仏教学辞典2006/10/25 00:05

こんな本です。結構重いが、活字は大きくて読みやすい。

ここ2週間程、酒を断っていたら、給料日前に幾分の余裕が出来たので、そのお金で仏教学辞典(法蔵館)を購入した。価格は、6千円弱。他にも仏教学に関する辞典は、岩波書店のがあるが、書店には、CD-ROM版のみしかないので、携帯用が欲しかった私は、岩波書店版よりも価格が安いと言う事もあり、これを購う事を決定した。

「世界宗教としての仏教は、東洋文化の根底であり、その精華である。」と言う序文から読み進み内容を眺めてみると、「おうおう、書いてあるは。」

佛大の仏教学概論編纂委員会編の仏教学概論のテキストには、索引や頭注が附しておらず、語句から内容を引き出す事が非常に不便だが、これは、簡単に引く事が出来る。

但し、縁起とか空とかの識とかの説明は、テキストの記述と幾分違ったりする。一番面白いのは、「天」の項目で、天人の五衰の事が記されている。これは色々な説話にも登場するが、無色天の住人である天人も永遠ではないと言う事が良く判る。

体臭とか脇の下の汗とか、「自分の位置を楽しまなくなる。」とかある様だが、なんだか自分の境遇そのものの様な感じがして、私は、なる程、「衰」なんだと言う感じたりする。

肉体が衰えるに従って身体からの分泌物が増え始める。若い頃の腋臭とは違う様だ。内臓の働きが悪くなり、身体の老廃物が増えてくるのだろうか。

仏教学辞典を今まで所有していなかった自分の愚かさを恥じている次第である。

問題:仏性について説明せよ。2006/10/25 12:43

先日の仏教学の最終試験の問題である「仏性について説明せよ。」の回答が正しかったか否か、仏教学辞典で参照してみた。

「仏性」とは、「仏とはなんぞや」と言う事と思う。仏教には大乗と小乗の大きく2種類あるが、最大の違いは、仏性についての観点である。

仏陀が生きていた時代には、仏陀が「ほとけ」そのものであった。しかし、仏陀が入滅するとそうはいかなくなる。そうして、仏陀の教えそのものを「ほとけの教え」→「ほとけ」→「仏性」と見る様になる。


「仏性」には、大きく分けて3種類あるとの観点も生まれた。①先天的に備わっている。②後天的に得る(つまり修行によって)

更に、③②についても元々先天的に備わっていた「仏性」を修行によって開花させると言う観点も出てきた。

これらの考え方が更に発展して、「一切衆生有仏性」と言う考え方が見られる。一切の生き物は仏になり得る本来の性質を持っていると言う事になる。

大乗以前の場合は、仏や菩薩以外の成仏についての考えが見られなかったので仏性論は殆ど問題とされなかったが、大乗仏教は、「仏性論」こそが根本となる。


つまり、「一切衆生有仏性」から、あらゆる者が菩提心を持てば、菩薩行の果てには仏陀になり得ると言う考えから、多くの如来(仏)や菩薩が誕生する事となった。

また、菩薩行は、自覚覚他と言う事であまたの衆生を覚りに導く事で、自ら成仏出来ると言う誓願に基づいて行われる。

佛教大学の宗派である浄土宗では、阿弥陀仏の本願力によって往生を遂げる事が出来るので、難しい修行等をしなくても、お念仏をする事で、在家、僧籍にもかかわらず往生出来ると言う理屈になる。

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私は、「仏性」等、信じていない。
善人は善人であり、悪人は悪人である。

芥川の「蜘蛛の糸」と言う短編で盗賊が虫けらの命を救ったから、お釈迦様が救いの糸を垂らす。しかし、盗賊は後に縋るものを振り払った為にお釈迦様は、糸を断ち切ってしまわれた。

これを「仏性論」の観点から見れば、この「糸」が仏性となる。盗賊の自分だけ助かろうとする行為を自我(エゴイズム)ととるか、死苦から逃れようとする執着と採るかは、ここでは述べない事にする。

ここで重要なのは、十万億土も離れた衆生を成仏に導く筈の「一切衆生有仏性」が、一つの執着に打ち消されてしまった事実である。つまり、仏性は、絶対安定したものではないと言う事をこの短編は示唆している。

ゴータマ・シタルダ(釈迦)は、アートマン(自我)を否定したが、自我とは、個々の存在の性質で過去・現世・来世を通じて変化しないものと言う事で、これは、ある意味「仏性」と包含関係となる。

彼の人(釈迦)は、バラモン教の恐怖的性格の大きな要素であった(輪廻)さえも否定されただろう。しかし、彼の死後、バラモン等の土着の宗教に本来の仏教が染まっていく事が避けられない中で、輪廻や地獄等の思想が取り込まれていく中で、「自我」に変わるものが必要になってくる。

そこで「仏性」論が浮上してくる。もともと「仏性」がある者が何度も転生を繰り返しながら、菩薩行を積み、最後には、「仏性」を蓮の花のように開花させて、如来となり、一切衆生を救う事が出来ると言う位置づけ。

当然、過去・現世・来世の三世を通じた「縁起」・「因縁」にも「仏性」が関わってくる事になる。「仏性」は、すなわち、万物に備わる「因」と言う事になる。一般衆生が「仏」になる事は、縁起に因って導かれた因果という事になる。

龍樹『中論』によれば、「釈迦は、縁起については、戯論であると断じている。」と説明している。

「仏性」・「蜘蛛の糸」=戯論と言う事になる。

そうなれば、「仏性」もすなわち「空性」と言う事になり、この世に仏等存在しない事になってしまう。

解脱による往生を説いた本来の「ブッダの教え」と矛盾すると結論づけられる。

答案にこの様な事を書いた私は不合格になるだろうか。