような図像も見られ、北魏から西魏の表現様式の共通性が確かめられた。
また、多くのこれらの如来像は、どの仏様か尊格を見極める事が難しく解説にも具体的な如来名が書かれていなかった。
非常に暗い照明の部屋に仏様達だけが、光を当てられている立っている。
こうした如来や菩薩の姿を殆ど誰もいない展示室でじっくり眺めていると何やら心の安らぎが感じられる。
ゆっくりと歩んでいくと、ある三尊像の前で足が止まった。非常に穏やかな柔和な表情の仏様である。何か女性的なものが感じられる。蓮台の下の台座、あるいは光背の部分には文字が刻まれている。
ゆっくりと文字を追っていくと、ある学僧が、母親の供養の為に阿弥陀三尊像を造らせた事が書かれていた。裏には、仏説阿弥陀経が刻まれていた。
1500年の時空を隔てて、仏像が私に語りかけ始めたようだった。
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